補章

「現実」とはイリュージョンである

1 イリュージョン論

現実こそイリュージョン

毎朝目覚めてから、夜眠りに入るまで、私たちがこの眼で見、この耳で聞いている現実の世界、実際にはこれがすべてイリュージョン(幻影または幻想)であるというのが動物行動学の日高敏隆教授がその生前、唱えておられた世界観であり、人生観でもある。日高教授はその生涯を懸けた真摯な研究生活の結論として、この「イリュージョン論」という特異な世界観に到達した。

氏の著作世界を、こんなふうに見てごらんはその最晩年に書かれた著作であり、おそらく後の世への、その生涯を懸けた遺言の意味もあったのではないかと思われる。この「イリュージョン論」という世界観が、世に受け容れられ難いことを自覚しつつ、次世代を担う若い人たちに是非とも伝えたいとの思いでこの書物を遺したといえる。この書物には氏が唱えたイリュージョン論と、そこから引き出されてきた《やがてくる無重力時代の到来》という、これも世の常識とはいささか違った風変わりなお考えが、後世への、あるいは次代を担う若い人たちへの真摯な示唆として書き遺(のこ)されている。ことに氏のいうところの、人間はあらゆる意味において、より処を持たない存在であるという達観、すべての人がいずれこのことに気付き、受け容れざるを得なくなる精神的な意味での無重力時代が必然的に来るであろうという予告は、現代の社会が抱える様々な問題について大きな一石を投じる見解であり、一時代を画する提言といって過言ではない。この括目すべき提言についての世の人々の関心・評価は皆無に近いのははなはだ残念なことである。この書物に書かれていることの、その重さにもかかわらず、残念ながら、このイリュージョン論に基づく氏の提言はそれほど話題を呼ぶこともなく、時とともに忘れられる運命にあるようだ。

ところで、氏の《やがてくる無重力時代の到来》という考えを、「風変わりな」と表現したが、序章からここまで読み進めていただいた読者にはすでにお気付きであろうが、考えてみれば氏のイリュージョン論、これはまさに第1章で触れた釈迦の正覚「諸行無常 諸法無我」そのものであり、仏教においては、風変わりでも何でもない。当然そうあるべき卓見である。

では、その一風変わったものの見方とは一体どのようなものか。とりあえずまず氏の主張するところを、氏の著書の中の言葉を借りて結論的にまとめると、次のようになろうか。

    科学は、真理の追究だ、などという人がよくいますけれども、そういう人のことは、ぼくはまったく信用しません。そんなものは、あるはずがないというような気がします。

    科学も一つのものの見方にすぎないと教えてくれるいくつかの書物に早く出会えて、ほんとうによかったと思っている。 おかげで科学によって正しい世界が見えると信じ込む人間にならずにすんだ

氏が大胆に指摘している通り、もし真理というものがこの世には無く、科学によって正しい世界が見えるという一般の信念が誤りであるとしたら、科学者なり、学者は一体何をしているのかという疑問が生じて当然だが、それに対して氏は次のように明言している。

    学者・研究者をふくめてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えは一つしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ

これは要するに、楽しいからやっているのであって、それ以外に意味だとか、価値とかの理由は一切ないといっておられることになる。一般の意表を衝く、実に大胆な表明である。東京大学、京都大学を通じての動物学の大学教授という学者・研究者であり、科学者でもある氏自身が、自らの立場をすら顧みない信念の真摯な表明である。

科学もまたイリュージョン

これらの言葉は、私たちが今まで教えられてきた常識や社会通念を真っ向から否定するものであり、生まれてからこの方、科学的であることがこの世で一番正しいことと教えられ、そのように骨の髄まで沁み込んでいる私たちにとっては、非常に違和感の激しい主張である。日高氏の上記の言葉のいわんとするところをもう少し敷衍すれば、科学者・哲学者を含む諸学問の学者・研究者の研究なり、その活動が、決して一般に信じられているような真理の究明とか、本質の解明とかいう、ご大層なものでは決してない、学者の仕事とは、ただ面白いから、それを楽しんでいるだけに過ぎないと眞正面からいい切っている。学者・研究者の中には未だに、科学とは真理を追究する学問であると信じ切っている人々もまだまだ多いようであるが、氏の主張は、人間には人間としての知覚能力の限界というものがあり、神にでもならない限りすべてを解明することなどできることではない、といっておられことになる。実に思い切った発言であり、学者として、科学者として並みの覚悟でいえる言葉ではない。それだけに、この氏の表明は、さまざまな批判を覚悟してのものであったといえる。

