前に「友を送る」という小文を掲載しましたがそれは継続したくない種類のテーマで
した。今日また槙田庸見君の訃報を聞いてつくづくそう思います。しかしながら老化
に伴って「メメント・モリ」(死を忘れるな)の領域に入ったからには贅沢は言えな
いの心境もあり今日ふたたび訃報をお伝えします。
今朝、早苗夫人からの電話で槙田庸見君が18日の朝自宅で亡くなったことを知りまし
た。胆石性胆管炎で入院、退院後転倒してから自宅療養をしていましたが、めっきり
気力が衰え食欲もなく体重も40キロ台に落ちていたとのことでした。コロナ禍の下で
再入院も厄介なために訪問看護を受けており死因は看護師の見立てで老衰ということ
だったといいます。夫人が伝える言葉によれば「自分の力で頑張って死んだ」とのこ
とです。私は数年前に胆石が暴走して入院したことがあり胆石性胆管炎が難病である
ことのおおよその智識を持っていました。ご冥福を祈るのみです。ゴールを設定して
それに突き進むタイプの庸見君は生きる意欲を失ったことを口にしていたようですが
近くに住んでいる同じボート部の原治平君が来訪してよく相談に乗ってくれ、内輪の
葬儀にも出てもらったとのことです。
私は前期の法学部の細谷千博さん(当時講師)のゼミで一緒でしたが槙田君と親しく
なったのは卒業後、それも大分たってから共通の趣味であるスキーに一緒に出掛ける
ようになってからでした。外国にもよく遠征し、その意味では寝食を共にしたという
ことができます。最後に同行したのは17年3月、もう5年も前になる。その時は蔵王温
泉で早苗夫人も一緒でした。彼は近年までボート部OBの会にもよく出席していたよう
ですから原君を始めとするボート部の諸兄は若かりし頃に始まる槙田君の記憶には事
欠かないでしょう。
彼の訃報は早苗夫人の了解を得て如水会に通知しました。担当の女性は手元の資料に
なかなか彼の名前を見つけられないので簡単なことを伝えるのに手間取ってしまい、
庸見の庸の字まで説明しなければならなかった。私がそんなことまでと内心いら立っ
て説明を始めると「ああ、中庸の庸ですか」と言葉が返って来て難題は氷解しまし
た。そこまで知識のあるのは立派だけれどどうして名簿の名前を見つけるのがそんな
に難しいのだろうか。その女性は私の通報を受け入れた後であらためて槙田夫人に電
話をして確認するという。そこまでするのかと思ったが「大事なことですから」とい
う。確かにその通りには違いない。私もこんな文章をうっかり書いてはなるまいと自
戒するべきなのだ。
如水会々報の最近号には山中ゼミで一緒だった黒川亮君の6月の訃報が載っていた。
会報に載らないままで人知れず亡くなって行く人もいるのは淋しいことではないかと
思う。安原和雄君の訃報も私が知ったのは死後数か月たってから、この6月のP組の会
合を待たなければならなかった。山中篤太郎先生が最後の病床に臥せっておられた
頃、私はたまたまロンドンから出張で日本に来たが先生の夫人から入院先を聞き出す
ことはできなかった。「痩せ衰えた顔を人に見せたくない」と言って頑なにお見舞い
を拒んでいるということだった。確かに誰しもそう思うに違いない。しかしそうなる
のは人の常だと思えばそうではなくてもよいはずだと思う。誰にせよ老いさらばえた
姿を家族からまで隠すことはできない。私は父母の最後の姿を脳裏に刻んでいる。こ
れもメメント・モリの一環と思っている。