「隠岐の島、四島めぐり」4月18日~21日(3泊4日)
コロナへの警戒が緩んでようやく外に出られるようになってみると今度は身体能力の衰えに愕然とさせられる。これはコロナによる逼塞のせいばかりではないだろう。
が外に出て疲れて帰って来ると逆に体調によい影響のあることが実感されるようになった。三好達治の詩句を思い浮かべながら旅支度に取りかかった。「心一つを/さてまた風にさらさうと/旅の支度にとりかかる」この句はかつて佐々木信二君(Lクラス)に教わった。
隠岐四島とは全体が島根県隠岐郡で「島後(どうご)」(隠岐の島町)と呼ばれる島のほかに「島前」(どうぜん)として一括される西ノ島(西ノ島町)、中ノ島(海士町)、知夫里島(知夫村)の3島と合わせて計4島から成り立っている((添付の写真参照)。4月18日に羽田発で島後を中心にこれらの島々を海陸の交通機関を利用して経めぐり歩く3泊4日の旅であった。
天候は出発した当日こそ雨だったがその後は快晴、悪くても曇りだった。聞けばそれまでの一週間は雨続きであったとのことで後述する「ローソク岩」、「赤壁」へのクルーズはいずれも天候次第という条件つきだった。振り返ってみればこのいずれもがこの旅行のハイライトだった。三好達治の詩句は自然に浮かび上がってきたもの
だったが、高い丘の上や海上で過ごす時間が長く、陽光の下を吹き通る風は穏やかでありながら時には帽子を吹き飛ばすばかりに強くもなり「心一つを風にさらす」思いだった。写真を写すのは便利になったが吹く風は写せない。緑の深いホテルの周辺では毎朝ウグイスの声を聞いた。
観光をする者にとって隠岐は何よりも風光明媚の地である。島後の白鳥展望台から浄土が浜へ降りたりしてすでに充足した思いの後に現れた圧巻というべきものは西ノ島にあった。國賀海岸を間に挟んだ赤尾展望台からの「摩天崖」の絶壁、またそこから回り込んで摩天崖から見返す赤尾展望台はいずれも360度のパノラマだった。高所から雲海あるいは雪山を眺望するのとはまた違って、より地表近くの青い海原を眼前にするなごやかな光景はまた別の光景だった。いずれの丘も平坦ではなく周
囲は灌木に覆われた急坂であったが有刺鉄線の向こうは牛馬の放牧場になっていた。
隠岐の島観光の目玉の一つは島後の福浦港から遊覧船に乗って見る「ローソク岩」に落日の灯がともる光景である。ローソクの穂先に夕日を重ね合わせた光景を揺れる船上からカメラに収めるために一瞬船内は騒然とする。落日の景を離れても、断崖の続く島から島への船上からの景には飽きることがない。中でも見るべきものは知夫里島の西岸を彩る「赤壁」である。赤壁は『三国志』の天下を三分したといわれる長江「赤壁の戦い」を連想させるが壁の断面は酸化によって赤、茶、黒に変色した彩り
で地元では「あかかべ」と呼ばれている。高さ50~200メートル、横1キロにわたって連なる隠岐知夫里の赤壁は少なくとも日本最大、その異様な彩りは天下の絶景の名に値する。
絶海の孤島であった隠岐は日本の歴史の中でも多くの口伝を残す島と言えます。古い伝説や出雲系の神話ばかりでなく、より近くは流人の島として後鳥羽上皇、後醍醐天皇に関する史実も多くの伝説に包まれている。この2人の天皇にまつわる史跡は当然観光の対象になっている。後鳥羽上皇は、中ノ島の源福寺を行在所として19年の歳月の後に同島の海士(あま)町で命を落したことが知られている。他方、後醍醐天皇については多くの伝承から長年にわたって西ノ島の黒木御所に住まわれたとされてきた。これに対しては明治になって『増鏡』にある一文によって島後の国分寺説が浮上している。黒木御所には碧風館という資料館があり後醍醐天皇にまつわる多くの伝承が集められており、そこの学芸員の説明では後醍醐天皇が詠まれた和歌も残されており、今では島後でも西ノ島説を否定していないということだった。いずれにしても後醍醐天皇は僅か1年の滞在の後に隠岐脱出に成功して伯耆の船上山で幕府打倒の旗揚げをしています。
人口わずか18,600人という隠岐に今でも100を数える神社が残っていますが廃仏毀釈が薩摩に次いで最も激しく行われた所ともいわれます。国分寺も国分尼
寺もさらには上述した源福寺も掘り返された礎石によってようやく存在が確認されるだけという有様です。文化的にも神話、神道の伝統が根強く仏教を敵視する心情が燃え上がったのかもしれません。 いずれにしても隠岐で神社を避けて通ることはできません。神社は玉若酢命神社、水若酢命神社などを参拝しましたがこのような神社名からして古い神話の世界を思わせられます。