ちなみに、「人間としての知覚能力の限界」とは、他の動物と同様に、人間に与えられている知覚能力は、人間がこの世で生きていくために必要な範囲に限定されているということである。たとえそれ以上のものが与えられても、この世に生存していくために必要という文脈に沿った能力だけが残されて発達し、それ以外のあまり必要とされない感覚・感官は退化という道を辿るように我々は造られている。要するに自然としての限界が厳として存在するということである。

科学はいずれは真理に到達する学問であると信じたままの人が大多数であり、そしてその研究領域は宇宙の何億光年の彼方にまで広がり、ほぼこの世界のことはわかったようなつもりの人も多い。しかし、囚われのない、そして驕(おご)る気持ちの少ない真摯にして心ある学者、科学者は、人類が今までに知り得たことは、この宇宙のほんのわずかであり、微小であることをしっかりと認識しており、そのように洩らしてもおられる。この辺りの説明はこのシリーズの鈴木晶子先生のご著書「知恵なすわざの再生へ」よりその一節をお借りしたい。

「人間は自らのあり様をその人間という地平から捉えようとする。・・・ ・・・その地平の外、地平の彼方に決して知ることのできない不可知の世界が広がっていること。このことを心得ることで人間は驕(おご)りを持たずに済むのである」とある。この言葉は、鈴木氏ご自身が現代の最先端の哲学・科学・物理学の行き着いているところを検証された上での表明である。これ以上の説明は不要であろう。しかるに、多くの人は自らのこの驕りに気付かず、学問を誇り、科学の進歩を誇って止まない。その流れが、どのように恐ろしい世界をもたらしているか、ここまで各所で触れてきた通りである。

本題に帰って、ここで誤解してならないのは、日高氏はイリュージョンだから駄目だ、といっているのではなく、次のようにさえいっている。

 人間はイリュージョンとしてしか世界を見ることはできない             

そしてまた、こうもいっている。

 人間はイリュージョンがなければ生きていけない

 これらの二つの言葉も、これを初めて聞いた方々には、かなりの違和感を抱かせることだろう。しかし第章においてすでに見てきたように、この世において永遠の真理というものが存在するはずだと思うのは人間の単なる思い込みであり、また厳然として目の前にある現実こそ、瞬時に次々とその姿を変化させていく幻(まぼろし)に過ぎない、という釈迦の世界観、「諸行無常 諸法無我」を忘れるわけにはいかない。また、先の「人間はイリュージョンがなければ生きていけない」という氏の言葉は、序章で引用したスマナサーラ長老の「(人間とは)自己はないのに、あると思わなければ生きていけない動物である」と同じことをいっている。つまり、自己というイリュージョンなしでは人間は生きていくことできないということである。

イリュージョンについての日高氏のこのような考え方を今の時点では受け入れがたいと感じておられる方々も、次項「ユーザーイリュージョン」及び「人間のユーザーイリュージョン」以下を読んでいただき、その後に改めて氏の説くところに素直に耳をかたむけていただければ、氏のこれらの言葉も決して突拍子もないことではないとお分かりいただけるのではないか。また、人間とは、イリュージョンがなければ生きていけない生き物であるということも、ご納得いただけるはずである。

ユーザー・イリュージョン 

一九九一年にデンマークのトール・ノーレットランダーシュが『ユーザーイリュージョン』( The User Illusion – Cutting Consciousness Down to Size )という本を著している。

ザックリいえば、「私たちは自分の脳にだまされているのではないか」ということがこの書物のメインテーマといえる。この書物は、「普段、私たちが実感していると思っている知覚や認識は、はたして本当に自分が実感している、つまり自分の五感で感じ取っている感覚そのものであるのかどうか」、はっきりいえば、「それはひょっとして、私たちの脳の裏で他の誰かが操作して、そのように見せているだけではないか」という疑いについての詳細な研究である。

