一橋会々歌をめぐって
2024.11.5/S33Q羽島 賢一
明治37年(1904年)、中田庄三郎によって作詞された「一橋会々歌」は、「上1番~4番」「中1番~6番)」「下1番~4番」からなる大曲である。しかし、現在、我々が歌うのは、「長煙遠く棚引きて、入相の鐘暮れてゆく……」で始まる「下」の部分だけである。時には1番と4番だけのこともある。何時からこのような歌い方になったのだろう。また、その理由は何だろうか。長年抱いていた疑問であった。
朝日新聞記者で同紙の論調に異議を唱えフリージャーナリストに転じた稲垣武は『朝日新聞血風録』で、一橋会々歌に触れた箇所がある。1900年に発生したブラゴヴェシチェンスク事件(アムール川事件)を取り上げている。これに関連して稲垣武は『ブラゴヴェシチェンスク事件は、当時、大亜細亜主義が風靡していた日本の世論を激高させ、土井晩翠作の『アムール河の流血』や東京高商(現一橋大)の校歌にもなったほどだが、それは世論レベルのことで、政府の行動は別であった』と書いている。すなわちこの事件が惹起した世論が「一橋会々歌」に影響を及ぼしたというのだ。清帝国と列強諸国の武力衝突である義和団事件のさなか、1900年(明治33年)7月16日、アムール河(黒竜江)駐屯の清国軍が、対岸のブラゴヴェシチェンスク市を砲撃したことを口実に、ロシア領ブラゴヴェシチェンスク市の守備隊が市内に居住する清国人約五千人をアムール河畔へ連行し、銃弾と銃剣で殺戮した。これが「アムール河流血事件」とも呼ばれるものである。ロシア大軍は一挙に満州の主要都市を占領し、鴨緑江まで侵入した。このように満州・朝鮮半島へとロシアの恐怖が及ぶにつれ、日本では国民感情として「危機感」が叫ばれるようになったことは事実だろう。
稲垣はアムール河の流血や一橋会々歌は大亜細亜主義のいわば象徴の歌と位置付けている。
この世論の延長上に日露戦争があったというのだ。土井晩翠が犠牲者にささげた歌詞の1~2番を引用する。
『1.アムール川の流血や/凍りて恨み結びけん/二十世紀の東洋は/怪雲空にはびこりつ 2.コサック兵の剣戟や/怒りて光ちらしけん/二十世紀の東洋は/荒波海に立ちさわぐ』
また、旧制第一高等学校の寮歌にもこの事件を取り上げたものがある。『 アムール河の流血や/ 氷りて恨み結びけん/ 二十世紀の東洋は/怪雲空にはびこりつ/満蒙既に力尽き/末は魯稿も穿ち出で/仰ぐは独り日東の/名も芳しき秋津島』(作詩/塩田環、作曲/栗林宇一明治34年)
アムール川流血事件を機に一橋会々歌にまで影響を及ぼしたとする国民感情に動かされて、日本は1904年対露戦へと一直線に進んだのだろうか。
「一橋会々歌」は明治37年に作られているので、歴史としての時代は符合している。また、「一橋会々歌」の世界に広く目を向けようという主調のなかにあって、ごく一部次のような文章も確かに存在する。それ故に、大亜細亜主義の色彩が濃厚に表れていると決めつけるべきなのだろうか。
一橋会々歌『 中3番 立て我が大和民族よ/東亜の空にそそり立つ/仙麗の雪戴いて/建国爰(ここ)に二千歳/今こそ立ちて我が族の』に大亜細亜主義がみられるくらいだ。
「一橋会々歌」を通読するに、国民感情を背景にしつつも、まだ個人レベルの「立志」の表出に留まっているように私には思われるのだが。
そうだとしたら、何故、戦後、上と中を歌うのを止めたのだろうか。羹に懲りて膾を吹いたのだろうか。朝日新聞・岩波書店を主流とする似非文化人や日教組の干渉・影響を受けたのであろうか。単なる時間節約を意図した省力なのだろうか。真相はどうなんだろうか。
また、旧制一高寮歌「アムール河の流血」は今でも歌われているのだろうか。誰か知っているなら教えて欲しいものだ。
本題から離れるが付記すると、「アムール河の流血や」のメロディーは、軍歌「散兵戦」やメーデー歌「聞け万国の労働者」に踏襲されている。当時いかに西洋的なメロディーが少なかったことかの証左であろう。「聞け万国の労働者」は1922(大正11)年、大場勇が歌詞をつけた。
『永き搾取に悩みたる/無産の民よ決起せよ/今や二十四時間の/階級戦は来たりたり』
朝日新聞が大亜細亜主義の反映と看做す「アムール河の流血や」が、1889年パリで開催された第2インターナショナル創立大会の決議により、毎年5月1日に実施されるようになった全世界労働者の団結と国際連帯を目的とするメーデー集会で歌われるようになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。
一橋会々歌のフルヴァージョンは、1941年繰り上げ卒業生で作る12月クラブのホームページで見ることができる。
https://jfn.josuikai.net/nendokai//dec-club/hatou/naiyou/835-1fr.htm
以上