「読書遍歴(その8)ルポルタージュの世界」
英国に来てまず気がついたことは政治の動向が容易に伝わってくる社会だということであった。まだその地に根を下ろしたばかりの自分にも英国の政治はわかりやすいということを早くも発見した。日本では政党あるいは派閥間の駆け引きが政治であるかのようであるのに対してここでは政治家は国民に語りかけるのだ。
ロンドンに着いて間もなく外国人学生のグループが議会を訪問して議員の話を聞く機会があった。ジェニー・リーという労働党議員が短い話をして最後にタン、タン、タンとリズムの良い英詩を口ずさんで話を終えた。それがどんな文脈で出てきたものかどんな詩であったか私は理解できなかったがそのリズムの心地よさが記憶に残った。彼女はエディンバラ大学卒の労働党の議員で夫は炭鉱夫の息子で学歴のない雄弁で鳴らした労働党左派のアナイリン・べヴァンであった。フェナー・ブロックウエイという年配でベテラン、長身の労働党議員の柔らかい手と握手をした。彼には「日本は共産主義に行こうとしているのですか?」と聞かれた。ちょうど日本では西尾末広が社会党から分かれて民主社会党を結成したころだった。
政治家はごまかしを許されないから最初からごまかそうとしない。嘘をつけば追放されて政治生命を失う。最近でもボリス・ジョンソン首相が首相の座を追われたばかりである。私の在英中1963年には、マクミラン内閣の将来を嘱望されたプロフューモ陸相が辞任に追い込まれるという事件があった。ミス・キーラー事件としても知られている。
英国で生活する以上は王室や政治ばかりでなく人々の生活や社会についても知りたい。そこで恰好なのが『英国民の歴史』(A History of the English People)R.J. Mitchel, M.D.R. Leys) である。760頁に及ぶ大著である。この2人の共著『ロンドン庶民生活史』(A History of London Life)の翻訳がみすず書房から出ている。手許にあるのは前者であるが私が読んだのは項目別に話題を追ったこの方だったらしい。表題の違うこの2冊の書は前後して同じ時期に出版されている。
これは面白い本だった。工業先進国らしく社会の在り方の変化に対応して幾つもの制度が自然発生的に、あるいは試行錯誤的に形作られていく様子が面白い。例えば火災保険会社は自前で消防隊を持っていて保険契約の目印のある建物だけを消火することにしていたがこれでは類焼のリスクは防げない。消防隊が公的に組織されるようになったのはその後である。この辺りは日本のように制度を輸入することによって近代化を推し進めた国と対照的で、思いもよらない苦心が積み重ねられたことがわかった。
『英国民の歴史』の方の目次を見ると「ノルマン人の征服から黒死病まで」、「黒死病からエリザベス(1世)の即位まで」、「チューダーとスチュワート王権の英国」、「オランダのウイリアムからダイアモンド・ジュビリー(1897年)まで」の4部に大別して「普通の英国人の普通の生活」を項目ごとに描いている。ニューヨーク・タイムズはこれを「社会史のあるべき姿、歴史家たちが無視すること請け合いの情報の宝庫」であると絶賛している。このように英国の政治や社会には入りやすかったが海を渡る前に英語の勉強の用意があったように政治や社会についても積み重ねがあった。それは読書とどう結びついていたかを思い出してみることにする。
大學に入るまでは社会の影響はもちろんモロに受けていたはずだが、自覚できるのはせいぜいのところ新聞を通じてのもので受け身のものに過ぎなかった。東京や大阪のような大學のある都市では高校生が政治運動に乗り出す例もあったようだが「質実剛健」一点張りの田舎高校では校則の締め付けが厳しくてささいな跳ね上がりも許されなかった。
大學に入った年に上原専禄教授が小平へ来られて「新聞をどう読むか」という講演をされたのを聴いて目を開かれた。子供の頃は「新聞に書いてあったよ」と言うことは「本当だよ」というのと同義だった。ところが新聞の報道はあまたの出来事の中から選ばれたものであり、それを記事にするかどうか、どう伝えるかで既に新聞社なり記者なりの判断が加えられていることを教えられた。これはその後に来る私の「記者クラブ」批判につながっている。
戦後間もなくの昭和24年(1949年)には、下山(国鉄総裁)事件(7月5日)三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)、など鉄道を舞台にした怪事件が連続して起こった。国鉄が第一次人員解雇30,700人を発表したのは7月6日である。これはドッジ・ライン(経済安定9原則)に沿うもので総司令部(GHQ)が交付した行政機関職員定員法(5月31日)が予定した28万人の人員整理の一環であった。