「ユーザーイリュージョン」の一番わかりやすい例としては、パソコンとか、スマホのタッチ画面操作がユーザーイリュージョンそのものであるといえる。液晶画面のページを指でめくったり、移動させたり、あるいはまた画面をなぞりながら親指と人差し指を開いたり閉じたりして画像を拡大したり縮小したりする操作は、現今では小さな子どもも含めて誰もがたやすく行う日常茶飯事である。そしてその操作を習い始めの当初はともかく、少し慣れてくると私たちは自分の指の動きがそのまま直(じか)に画像を引き延ばしたり、縮めたり、ページをめくったりしているような気になってくる。しかし実際には、指の働(はたら)きが直(じか)に画像の動きや画面の転換に繋がっていないことは、子どもはともかく大人ならわかっているはずである。つまり指先のさまざまな動きが直(じか)にページをめくったり、画像を拡大・縮小したりするように見えるのは、液晶画面の裏側にびっしりと詰め込まれた機器の内部に、いろいろなセンサーを内蔵した精密な仕掛けがあり、それが指先の動きをセンサーで感知して瞬時に大作業を行った結果として画像が動くのであって、指先の動きがじかに画像を動かしているように見えるのは一種の錯覚であり、イリュージョンであることを大人なら知っているはずである。しかし、その大人にしても、これらの指の動きと画像の動きとの間に、想像を絶するほどぼう大な作業行程と、それぞれの行程の中での俊敏極まる判断作業等が行われ、またそれらの作業を支える非常に複雑な機械的メカニズムの素早い働きがあることを忘れ、見落としている。そして昔であれば、大工場や大オフィスの中で数知れない位の大勢の人々が遂行するに等しいぼう大な量の作業が瞬時に、小さな自分の掌の中で行われていることなど想像もつかないはずである。そして次第に、そんな機械の内部のことはそっちのけで、子どもと同じように指が画像そのものを動かしているような気になってくる。つまり、感覚的には錯覚を信じるようになってくるのである。このようないわゆる「ユーザーイリュージョン」が、まさに世界中で、あらゆる仕事や、旅行やリクリエーションを含む無数の遊びを快適に行うことができる便利な仕掛けとして広く一般化しているといえる。つまり、「ユーザーイリュージョン」は、今や現代社会の日常茶飯事として今の世の中にあふれかえり、人々はこのイリュージョンを現実と混同してこの世で生活し、人生を楽しみ、また仕事をこなしていることになる。

いい換えれば、今の私たちの日々の実生活とは、日高氏のいうイリュージョンのお陰で私たちが複雑で、面倒な手間を省いて、快適、軽快に生活をエンジョイしている姿そのものである。このイリュージョンなくしては世界がスムーズに作動しない環境になってしまっていることがよくわかるはずである。ここで改めて氏の先ほどの言葉、「人間はイリュージョンがなければ生きていけない」という指摘が思い起こされるはずである。既に地球上の実に多くの人々が、このイリュージョンに依存し、これに頼り切った形で生活を維持している。もはや私たちには、これらのイリュージョンの裏側で行われている厖大かつ複雑な作業に気をとられている時間も余裕もない。今や「ユーザーイリュージョン」は、あらゆるコミュニケーションや経済的・社会的な諸活動の為の欠くべからざる簡便な道具と化している。

このようなイリュージョンを私たちは経験と呼んでいる。しかしながら近年は「経験とは仮説である」ことを認める科学者も多くなっている。錯視の権威といわれるリチャード・グレゴリー(英国の著名な実験心理学者)は「経験とは仮説である」、「現実は一つの仮説である」という言葉を残している。脳科学者・茂木健一郎氏も「現実も仮想である」と明言している。道元禅師も、現(うつつ)も夢も変わらないといっている。目覚めてみるこの世も、夢に見る世も同じことだといっていることは終章において詳しく述べた通りである。(P000)