隠岐の島は御多分に漏れず山野草も豊かで5月からは北の植物と思われているハマナスが咲き始めるとのことでした。初日のホテルでの食後には近くにオオイワカガミを見に行く予定でしたが雨で果たせませんでした。隠岐で最大の野生動物は兎とのことです。島後ではあまり期待せずにみた「牛突き」(隠岐の闘牛)にも興味を引かれました。900キロ近い黒牛が角で押し合う競技です。2人の牛使いがそれぞれの牛の引き綱を持って牛の動きをコントロールします。島後には「牛突き場」が3か所あるところを見ると観光用であるばかりでなく、地元住民の純粋な愉しみでもあることが想像されます。神事やそれにまつわる相撲も盛んのようです。「牛付き」のほかの行事は資料館などでヴィデオが準備されていました。
島後のホテルからは支配人の案内で近くの浜に「海ホタル」を見に行きました。夜光虫は海中に漂っているのに対して砂に潜ったまま光を発しているのを黒い海面に目を凝らして探しました。川崎から木更津までのアクアラインの中間の休憩所は「海ほたる」と名付けられています。空から下界を見下ろせば「海ほたる」の光は瞬き(まばたき)のように瞬間的で頼りないものに見えることでしょう。ネットで見るとこの名称の公募に応じて「海ほたる」を提案したのはただ1人だったといいます。誰が採用を決定したものだろうか。
往路は空であったが帰路は知夫里島の来居(くるい)港から境港までの2時間半の船旅であった。今度こそはただ雲と霧の中、何もない広漠たる海の旅である。そこでも風に吹かれて飽きることのない旅であった。
隠岐の島について私は何を知っていただろうか?私が新卒で入社したN社の同期の友人に隠岐の出身者がいた。満州からの引き揚げ者らしく余興では必ず引き揚げの苦難の道をたどりながらお互いに励まし合ったという歌を披露した。私はその歌の冒頭部分を今でも覚えている。彼が得意としたもう一曲の「関の五本松」は世に知られている。しかし「故郷を離れてスンガリ(松花江)越えて」で始まるこの歌は当事者以外は誰も知らないだろうと思う。
初日の自己紹介でそんな話をしたところ1人の女性が「私は知っていますよ」という。「それなら歌って下さい」と言って後で歌ってもらったがまったく違う歌だった。彼女は自分の方が年長と思ったらしい、昭和13年の生れですと私に自己紹介をしてきた。合唱グループに入っていて外国もあちこちをめぐっているという。持ち歌らしい歌をみんなの前で歌ってくれたがコロナの間に喉がおかしくなってしまったと言いながら、歳や見かけからは思いもよらない素晴らしいソプラノで一同を驚嘆させた。歌そのものにも引き込むものがあった。私は初めて聞く曲なので聞くと『森は生きている』という舞台劇で歌われる「一瞬の命を」で林光作詞作曲とのことだった。
総勢12人のグループ・ツアーで男性は2人だけであとは女性である。それも私が同伴した2人ともう1人の男性の夫人を除く7人はすべて単独参加であった。添乗員からは氏名のリストが配られるだけであとはご自由にというのが当今のしきたりのようだが4日にわたって行を共にすれば自ずと明らかになることがある。中でも私はこの女性のことをかなり知る結果になった。
彼女は独身、東京板橋区の出身で学校は中卒で終っていた。当時は高校へ進むのはクラスで2~3人だけだったという。ほぼ同年の私の田舎でもクラスの5-6人は高校へ進学していたからちょと信じがたい。それでも彼女は世界各地を訪ね歩くようになっていた。きっかけは紹介する人がいて若い時にローマに駐在する外交官の家政婦となってイタリアで4年間を過ごしたことだった。帰国してからは合唱クラブに入ってそこで勤めの合間に歌唱の指導を受けた。やがて合唱団が海外に演奏旅行をするようになってからは務めてそれに参加するようにした。合唱団には横の連絡があるので海外へ出かける機会はたくさんあった。本題を離れてしまったが人の遍歴はさまざまである。
実は隠岐から連想した最初の人物はわれわれがボクさんと呼んでいたW組の朴菖熙(パク・チャンヒ)君だった。神経的、体質的に血を怖れ、徴兵制度のある韓国での前途に絶望し、医者である父親の勧めに従って、ほかに行くところもないまま、日本へ密航したのだった。私は彼が上陸したのは隠岐だったと思い込んでいたがメモを見るとそれは対馬だった。
宿泊は隠岐の島町に2泊(あいらんどパークホテル)、西ノ島(国賀荘)に1泊の計3泊4日の旅でした。