P大島昌二:「読書遍歴(1) 福原鱗太郎」2023.10.4    Home

00050(2024.1.29 06:52) 

 ある程度物心ついてからの私の読書といえば英文学者、福原鱗太郎(1894‐1981)の英国文化、文学に関する随筆に始まる。当時は知らなかったが敗戦によって出版文化に変化が生じたこともあっただろう。敗戦の年9才であった私はその後福原氏によって英国、ひいては欧米の文化に目を開かれた。田舎の少年にとって都会的な文化の窓口は人との交流ではなくすべて雑誌を経由するものだったといってよい。 


私は新聞に出る新刊本の広告を見て岩波書店などが発行する書目を覚え無料のパンフレットを取り寄せたりした。戦後も早い時期に岩波書店から森鴎外全集が出されたことを記憶しているのも広告を取り寄せていたからである。最近になってアレッサンドロ・マンゾーニの『いいなづけ』を読んだが著者の母方の祖父が刑法学者のチェザレ・ベッカリアであることを知った。私は岩波文庫の一冊にあった書目から『犯罪と刑罰』のベッカリアの名前だけは記憶していた。 


新聞の広告を見て母は巌谷小波のお伽噺を取り寄せてくれた。そこにある物語は少し子供じみていて面白いとは思わなかった。東京で単身自炊生活送っていた父は伊藤整の『雪国の太郎』を送ってくれた。父が亡くなってから父の空のトランクのポケットの中に私から父にあてたハガキが残っていた。そこに私は『雪国の太郎』のような本ではなく『小公子』や『小公女』のような本を送ってほしいと書いていた。外国の物語にあこがれていたのである。その私の文章は旧仮名遣いであることが時代の痕跡を残していて面白い。 


私は『雪国の太郎』を少しは楽しんで読んだに違いない。スキー遊びや最後の雪合戦の話は記憶に残っている。友だちに貸した形跡もある。私は長じてスキーに熱中したがそんな時にもこの本を思いだした。本の奥付に著者は「小樽高商をへて東京商科大學に学ぶ」と書いてある。東京商科大学とは初めて知る大学の名前だったが後の一橋大学である。私が後年その大学に入学するとはもちろん思いもよらなかったし私は商人という身分が好きでなかったから商大のままだったら志願しなかっただろうと思う。士農工商という身分制がまだ頭の隅にこびりついていたのだ。「君んちもとうぜん士族だろう?」と友だちに問われて答えられなかったこともあった。私の『雪国の太郎』は昭和21年発行であるがそれが戦前に出版されたものの再刊であることを知ったのはずっと後年になってからである。 


 


福原鱗太郎は、戦後に軍隊もなくなって羅針盤を失ったような気持ちに落ち込んでいた少年を蘇生させてくれた。彼は例えば研究社の『中学上級』という月刊誌で日本のすぐれた文化の伝統を教えてくれた。広重の浮世絵や、前九年の役の馬上戦で八幡太郎義家が「衣のたてはほころびにけり」と逃げる安倍貞任に呼びかけたのに対して「年をへし糸の乱れの苦しさに」と貞任の答えが返ってきたという詩歌による応酬は少年の心を引き立ててくれた。日本そのものが「フジヤマの飛び魚」古橋広之進の世界記録や湯川秀樹のノーベル賞受賞でなんとか明日に向かって働く活力を見出した頃である。 


福原さんは英国でエリザベス2世が即位した時に「英国は女王の御代に栄える」という短い祝賀の文章を毎日新聞に書いていた。彼はもちろんシェイクスピアや専門に研究したチャールズ・ラムの随筆についても書いていた。私は後年思いがけなく英国に留学する機会を得た時に真っ先に思い浮かべたのはシェイクスピアの舞台を見ることだった。 


福原さんが亡くなられた7周年に、福原さんの多くの知友が寄せた追悼文を集めて『福原鱗太郎追悼録』が編まれることを新聞で知った時、私は事情を述べ会費を出して賛助者に加えてもらった。福原夫妻には子供がいなかった。単身残された福原雛恵夫人はその出版の折の余剰金で鱗太郎が残した未発表の随筆を一本にまとめた袖珍本を一同に配布された。だから今私の書庫には『追悼録』と『随想録』の2冊の私家版の本がある。追悼録が英文学者を中心にした文章であるのに対して随想録は福原さん本人の著作であるからその2つを揃えて下さった雛恵夫人のご配慮はさすがだと思う。 