いってみれば、私たちは自分の脳に、そしてそれに付随した諸器官・諸機能に騙されているといえる。あるいは錯覚させられているといえる。ただ、悪意を持って騙(だま)しているのではない。良かれと思ってだましているといえる。また、私たちをこの地球上で生かすために必要欠くべからざることとして騙(だま)しているともいえる。逆にいえば、私たちはこの世に生き続けるために、あえて騙されているといえる。自分ではその意識はないが、私たちをこの世に生かしめている大自然が、あえてそのように取り計らっているといえる。

人間内部のユーザー・イリュージョン

今や、世界はITの時代が助走を終え、いよいよAIという離陸の段階に入ったようであるが、ITとAIを結ぶ重要なファクターとして、近頃、最もやかましく話題を集めているものにビッグ・データと称するものがある。現今ではいろいろな企業や、研究所、あるいは政府機関等の種々の部門で収集されている多種多様なデータというものは、実のところあまりにも大量過ぎて、そのままではとてもものの役に立たない。その種の専門家の手によってぼう大かつ複雑な取捨・選択・編集という加工を経てやっと人間様の用をなし得る有益な情報になる、といわれているものである。 

そして、実は、私たち人間自身も、それぞれが個人的にビッグ・データを日々収集している、といえる。つまり一番身近といえる自分の身体の中で、そのような厖大なビッグ・データが収集・蓄積され、日々忙しく処理されていることに、私たち自身がまったく気付いてもいない。しかしこれこそが、先にあげた日高氏のイリュージョン論と深くかかわるところである。

気が付いてみると、私たちの身体も毎日、いわゆる私たちの五感なり、人によっては第六感も駆使して、ビッグ・データの収集に励んでいるらしいということが近年になってわかってきた。個人的なデータとはいえ、そのデータの量は驚くべきことに、企業なり、研究所等のコンピューターが集める量をはるかに超える。いやそれどころか、私たちの想像を絶する、一秒間に何億というほどぼう大なものであることがわかってきており、それはとてもとても私たち自身の意識の働きの手におえる量ではない。意識というものは基本的には一度に一つの事しか扱えないとされている。ちなみに仏教でも、人間の心には一夜のうちに何億何千万という数のいろんな念が生じているという。このような大量のデータを私たちはどう処理しているのだろう。著者のノーレットランダーシュによれば、次のようなことが私たちの内部で行われているという。

私たちが五感を使って感知し、一秒間に何億という色、音、香り、感触、等の諸々のデータの収集と、その集めたデータを使った目も眩むほど複雑な処理行程は、私たちの意識の届かないところで瞬時に行われてしまっていて、そのぼう大な作業工程のほとんどは報告として私たちの意識に提示されることはない。私たちの意識に開示されるデータは、実はすでに大幅に処理されてしまっている。つまり、編集処理が終わった後のまとまった結果だけが、現実であるかのように私たちの意識に提示される。したがってまた私たちは、一つの意識の背後には無慮何億というデータ収集があったということをまったく気付いていない。

私たちが何かを経験するとき、私たちの意識としては、私たちの身体の感覚器官が感知し、収集した生(なま)のデータそのものに触れ、それそのものを経験しているようなつもりでいるが、実は生(なま)とはほど遠い、大幅に処理された後の一番最後の結果が意識に示されるだけである。つまり、そういう複雑かつ大量の処理作業が終わった後の結果だけが私たちの意識の表面に登ってくるということである。それらの処理の中には、データの解析、検証、抽出等の編集作業としてのシミュレーションとぼう大な量のデータの省略・除外も当然含まれている。ちなみに、いま編集作業といったが、その編集とは私たちが「この世に生存していくために最低限必要」という文脈に沿った編集という意味であり、その編集作業にはまた、当面生きていくことには、現時点ではさして必要が差し迫っていない大量のデータの除外・削除等も含まれているということになる。いや実は、ほとんどが除外され、捨てられるといって過言でない。つまり、私たち感覚器官が収集した数知れぬ量のデータが、私たちが知らないところで闇から闇へと捨てられ、葬り去られていっているのである。

