チェチェンもそうであるが、ウクライナとプーチンの世界に焦点を置きながらここで新疆問題に立ち入ったのは、ここにも同じ人権と民族の問題が顕著に見られるからである。中国がウクライナ戦争の仲介者、「時の氏神」になれるのではないかという期待がおそらく果敢ないものであることを示す結果になった。習近平の中国がウラジーミル・プーチンのロシアと同じ穴のムジナであることを否定することは難しい。それは新しい社会には新しい人間像が必要であり、新しい社会を建設するには人間を改造しなければならない、それが強制と弾圧によって可能であるとする共産主義思想の手ごわい痕跡がここにあるといえるだろう。
『チェチェン やめられない戦争』は泥沼と化したチェチェン戦争を取材したアンナ・ポリトコフスカヤ(ノーヴァヤ・ガゼータ紙記者)によるチェチェン人の悲劇的な実相のルポルタージュである。それはソ連邦の解体に際してロシア(連邦)からの独立を企図してチェチェンに侵攻したロシア軍とチェチェン山岳民族軍との長期にわたる闘争の過程で起こった。ポリトコフスカヤが描いたのはその泥仕合の狭間にあった一般民衆の悲劇であった。彼女は数度にわたる暗殺予告の後2006年にモスクワの自宅アパートで凶弾に倒れ、その死は世界に伝えられた。
ポリトコフスカヤが描いているのはチェチェン戦争の概要ではなくもっぱらロシア政府軍と革命軍の双方から拷問され掠奪される庶民の姿である。「もちろん、第一に責任があるのはプーチン大統領と政府だ。…あとの責任は誰に?ここではすべてが逆転する。1999年の秋と2000年の冬には激しい戦いが続いていたにもかかわらず、もっとも貧しく打ちのめされていた人々には必ず親切な隣人がいたものだった。だがその夏ごろから、すべてが変わってしまった。…自分よりもっとひどい目にあっている者と一切れのパンを分け合い、一日一日生き延びることに喜びを見出していた人たちが、今はもう自己の原則を変えてしまった。」そのような人々が落ちてゆく奈落はとめどがない。
チェチェン戦争は第一次と第二次の二度にわたって戦われた。第一次は1994~96年、第二次は1999~09年である。第一次戦争はロシア軍の退却(96年秋)で終りをつげチェチェンは独立国家になった。しかし疲弊の著しいチェチェンにとってはロシアの経済支援は欠かすことができない。第2代大統領マスハードの努力にもかかわらずロシアとの関係は改善されなかった。マスハード大統領が任命したバザーエフ首相は独立戦争中の伝説的な英雄であったがロシア人にとってはテロリストに他ならなかった。2002年秋の「モスクワ劇場占拠事件」は特殊部隊の突入と毒ガス攻撃で惨劇に終り世界を震撼させたがバザーエフは劇場占拠の立案者であったことを認めている。
1997年7月チェチェン軍がロシア連邦内のダゲスタン共和国に進撃し、それに対応する過程でロシアでは指導部の交代が起り、ウラジーミル・プーチン連邦保安局長官がエリツイン大統領の後継者兼首相に任命された。その翌8月からはモスクワを始めとして次々に都市のアパート爆破事件が起こりプーチンはそれを根拠に1999年9月に第二次チェチェン戦争の開始を命じた。ポリトコフスカヤは劇場占拠事件では犯人側から仲介役に指名され犠牲者を出さないために力を尽くしたが間もなく不慮の死を遂げたのだった。
上記のチェチェン戦争の政治過程についてはポリトコフスカヤの著書に収載されたゲオルギー、デルルーギアン(ノースウエスタン大学助教授)の「何が真実か?」と題する論考に拠った。ロシアの歴史は古く、もともと複雑である上に20世紀に入ってからも1917年11月のボルシェヴィズム革命、1991年12月のソ連邦の解体へと多くの混乱に見舞われている。旧ソ連邦は形式的にはロシアやウクライナ、バルト三国などの15の共和国よりなる連邦であった。そのためにすべての共和国は理論的には連邦の解体によって独立する憲法上の権利を持っており1991年末までにすべてが連邦を離脱して独立した。
ただし、ロシア共和国はその後もロシア連邦と呼ばれるように、その中に少数民族の自治共和国や自治州といった多数の構成自治体を持っておりチェチェンはその自治共和国の一つである。ロシア連邦の支配中枢であるモスクワは、チェチェン独立の前例をつくると、より重要なタタルスタン(ロシアのトラックの半分以上がここで製造される)やヤクーティア(サハ共和国とも言い、ほとんどすべてのダイヤモンドがここで採掘される)などの自治共和国も同じ動きをすることも危惧された。
『ウイグル大虐殺からの生還 再教育収容所地獄の2年間』は舞台が変わって新疆ウイグル自治区である。中国の強権政治に対する国際的な不信は文化大革命とその後の政治状況(天安門事件の抹殺、香港の自治剥奪など)から高まっているが反面ではその後における経済的な大躍進が政治的な弾圧に対する批判を凌駕、糊塗しているかのように見える。自由の剥奪はとりわけチベット自治区、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区において顕著であった。