福原さんはこのように敗戦で四等国に落ち込んだと教えられた国の少年を文章によって支えてくれた。精神の糧を与えてくれたという言葉はここにふさわしい。その福原さんは戦争をどう乗り越えたのだろうか。ずっと後年になってから私は英文学者宮崎芳三の著書『太平洋戦争と英文学者』(1999年刊)で福原さんの片鱗を知ることができた。 


戦時下に不要とされた英語教師は「踏み絵」を前にしたキリシタンの立場に近かったかもしれない。著者の宮崎によればそれは「一つの思想上の大事件なのであった」。そして彼は続けていう。「この渦中に、論敵に乗じられもせず、自己矛盾にも陥らず、首尾一貫して自己の尊厳を保ち得た英文学者は何人いただろう。私には、福原鱗太郎がそのひとりであったと思われる。」 


英語教師全般に及んだ政治的圧力は強いだけでなく複雑であった。昭和17年には高等女学校の課目の変更が行われ「外国語を課する場合は必修科とせず、随意科にする」と通達された。これに対して津田英学塾教授の藤田たきは東京日日新聞に次のような談話を発表した。「…外国語を必修科としないことには反対です。この事変以来、実際問題として軍部、諸官庁その他から外国語のできる人を要求してくることが非常に多いのです。(……)日本が今後大東亜の指導者としてやって行く上に語学は大切な武器で大局からもう一度外国語といふものを再検討して欲しいものです。」 


藤田たきは、言葉は単なる道具に過ぎないと言いたいのではなく「敵性思想撃滅の根本は中学校における英語教育を全廃するに在る」などという過激な議論に対処しなければならなかったのである。しかし、いずれにせよ「英語は大切な武器である」というのは英語教師たちの第一の防衛ラインであった。 


福原は自分が主筆を勤めていた雑誌『英語青年』の巻末にR.F.の筆名で「英学時評」というコラムを書いていた。戦争、それも早々と負け戦に転じ、国全体がヒステリックな症状を呈している時に己を失わずに後世に残るコラムを書き続けることは難事である。宮崎芳三はその長い期間にわたる福原の片言隻句を引用しながら自分の言葉で福原の思想を敷衍してみせる。引用と解釈が入り混じった宮崎の言葉で福原の発言を要約するのは難しいが、比較的長い引用に次のようなものがある。「我々は微力である。しかし我々はヨーロッパを見渡す窓の一つを受け持っているのである。自重しなければならない。(……)英語の読める人がいるから英米人が何を考えているかを知ることが出来て安心だという風になりたい。我々は展望台だ。アンテナだ。」この箇所について宮崎は次のようにいう。福原は同じコラムで「わが国にはもっと批評精神があってよい」と言っているから彼の言う展望台とはただ成行きを見守るだけのものではなく、積極的なものであり、つよい批評精神の働きが取る形なのであった。 


昭和23年4月、すでに戦後である。英文学会会長の福原は『英文学研究』の巻頭に「平常の辨」という一文を寄せている。それは日本英文学会としての戦争体験の総括ともいうべきものであった。そこで福原は、英文学会そのものが存続したことを祝い『英文学研究』が再刊にこぎつけたことを告げている。「あれこれ考えてみると、戦争中の日本英文学会は、出来得る限り平常を保っていたのだといえる」と述べ、続けてその平常とは「常に人間の生活に対して自己を主張している平常であってほしい」と注文を付けている。それは「学問というものは世事と離れて(……)孤独な思索に耽っているもの」というのは「誤りである」と言うことでもある。宮崎は、それが戦争という手ひどい経験をして一層福原が確信するようになった真実であるとする。私が『中学上級』などで読んだ文章は福原のこのような「平常の辨」の延長にすぎない。それが私を四等国の陥穽から私を拾い上げてくれたような気がする。 

 


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