人はイリュージョンの助けで生きている

私たちは生き物である以上、何としても生き延びようとする衝動に支配されている。その生物的生存を可能にするために私たちの五感は外界の情報を可能な限り収集し、その集められたビッグ・データを駆使して刻々と、どう行動するかの判断を適時に、そして迅速に下すことを常に迫られている。しかし私たちの表層的な意識には、そのような大量のデータの編集作業を含む処理を瞬時にこなす能力はない。それを何ものかが代わってやってくれているのだ。つまり、私たちが何かを眼や耳で感知してから、一つの経験として意識にのぼってくるまでに、いい換えれば、何が見えたか、何が聞こえたか、いったい何が起こったか等を意識的に認識するに至るまでの間に、何千万、何億というデータの編集処理が行われていることになる。

ちなみに、このぼう大なデータの処理にかかる時間は一体どれくらいか。この疑問については米国の著名な神経生理学者・ベンジャミン・リベットの気の遠くなるほど周到かつ緻密に準備された壮大な実験の結果が明らかにされており、それによればこれらの編集や処理作業に要する時間は0・五秒であるという。0・五秒といえば、人間の意識感覚としてはそれは瞬時である。いや、それよりも「即座」といった方が当たっている。私たちはその即座ともいえる瞬時の間に、自分の内部でそんな大作業工程が遂行されているとは夢にも思わない。したがって、それくらい敏速に処理されているからこそ、私たちはありのままの生(なま)のものを直接に見聞きし、それに如実に触れていると錯覚している、また、そのように思い込まされているともいえる。つまり、この瞬時ともいえる0.5秒こそ、私たちの意識のすべてを決していることになる。 

そして、データの量的なことをいえば、選択・削除等の編集作業後に最終的にアウトプットされる結果としての意識の量は、私たちの感覚器官が意識の一瞬前に収集した元のデータの百万分の一くらいとされている。集められたデータ量がほぼ五〇〇〇万ビットを上回るとしても、それに対して意識にアウトプットされる量は五〇ビット足らずといわれる。九九%はおろか、限りなく一〇〇%に近いほとんどが廃棄処理されている。つまりデータを絞りに絞ってにじみ出たごくわずかな意識の一滴、このわずかなひと雫(しずく)が、私たちを生かしてくれていることになる。著者ノーレットランダーシュの表現を借りれば「その一滴の雫(しずく)の助けを借りて、私たちはほかならぬこの地球という惑星の表面でかろうじて生き続けている」といえる。

先ほどの説明からも理解されるように、私たちはこの「ユーザーイリュージョン」なしには日々の複雑・多様な生活の場面場面をスムーズに切り抜けて、生き続けていくことは不可能である。この「ユーザーイリュージョン」なしでは、私たちはデータのぼう大な集積の山の前で、ため息をつくだけで、手も足も出ない。

 かつてコンピューターというものは機械内部の仕組みに精通した専門の技術者でなければ操作することなど到底できなかった。つまり私たち、いわゆる電子機器の仕組みなどには苦手な一般人には、コンピューターを使いたいと思っても技術的に複雑すぎてとても使えなかった時代が数十年あったが、その頃から見ると今はまさに夢のようといえる。この「ユーザーイリュージョン」のおかげで何にも知らない子どもでさえ、この複雑かつ精密な驚くべき機器をいとも簡単に操作できる時代になっている。

したがって繰り返しになるが、厖大なデータを絞りに絞ってにじみ出たこのごくわずかな意識のひと雫、つまりイリュージョンが私たちを生かしてくれていることになる。そのイリュージョンの助けを借りて、私たちはなんとかこの地球という惑星の表面でかろうじて生き続けることができているといえる。

 日高氏も同じことをいっているのであり、このイリュージョンなしでは私たちは生きていくことができない。つまり、氏のイリュージョン論の結論として、あえてもう一度引用を繰り返すと、「人間はイリュージョンとしてしか世界を見ることはできない」であり、また「人間はイリュージョンがなければ生きていけない」のである。 

