ウクライナ-どうしてここまで来てしまったか?
私はロシアのウクライナ侵攻の直前まで、それはないと予想していた。2月21日に立てたこの予想が誤りであったことが明らかになった24日には『プーチンが正気である限り』という前提を置くべきだったと弁解せざるを得なかったがそれは冗談ではなかった。この間には豊富な外交経験を売り物にしていたバイデン大統領の強硬な言辞がますますエスカレートしてプーチンを追い詰めたのも予想外であった。
そこでソ連邦の崩壊後30年を経過した世界の政治情勢を一変させ、世界を核攻撃の脅威の下にさらすまでになった現下の悲劇的な展開をどう受け止めるべきか、プーチンとバイデンの政治判断についての論評の幾つかを読んでみた。このうちプーチンに関するものはその屈折した心理分析に傾くものが多く、アメリカの政策が窮鼠を追い詰めることなく、巧妙な外交策を講じたところでロシアは既定の方針を突き進んだだけだと見る向きもある。彼らは包囲網を狭められてきたロシアの立場を理解すべきであったとする論者をロシアのための弁護論者(apologist)として一蹴する。
ここにはブッシュ政権に深く食い込んでイラク戦争の報道で名を上げたニューヨーク・タイムズ(NYT)のトマス・フリードマンの寄稿(NYT、2月21日)を紹介する。彼は明らかに誤りであったイラク侵攻を強く支持してブッシュ政権の信頼を博した右寄りの記者であった。その同一人物がソ連邦解体後のアメリカの政策について2人のアメリカ政府高官の発言を引いてその過ちを指弾している。
その一つは英紙ガーディアン(9Mar.2016)の報じたウイリアム・ペリー(クリントン政権の防衛大臣1994~97)の発言である。
「過去5年間の東西関係の急激な悪化の原因はプーチンによるウクライナ、シリア、その他への軍事介入である。しかし、ペリーの在任期間中(ソ連邦解体直後)米露両国の軍部間では良好な関係が急速に進展した。それを反故にしたのはロシアというよりはアメリカの行動であった。」「われわれの関係を捻じ曲げたのはナトー(Nato)を拡張して東ヨーロッパ諸国を、ロシアと国境を接している国までも含めて、ナトーに加盟させたことであった。それまでにわれわれはロシアとの間で意志の疎通を進め、ナトーが敵ではなく友好的な存在でありうるという考えに馴染ませ始めていた。しかし彼らはナトーと国境を接することには安心がならず、強く反対した。」アメリカは過去の超大国を見下し、軽蔑していた。
「二番目の失着はブッシュ政権がモスクワの強い反対を無視して東ヨーロッパに弾道ミサイルによる防衛システムを配備したことである。われわれはそれをイランの核ミサイルに備えるものだと強弁した。イランがそれを持っていようがいまいがお構いなしであった。」「その後、オバマ政権は長距離迎撃ミサイルを中距離型に修正したがロシアの反対は収まらなかった。」
「第三の要因はジョージアやウクライナを含む旧ソ連邦共和国で起こった民主化を求めるカラー革命に対するワシントンの支援である。ペリーは道義的な観点からそれに賛同したがそれが東西関係に及ぼす深刻な打撃には気づかざるを得なかった。プーチンはこのような背景の下で登場したのである。
トマス・フリードマンが同じ論説で援用するもう一人の論者は彼が電話インタビューしたジョージ・ケナン(1904~2005)である。1998年5月2日、上院がナトーの拡大決議を批准した直後であった。冷戦時代にソ連の封じ込め政策を主導した元外交官はすでに94歳を超えていて声は細かったが論旨は明確だった。
「これは新しい冷戦の始まりだと思う。ロシア人は徐々にきわめて強く反応しそれが彼らの政策に反映されるだろう。この過ちは悲劇的である。(…)誰も何も脅かしてなぞいない。このような(ナトーの)拡張を知ったら我が国の建国の父たちは墓の中で寝返りを打つだろう。」「われわれは本気でそれを実行するだけの意思も資源も持たないまま幾つもの国々を防衛する約束をしたのだ。(…)私は上院で行われた議論が軽薄で現実離れしたものであったことに呆れている。西ヨーロッパの攻撃をロシアが心底望んでいるなどというのはまったくの見当違いだ。」
「冷戦時代にわれわれが対抗したのはソ連の共産主義体制だったということをどうして理解できないのだろう?今やわれわれはその体制を除去するために歴史上最大の無血革命を達成した人々に背を向けようとしているのだ。しかもロシアの民主主義はわれわれが防衛を約束したばかりのどの国にも劣らないところまで進んでいるのだ。ロシアの反応はもちろん良いはずはないだろう。そうなるとナトーの拡大論者たちは、それ見たことかロシア人とはそんな連中なんだと言ってのけるだろう。—それは大きな間違いだ。」
ウイリアム・ペリーはナトーをめぐる米露対立の経緯を冷静に読み取っていた。ジョージ・ケナンは米ソ対立の焦点から目をそらさずに今日の状況を見事に予測していた。嘆かわしいことに、アメリカ、ひいては世界の政治権力を握る有象無象には何も見えていなかった。フリードマンもただ一言「まさに寸分たがわぬことが起ったのだ」と絶句するほかはなかった。