アメリカによる戦後政策の転換は昭和21年(1946年)の「二・一スト」に対するマッカーサーの禁止命令に求める場合が多いが、労働基本権(憲法28条)を否定する、やはりマッカーサーの指令にもとづく芦田内閣による政令201号(1948年7月31日)がその後の展開を含めてより具体的で、説得的である。「二・一スト」が個別的なストライキ禁止命令であったのに対して政令201号は国鉄、全逓、日教組を始めとして組織労働者の3分の1を占める公務員労働者のストライキを禁止したのである。
政令201号第1条第1項は「公務員は、何人といえども同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議行為をとってはならない」と規定しており、憲法第28条(「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」)を否定、少なくとも骨抜きにするものであった。これに対して国鉄労働組合は各地で反対闘争を計画していた。
昭和24年の3つの事件はこのような緊迫した情勢の下で起った。当然のごとくこれらの事件の裁判は長期にわたって世間の耳目を集めることになるが被告たちは冤罪であることが明らかとなり、真犯人を含む事件そのものは迷宮入りをしている(但し、下記注)。
松川事件の被告が無罪をかち取るまでには作家の広津和郎を中心とする文化人の言論による支援が大きな力となったが、事件の33年後1982年に至っても日向康が大部の『謎の累積』を上梓している。それは事件の内情を知るという一人の人物の「話せばこっちの身が危なくなる。そうだな、三十年経ったら話してやろう」という言葉に引きずられて27年目に引き出した証言を裏付ける作業だった。三鷹事件については『如水会々報』2009年11月号に「三鷹事件六十周年に思う」と題して列車の暴走衝突に現場に居合わせた堀越作治氏(昭和28年卒、元朝日新聞記者)が生々しい体験談を寄せている。車止めを突破した車両の下の男性の温かみはあるが反応のない頭に触れた後で「再びホームへ上がったら、警官に続いて米軍のMPがやってきた。われわれを見ると『ゲラウェイ、アウト』と追い出そうとする。」結局、同行していた警官たちに退去させられたという。そして「当局は大量の人員整理に反対する労組の仕業と疑っているが、それにしてもMPが何であんなに早く来たんだろう、変だな…」と疑っている。
(注)三鷹事件でただ一人の非共産党員で単独犯であることを自ら主張し死刑を宣告された竹内景助はその後数回にわたって無実を主張していたが東京拘置所内で脳腫瘍の治療を認められないまま死亡した。またこの事件については多くの疑問が出されており再審の請求がなされている。)
私の大学時代には占領政治の謀略を疑われたこれらの鉄道事件とは離れた遠い山口県の小村で起った八海事件が耳目を集めた。私は正木ひろし弁護士の『裁判官—人の命は権力で奪えるものか—』(カッパ・ブックス、1955年3月、以下『裁判官』)を読んで異常な衝撃を受けた。今私の手許にあるのはそれに続く正木の第2弾、『検察官―神の名において、司法殺人は許されるか』(カッパ・ブックス、1956年11月、以下『検察官』)と『八海裁判―有罪と無罪の十八年』(中公新書、1969年)の2冊である。
『裁判官』は買ったのではなくおそらく小平の寮の図書ではなかったかと思う。(一年下の寮生2人とこの事件について話し合った記憶がある。)山口県熊毛郡麻郷村字八海で1951年1月24日の深夜に老人夫婦が殺害される(夫は長斧で頭蓋陥没、夫人は偽装の縊死)という惨劇の微細な描写が生々しく恐ろしかった。犯行の後で、犯人がその家の庭先で脱糞をして去るという話は妙にリアリティがあった。そのような行為が無事行方をくらますことを可能にすると信じられていたという。(ただし、その後の著書では脱糞はそのような意図でなされたとはされていない。)
これを第二審の終了後、吉岡晃ただ一人の単独犯行であり、吉岡が他の4人を同犯に巻き込んだ冤罪事件であると主張する正木のこの著書は著者にとっても意外な反響を呼んだ。それまで裁判というものの実情を知らされなかった世間一般が驚き、ジャーナリズムもまた係争中の裁判に対する批判に強く反応した。そればかりでなく、また第一審の裁判長の藤崎晙(あきら)が正木の『裁判官』に反論する『八海事件―裁判官の弁明-』を出版した。正木はこの著書がそれまで裁判批判の是非論に止まっていた論争を一変させ、裁判批判の自由が確立されたという。
いずれにしても検察の捜査はずさんとしか言えず、それを採用した裁判官も同罪である。吉岡晃は「キリストの名によって」4人が共犯者であることを誓うという手記を最高検察庁に送り、同庁の安平政吉検事は、これをキメ手の一つとして大法廷で「これを信じるか否かは人間性の問題である」と弁護人にむかって述べた。正木の反論は「無実を知りながら、最高検察庁にいたるまでも、これを有罪と強弁して、最高裁判所の判断を誤らせようと試みることは、司法殺人を行わんとするものである」というものであった。『検察官』の副題「神の名において、司法殺人は許されるか」はこの安平発言を踏まえたものであろう。