この日高氏のイリュージョン論について、『動物と人間の世界認識』(二〇〇三年、筑摩書房)というもう一つの氏の著作の解説の中で村上陽一郎氏【注 】は「人間の認識する世界は、決して普遍的でもなく、客観的でも、絶対的でもないという主張は、普通は哲学者にも、ましてや《客観性》を重視する科学者には、受け容れ難いもののようだ」と述べている。村上氏は自分もその相対主義的科学観を主張する許しがたい一派の一人として叩かれている、と洩らしている。

すべての人がとはいわないにしても、絶対的真理とか絶対的現実にしがみついている人は、一般の人々のみならず哲学者、科学者にもまだまだ多いといえるようだ。だからこそ一休禅師は「早く目を覚ませ」といっているといえる。

それにしても、いったいこれは誰の仕業か。私たちの意識の届かないところで、こんな人間業をはるかに超えた無限に近い量のデータを処理し、操作しているのは一体誰なのか。

ノーレットランダーシュがこの『ユーザー・イリュージョン』の冒頭に掲げ、また最終頁のしめくくりとして置いたのは、スコットランドの天才的物理学者ジェームス・クラーク・マックスウエルが臨終のときに洩らした次のことばである。これは先に第三章四節「禅語」(P000)で引用し、繰り返すことになるが、重要な言葉なので、改めて引くと、

私自身と呼ばれているものによってなされたことは、私の中にいる私自身よりも大いなる何者かによってなされたような気がする。(What is done by what is called myself is, I feel, done by something greater than myself in me)

このマックスウエルの「私の中にいる私自身よりも大いなる何者か」とは一体何なのか、一体誰なのか。

それは、【 随処作主 】で引用した山田無文老師のいう「生まれたまま、そのままで結構じゃという 立派な主体性」であり、それは生きいきとした《 いのち 》のことである、としか言いようがない。そしてその《 いのち 》には無業禅師のいう生まれながらにして具有している智慧」が備わっているのである。それは、また同時に、大自然でもある。少なくとも、いわゆる「自己」でも、「己(おの)れ」でもない。

2 宙に浮くすすめ    

より処がない状態をよしとする

冗談ではないかと思いそうな、実に奇抜としかいいようのないおすすめである。しかし日高教授は前出の『世界を、こんなふうに見てごらん』のなかで、この「宙に浮くすすめ」という見出しで一項目設けている。氏は大まじめに、真剣に勧めておられるのだ。

近い将来、人類はほんとうに無重力空間に出ていく。ならばその精神もまた同じように、絶対のより処のない状態をよしとできるように成長することが大切ではないだろうか

 この言葉こそが、日高教授が後続の若者たちへ残した遺言であるといえる。無重力空間という物理的世界だけにとどまらず、やがて精神世界でも、つまり心の世界でも無重力状態、つまりこの世界には真理などなく、人がより処にできるものが何処にもないということを認識せざるを得なくなる時代が迫っていることを確信し、そのつもりで考えていかなければ、そしてそのつもりで対処できるようになっていかなければならないのでは、と言っている。この言葉の中の「絶対のより処のない状態をよしとできるように」とは、たとえ不本意であろうとも、無理な誤魔化しをせずにそのまま受け入れる、受容するということをいっている。それはつまり、この世に永遠の真理などない、絶対的真実というようなものも存在しない、したがってまた絶対のより処もないのだということをそのまま素直に認め、そのまま受容できるような大人になることが大切ではないか、といっておられるのだ。

釈迦は「諸行無常 諸法無我」を説き、そして「一切受容」を説いた。繰り返しになるが、無常とはこの世のあらゆるものごとは、一つの例外もなしに常に変化していき、元の姿をいつまでも止めるものはない、ということであり、事実私たちの身体も、自分では昨日も今日も同じ自分と錯覚しているが、私たちの身体の何兆という細胞は一時も休まず瞬時に死滅し、瞬時に新たに生まれ、かたときもそのまま止(とど)まることがない。現代人は身体の新陳代謝を良くしようなどと気楽にいうが、それは昨日の自分がそっくり跡形もなく消えて、今日はまったく別の生体になっていることを意味していることになる。また、たとえ岩石、金属にしても、なかなか変化していないように見えてはいるが、微細な部分では変化は間断なく続いているのだ。これを見抜いた釈迦の「諸行無常 諸法無我」の悟りは驚嘆に値する偉大なものである。永遠の真理などは一片の単なる言葉に過ぎないのであり、そうあって欲しいという人間の弱さが生み出した根拠のない妄想であり、単なる子供っぽい憧れに過ぎない。