プーチンが正気であるかどうかという疑問は、いま真正面から取り上げられている。ロシアの戦争というよりも「プーチンの戦争」という論評が多い。全世界の世論を敵に回した結果、徹底した言論統制にもかかわらず、ロシア国内での彼個人への信認もゆらぐ気配が見え隠れしている。プーチンは、ウクライナは歴史的にロシアの一部と主張しているがキエフ大公国はモスクワ大公国と並ぶ独立の国家としてロシアのどの地域よりも古い歴史を持っている。少なくともロシアが国としての体裁を整える以前から存在していたことは間違いない。政治家は自分の都合の良いように歴史を捻じ曲げる好例がここにもある。
「後記」(あるいは「はじめに」)
クリミア半島の軍事的制圧からすでに8年、驚きがいまだに静まらないうちのロシアによるウクライナ共和国への侵攻はやはり寝耳に水の感を否めなかった。
ウクライナをめぐる緊張状態について私は2月21日に以下のようなメールを友人に出していた。周知のようにその後事態は急転換してロシアはウクライナへの軍事侵攻を開始しています。今となれば冗長な読み物ですが事態の急変ぶりとそれに対処できなかった西側の失策を理解する上でそれを振り返ることは無駄ではなさそうです。
2月15日のこと、私はあるSNS上の質問に対して下記のような回答を出していました。その私の回答は「プーチンが狂気でない限り」という限定つきにすべきでしたが、それ以外の私の判断は今も変りません。19日のファイナンシアル・タイムズ(FT)は4人の記者の共同レポートで以下の要旨を述べています。
ブリンケン米国務相はイラク侵攻に際してアメリカが犯した過ちが国際的信用を失墜したことを十分に意識している。そのためにできる限りアメリカが持つ情報をオープンにして世界の信用を勝ち得ようとしている。また他方でアメリカの高官はFTに対して「アメリカが危機を声高に伝えるのはそれによってロシアの侵攻をより困難にするためである」と述べている。ヨーロッパの諸国はアメリカの挑発的な警告がモスクワとの外交交渉を妨げて危機を高めているのではないかと懸念している。アメリカはウクライナ国境でのロシア機動部隊の動向を詳細に把握していることは間違いない。しかしその一挙一動を報じて警鐘を鳴らすことはアメリカを狼少年にしてしまう可能性がある。確かに声高に唱えられた2月16日侵攻説は屑籠に捨てられた。最も辛辣な批判はクレムリンの高官の言葉である。「すべては一人の男の頭の中にある。彼だけが危機の音量をいつどのように上げ下げするかを知っている。彼は今がその時だと確信したのだ。」この高官の言を信ずるなら狂気を恐れなければならないのプーチもバイデンも同列だということになります。
問題のSNS(Quora)の問答とは以下のようなものでした。掲載された文言をそのまま転記しておきます。
ロシアがウクライナ侵攻を企んでいると言うのは本当なのでしょうか?どうも日本のメディアはヨーロッパ寄りでロシアを悪者にしようとしているように見えます。
Shoji Oshima, 東京都国立市在住 (1992年〜現在)
ロシアがウクライナ侵攻を企んでいるとは思えません。成功の確率も低く犠牲が大きすぎるからです。日本の報道は西側メディアの報道に依存しており公正を欠いています。そこでロシア側の言い分を聞くと以下のようになります。
ソ連邦が解体の過程にあった混乱期にロシアとアメリカはソ連邦解体後の西欧とロシアの関係について話し合っています。その際、アメリカの国務長官ジェームズ・ベーカーは、東西ドイツ合併に伴う統一ドイツのナトー加盟後ナトーは現在の位置から1インチといえども東へ進まないと言明していました。アメリカは忘れてもロシアは忘れません。弱体化して混乱期にあったゴルバチョフはこれを明文にして残すことができませんでした。ロシアの混乱はアメリカのチャンスです。その後のナトーはアメリカの主導で東方への進出を続け2004年に境界線はウクライナとロシアの目と鼻の先まてきました。このような緊張状態の下ではロシアの民主化がはかどらないことは目に見えています。「歴史の終り」を謳歌するアメリカは大事ことを見落としていました。アメリカでも現実主義的な視点に立つ軍部はナトーの東方進出に懐疑的でした。
その後もアメリカのコミュニケ(公式文書)は繰り返しウクライナのナトー加盟に言及しています。ベーカー国務長官の口約束に騙されたと信じるロシア側の不信と不安は高まるばかりです。このようなアメリカのウクライナ政策が2014年のクリミア併合という冒険主義の無視できない背景にあります。西側のメディアはナトーの挑発にも目を向けるべきです。
(2月12日に追記)「2月にも侵攻はありうる」とさらに危機感をあおるアメリカに対してアメリカが支持するウクライナのゼレンスキー大統領は「パニックをあおらないよう」アメリカに求めています。
その後24日(木)になってロシア軍の侵攻開始のニュースに接してコメント欄に以下のような追伸を送りました。「ロシアのウクライナ侵攻はないと予想したのは誤りでした。この予想には『プーチンが正気である限り』という前提を置くべきでした。この15日のわたしの回答の後バイデンの強硬な言辞がますますエスカレートしてプーチンを追い詰めたのも予想外でした。