33年net諸兄姉どの(2022.07.31)
先日、原発事故と最高裁判決をご報告した。文中で砂川事件判決に触れた。この判決も最高裁判決として決して忘れてはいけない判決である。砂川事件は我々が学生時代に起きた。当時、高島善哉ゼミにいた山岳部の先輩の中村幸正(故人、31年)さんが、先生から頑張ってやってくださいと云われたと山岳部のテントを借りて砂川の学連共闘場に張ると言い出した。これには山本健一郎(故人 32年、のちチーフリーダー)さんがそんなことしたら山岳部卒業生はどこの企業も採用してくれないよ、ダメだときつく反対したのを覚えている。60年前の話である。閑話休題。
【砂川事件刊決のおぞましさ】(国体論-菊と星条旗、白井聡 2018.04.22集英社p156-p158)
しかも、先に示唆したように、この国家主権の構造は終戦終結と同時に終わらず、日米安保体制へと引き継がれる。それを象徴するのが、1957年に発生し、59年に判決が出された砂川事件である。当時、東京都北多摩郡砂川町(現立川市)にあった米軍立川航空基地の拡張をめぐって反対運動を行っていた現地住民や活動家と測量を強行しようとする政府側との対立は激化し、流血の事態も発生していた(1956年10月13日)。砂川事件とは57年7月8日、測量阻止のデモ隊が基地の柵を壊して内部に不法侵入したとして23人が逮捕され、内7人が起訴された事件である。同事件の第一審では、いわゆる伊達(秋雄)判決が下され、「日米安保粂約は憲法違反である」との司法判断がなされる。これに驚愕したした日本政府は跳躍上告するが、同年のうちに最高裁は一審判決を破棄する。
(市畑注)第一審(1959年(昭和34年)3月30日)で最高裁判決は(1959年(昭和34年)12月16日)であったから、9ケ月後のスピード判決であった。
最高裁刊決は伊達判決を完全に否定するものであった.その要旨は、「憲法九粂が禁止する戦力とは日本国か指揮・管理する戦力のことであり、外国の軍隊は戦力にあたらない.したがりて、米軍の駐留は憲法や憲法前文の趣旨に反しない、そしてゴ「日米安全保障条約のように高度な政治性ををもと条約にについては、きわめで明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかを司法が判断することはできない」(統治行為論)とするものであった。
一審の判断を最高裁が覆したしたこと自体は、日本の三権分立権分なの形式制の実態に照らせば.いまさら驚くには値しないかもしれない。しかし、21世紀になってになってから明らかにらかにされたのは、この最高裁判決か出されるのに至る過程のおぞましきであった.
一審判決にに驚愕したの日本本政府だけでなくアメリカ側も同様であったが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー二世は、伊達判決が無効化されるよう、藤山愛一郎外相や最高裁長官田中耕太郎に.圧力を掛けたいた。
このようなアメリカの動きも、驚くには値しない。日米安保条約の無効化は、彼らにとって戦利品の喪失を意味するからである。最大の問題は、日本側とりわけ田中耕太郎がアメリカからの圧力を不当な介入として撥ねつけるどころか、自ら積極的におもねっていた、もっと端的に言えば、この判決は、「駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら」書かれたという事実である。
そして。この判決内容の意味も重い。なぜなら、統治行為論を援用することによって、日米安保条約に関わる法的紛争については、司法は憲法判断を回避するべきだという判例をつくってしまったからである。これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。
(市畑注)長谷川 正安(はせがわ まさやす、1923年[1] - 2009年8月13日)憲法学者、1946年(昭和21年)東京商科大学(現一橋大学)卒業(田上穣治ゼミ)1956年12月 名古屋大学法学部教授(1967年 - 1968年法学部長)1961年 - 1963年 フランス留学、1986年3月 名古屋大学定年退官
イチハタ..