真理など存在しない

日高氏は随所で「真理」という言葉なり、真理という問題について触れてきた。そしてその度に、真理というものの存在を否定的に捉えざるを得ないと思えてならない心境を折に触れて吐露してこられたといえる。したがって氏の結論として、精神世界における無重力の世の中がやがて来る、つまり心のより処になるものが何処にもないということがやがて誰の眼にも露(あら)わになる日が、そしてそのような世の中がいずれ訪れる、そのための用意がそろそろ必要だよ、と諭(さと)しておられるといえる。そのときになって、慌てて間違った道を選んだり、自暴自棄になったりすると、かつてのオーム真理教に迷い込んだ若者たちのようになるよという。この言葉こそが氏の遺言の最大のポイントである。

氏は科学者である。しかし、科学者である前に動物学者であり、同時に真摯で徹底的な自然観察者である。さらにいえば、氏は科学というものを信用していない。言い換えれば、科学という言葉が造りだす粗雑な世界を、また科学さえ信じていれば間違いないとか、科学的な見方のみが正しい見方であるといった気楽な楽観主義がはびこっている世界をほとんど信用していない。

科学はこの世の真理を究める学問であるといわれ、またそのように信じられてきた。しかし今日、そのことを疑う人は数多く輩出されてきている。それにもかかわらず、未だに科学を無条件に信じる人が多く、科学が真理を追究し、いつかはその永遠の真理とやらに到達するはずであると信じて疑わない人が非常に多いといって過言でないのが現状である。そして、それがために人は善を行っているつもりで余計なことをする。どこまでも分析を積み重ねていけば、いつかは真理に到達できるという自惚れが、科学の目指す方向を誤らせ、とんでもない世界を招き寄せている。このことはいままで縷々述べてきた通りである。憂うべきことというほかない。日高氏のこの主張に感情的に反発したり、根拠なく中傷したりする人が多いことは先に村上陽一郎氏(P17)の言葉で触れた通りである。

この精神的な意味での無重力の世の中の到来ということであるが、それは何か特別の、新しい世の中がやってくるのだと勘違いしてはならない。それはいわば、本来そうあるはずのことがあらわになった今のままの世の中のことであり、言い換えれば、曇ったメガネのせいで見えなかったものが、曇りが取れ、本来見えるべきものが、はっきりと見えるようになってくるありのままの世界という意味である。それはまた、既成の社会通念や固定観念によっていかにももっともらしく捻じ曲げられ、仮面で装われた世界でなく、ありのままの世界が現れてくることをいっている。加えて氏は次のような言葉を残している。これは「(真理など存在しない、という考え方に立って、ご自身は)不安ではないですか?」という問いに対する答えとして出てきた言葉である。

    それはとても不安定だけれど、それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか。よって立つ地面がないということが、物理的な意味でも、精神的な意味でも、これからの人間の最大のテーマなのだと思う  

   

先にも述べたが、すべてギャンブルだからこそ、生きようとする意欲が生まれる。それが氏のいう、「不安定だけれども、それでこそ,生きていくことが楽しくなる」というのと同じである。

また、日高氏のこの言葉、「それでこそ、生きていくことが楽しくなるのではないだろうか」こそが、第3章の「禅語」の項において取り上げ、そしてまた終章「遊びせんとや、生まれけむ」で再び触れたように、禅にいう「随処作主」つまり、随所において主となるの境地を指す言葉に通じるものであり、氏のこの言葉は禅の究極的境地ともいえる言葉である。真実というようなものもなく、生きる意味もない、さらに神もないというまさに世間虚仮(こけ)のこの世を生きていくのに、いかなる環境境遇におかれようともそこに「遊戯(ゆげ)三昧ならん」(Pnnn)とする心構えの言葉である。このことはまた、禅にさして縁のない科学者が発した言葉として、実に注目に価する。氏の主張は、たんに理屈をこねまわしただけの言葉ではなく、科学者でありながらの言葉であり、また生涯を書斎を出て動物行動学という数寄の道のフィールドワークに徹した日高氏の、その実体験から生まれ出た一つの直観であり、「悟り」であるに違いない。 