グルバハール・ハイティワジが体験しフランス人ロゼン・モルガの助力によってフランス語にまとめられた本書は「再教育」を標榜する新疆のウイグル人収容所の恐怖の実態を明らかにする。ポリトコフスカヤが記者として無政府状態と化したチェチェン民衆の日常の辛酸を詳細に報じたのに対してハイティワジが伝えるものは身一つで体験した2年8カ月におよぶ異郷と化した新疆での束縛と生命の恐怖である。ポリトコフスカヤは女性であるがゆえに家族を抱えたチェチェンの女性がさらされた危難を詳細に聞き出し報道することができた。ハイティワジは拘置所生活の苦難がとりわけ女性にとってどのようなものであったかを赤裸々に綴っている。
「新疆では検問所、警察の詰所、威圧、脅しが珍しくないので人々はそうしたことに嫌でも注意を払う。それで私たちは刑の執行を猶予されているようなもので、そのなかば自由な状態は絶えず奪われるおそれがあった。地元の警察からお茶を飲みにくるよう指示されるのはいつものことだった。そんなときはその日何をしたかを警官に話し、友人知人の名前を教え、自分の仕事について語った。そんな犠牲を払ってやっと平穏に暮らせるのだ。」
すでにこのような状況にあった新疆を逃れてフランスに亡命した夫の後を追ってグルバハール・ハイティワジは2人の子供を連れてフランスに移住した。2006年5月のことである。ところが老齢の母親を孤独のままに放置するに忍びず、彼女1人だけは亡命をみとめられながら中国籍を保留したまま10年ごとに更新される滞在許可を得ていた。2016年になって新疆の(石油会社の技術者であった)元の勤務先から言葉巧みに退職の手続きにからむ用件で帰国を促された。疑心暗鬼ながら心配無用という夫の言葉に従って帰国したことがその後の悲劇につながった。
帰国後訪れたかつての勤め先へ出向いたハイティワジは突然現れた3人の警官に手錠をかけられて逮捕された。一通りの尋問がすんだあとハイティワジの目の前に一枚の写真が示された。パリで写された1枚のグループ写真に彼女の娘が東トルキスタンの小旗を持って微笑んでいる。グルバハールがパリから呼び戻されたのはこの1枚の写真のためであった。この1枚の写真で娘はテロリストであり、母親のグルバハールもその同類ということにされた。その日は一旦釈放されたがパスポートは取り上げられたまま自宅軟禁と同様の状態で日を重ね、数週間後にハイティワジはカラマイ(新疆北部の都市)の留置所にいた。
「新疆には北部に二つの大都市、ウルムチとカラマイがあるが、それらを隔てる400キロは草木の生えない土地だ。オアシスと油田の近くに作られたこれらの大都市を除けば、みわたす限り、静かで人気のない空間が広がるばかり。その乾燥した土地では、どんなに工夫しても暮らしていくことができない。」
カラマイの留置所での取り調べはハイティワジが身に覚えのない罪を認めるまで延々と続いた。常時監視カメラの下にありまぶしい蛍光灯に照らされ続けた。取調室へは後ろ手に手錠をかけられて往復し、部屋でも理由のわからないまま足鎖でベッドに繋がれることもあった。
中国によるチベット抑圧の調査で知られていたドイツ人研究者、エイドリアン・ゼンツ博士によればウイグル人の再教育収容所は2017年に開始された。ハイティワジがそこへ送られたのは2017年6月である。この収容所の存在が外部に知られたのは翌18年で、国際的な非難が巻き起こり在外ウイグル人のデモが各地で盛り上がった。ゼンツによれば18年春までに再教育収容所の数は1,200を数え推定100万人がそこへ送り込まれたという。
ハイティワジの取り調べは留置場から再教育収容所へ、そしてまた留置場へと往復して繰り返され、最後に収容所在留時に行われた裁判で再教育7年の刑を言い渡された。彼女はとにかく最後には言われるままの罪状を認めて書面に署名したのであるがそれが反中国的という以外にどのような罪であったか本書では明らかでない。おそらく彼女自身にとってもわからないままであったかもしれない。
フランスにとどまった夫と2人の娘にとって、グルバハール・ハイティワジは失踪者に等しかったが、やがてその所在が明らかになると娘のグルフマールはフランスのテレビに出演するなどして母親の理不尽な拘留を世論に訴えた。フランスの外務省は中国大使館・外務省と折衝に入り、グルバハールはついに無罪を勝ち取るのであるが、グルバハールは等しく罪に問われて再教育収容所に残された同胞の運命を放置できない気持ちでいる。
中国においてはすでに毛沢東の時代1957年に労働改造所(労改)が発足していた。実際の思想改造運動はそれよりも早く、第二次大戦後の日本人捕虜を対象にした思想改造運動を思い起こす人もいるだろう。
英語の”brainwashing”は朝鮮戦争時に経験した中国語の「洗脳」の翻訳である。ここのハイティワジのケースはあらゆる手を尽くして政敵を罪に追い込む中国流の人海戦術がいかんなく発揮されている。収監者の目からすれば誰を相手にして誰にものをいえば良いのか、自分がどのような罪に問われているのかも明確にできない。まさに「暖簾に腕押し」で相手は入れ代わり立ち代わり姿を変える不条理そのものの世界である。