裁判は1951年2月の起訴に始まり、同年5月の一審から3回の最高裁の審議を含む68年10月の第7審(奥野健一裁判長)で、全員無罪で結審するまでの18年間に及んだ。第6審の広島高裁の判決では死刑1名、懲役15年1名、懲役12年2名というもので被告たちにとって苦しみに満ちた18年であったことは言うまでもない。
吉岡晃は第二審でただ1人服罪〈無期懲役〉していたが、その後も引き続いて5人、時には架空の人物を加えた6人の共謀を主張して裁判を振り回した。裁判が最高裁に至るまで、さしたる知能を持たないこの一人の弁舌に振り回されたのは驚きとしか言いようがない。すべてが決着した後の1968年11月27日に広島刑務所の病監を訪れた5人の弁護人に吉岡は、犯人は自分一人であったことを認め、正木が疑問としていた物的証拠に関する質問にも進んで答え、過去一切が嘘であったと謝罪した。
以上が事件のあらましであるが、なぜ吉岡が他人を巻き込むことに執着したか、また最高裁事務局の執拗で陰険な妨害を乗り越えて、制作され、配給された映画「真昼の暗黒」(今井正監督、原作『裁判官』、1956年3月封切り)が他の冤罪事件などに及ぼしたインパクトなどについては省略することにする。ただ、田中耕太郎最高裁長官が1955年5月26日に全国高等裁判所長官、地方裁判所長、家庭裁判所長の合同会議で行った訓示は記録しておかなければならない。
田中はその訓示の中で正木の『裁判官』や広津和郎が『中央公論』に連載した松川事件裁判批判に当てつけて「最近、進行中の裁判に立ち入って当否を批判したり、裁判官の能力や識見に疑惑をいだかせ、国民の信頼に影響をおよぼし、司法権の独立を犯すものがあるが、裁判官は世間の雑音に耳をかしてはならぬ」(下線は原文の傍点部分)と強い言葉で戒めている。
正木は「チャタレイ裁判」でも弁護士団の指揮をとった人物であったが伊藤整が「チャタレイ裁判」の進行中、毎月『婦人公論』で厳しい検察批判を続けていたにも拘わらず物議は起らなかったことを指して、GHQの下では小さくなっていた官憲が日本独立(1952年4月28日)を機に急に手足を伸ばし昔の「お上(おかみ)」意識を取り戻す方向(非民主化)に乗り出してきたのだという。田中耕太郎の法律家としての資質については砂川事件との関連において「読書遍歴(6)チャタレイ夫人の問題」で触れておいた。
このようにして裁判や法律に少しでも関心を持ったのはすでに遠い昔のことである。しかし一時は司法試験を受けて弁護士になることが生きる道かと思ったこともあった。それはこれらの裁判事件に関心を掻き立てられたからであった。そんな理由から法学部の科目を必要以上に受講したりもしたのであったが長くは続かなかった。教科書以外に読んだ戒能通孝著『法律講話』(1952年)によれば日本の法学部は法解釈学にはまり込んでいて本来学ぶべき法社会学をないがしろにしているということだった。法社会学は司法試験には役立たない。戒能教授の『裁判』、『法律入門』(いずれも岩波新書)は今でも岩波新書中の白眉に数えて良いと思っている。
アメリカの謀略機関が関与したものであることが明らかになっているものにGHQ参謀第2部のキャノン機関による「鹿地亘誘拐事件」がある。鹿地自身の著書、『もう空はなく もう地はなく』(光書房、1959年)、『暗い航跡』(東邦出版社、1972年)はアメリカ軍にスパイを強要された挙句、ソ連側スパイにでっち上げられた社会主義者である作家の苦悩、悲惨の運命を綴るもので鹿地が明確な信条を持った人物であることを別にすれば北朝鮮による拉致事件と瓜二つと言ってよいだろう。鹿地がどこをどう引き回されたかは長い間本人にも不明のままであったが最後の監禁場所はキャノン機関本部のある池之端の旧岩崎邸の地下室であったことが判明しており、今では参観することが出来る。そこからの脱出の手助けをした山田善二郎の著書『決断』(光陽出版社、2000年7月)は山田の勇気と無事脱出に至るまでの細部を伝えている。いつぞやのテレビ放送で鹿地の娘が、鹿地が長い不在の後のある夜、突然、台所に現れたことを語っていた。鹿地は久しぶりの彼女を見てただニッと笑って見せた。そして一人になった鹿地はしばらく号泣して止まなかったという。
ウイキペディアは、キャノン機関は先述した1949年の国鉄の三大事件への関与が疑われているという。鹿地事件の失敗後キャノン機関は自然消滅しキャノンは帰国して一時CIAに所属したが、退職後、1981年にテキサスの自宅ガレージで胸に銃弾2発を受けて死んでいるのを発見された。自殺か他殺か不明というが脳腫瘍の診断を受けて帰った後であり自殺の可能性が高い。銃砲マニアであったキャノンは高威力の弾薬を開発するなどしていた。