    

    神であれ、科学であれ、一つのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱えてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか。頼るものがあれば人間は楽だ

より処があれば楽だが…

頼るものがあれば人間は楽だ、と氏はいう。何の根拠もなしに「永遠の真理」とか「絶対的真」とか、あるいは「科学の使命は真理を追究することだ」というような固定観念にしがみつき、それらを頼りにするのは楽なことではあるが、突き詰めればそれは、真理というものがあって欲しいと思い、それを夢見る人間の弱さであり、幼稚さである。もっと大人になることが大切ではないか、と訴えているのだ。

そして氏はまた、若い人たちが、そのような固定観念に禍(わざわい)されて誤った道を選びかねないのを非常に心配しておられる。若い、それも高学歴で優秀といわれる人たちが、オウム真理教への入信へ傾斜して行ったことを憂え、その原因を、またそのよって来たるところについて、次のような言葉を残している。

引きこもりやカルト、無差別殺人といった様々な現代の問題には、どれも自分の精神のよって立つところを求めたが故に、暗い洞窟に入り込んでいった様子が見える

若い人たちの迷いの原因を、「絶対的真理」等の偏った固定観念を拠りどころと信じ、そのありもしないものを探し回った結果と観ているのだ。そしてそれらを信じたい自分の弱さを誤魔化すような固定観念を打ち破って前に進むための示唆として「宙に浮くこと」をすすめ、相対的な考え方を持つことを促そうとしているといえる。

それははっきりいえば、人間はこうあらねばならないというような善人ぶった建前論や、稚拙な倫理性をさも意味ありげに振りかざすのをいい加減にやめて、本音で生きることが大切なのでは、という示唆であるともいえる。

氏はいう。「いろんな生き方があっていい」と。人生とはこうあるべきだとか、人間はこうあらねばならないとか、そういう固定観念は捨てないと、かえって変なところへ迷い込む。そしてそういうた囚われや、こだわりが思ってもみない巨悪を行じることにつながりかねない。こうでなければならないとか、こうすべきだとか、これこれという貴い使命があるのだからとか、世にはびこるそれらもろもろの通説や建前論に囚われずに、自分が好きだと思える道を選び、楽しんで生きることが大切では、といっている。

もしも、教育というものが、善であらねばならないとか、人としての使命はこうだとか、いうようなものであれば、それは少年の頃の日高氏が「お前のような奴がいるから日本は戦争に負けたのだ」とか、「お前なんか死んでしまえ」とののしられ、責められた当時の「教育という名の拷問」と大差ないことになる。そのようなレベルの教育を真剣に、大真面目にやっていた戦前なり、戦中と、今、この現代においてもなお、このような古い固定観念に縛られた世の中とどこが違うのだ、といいたいのではないだろうか。

もう一つ日高氏の考えの中で注目すべきは、「イリュージョンを楽しめばいい」、「それでこそ生きていくのが楽しくなる」、あるいは、「学者とは新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだ」というように楽しむという言葉を強調しているところにある。このことを人によっては恐らく、なんだけしからん、学問と遊びとを一緒にしていると批判・非難する方も多いかも知れない。しかし、仏教の究極、禅の行き着くところは《遊戯(ゆげ)》にある。《遊び、戯れ》にあるという。これをどう捉え、どのように受けとめるかである。

氏の語り口はまるで独り言を言っているかのように聞こえる。どこか遠く、遥かな先に目を遊ばせて、これから育ってくる若い人たちを脳裏に思い浮かべ、静かに語りかけているように聞こえる。日高氏は自分の考えを人に押し付けようとはしない。あくまでも「すすめ」である。それは「世界を、こんなふうに見てごらん」という氏の著書の題名を見れば明らかである。                                                        


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2020.9.9