先に、南博先生 「学者渡世」の考察を行い、先生の幼児期の教育、父君の影響を紹介した。大変、間が開いて諸兄に御迷惑をかけました。
今回は、その後編として、ご母堂の芸術的影響を紹介する。
まことに、絢爛豪華、
終戦直後、芋も食えないで過ごした吾人とは雲泥の差である。以て瞑すべし。
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「学者渡世」考察 ご母堂の芸術的影響
幼少期に母から受けた精神的影響は、美的な面が大きかった。美術が好きな母は当時の展覧会には。いつもぼくを連れて行った。小学生なりに。第六回帝展(1925年)で見た堂本印象の「華厳」、第七回(1926年)の山口蓬春「三熊野の那智の御山」平福百穂「荒磯」、第八回の鏑木諸方「築地明石町」などに眼を奪われた。
母は、また親しいお友だちに『青踏』の同人だった藤浪和子さん(旧姓 物集もずめ和子)をもち、それに、一度だけだと思うが神近市子さんが訪問されたことをおぽえている。いずれも、ぽくが小学校時代だったから、どういう話題が出たかは知らない。ただ母が、そういう傾向の女性たちと話が合ったことは事実である。まったく違った傾向のお友だちとしては。二代目左団次さんの奥さんだったお富さんがずっと長い間親しくいつもご夫婦で尋ねて来た。父は左団次さんと江戸時代の古書の話、母はお富さんと食べ物や着物の話をしていた。
ふりかえってみると、歌舞伎の名優たちを間近に見たのは、小学校に入ったばかりのことである。又木の叔父のつれあいにたった亀子叔母は、大倉組の大倉喜八郎の孫であり。その母は、「高嶋のおぱさま」とよばれ、永田町の邸では。日本にめずらしいサロンがひらかれていた。右にあげた役者さんたち、今の吾妻徳穂さんが、春枝といってティーンーエージャーだった。一緒にゲームをしたことをおぽえている。邦楽。邦舞。映画の人たちも来ていた。「おばさま」の子息のつれあいが「花子きん」といって、フランスの(ハーフだった。ほかに書いたこともあるが。ポールークローデルをあのサロンに連れてきたのも彼女である。林達夫先生も高嶋の緑つづきだったらしく、「高嶋家のサロン」は、記録に残すべきだとぼくにいわれたことがある。
また大正時代の代表的な美人として、「酒は正宗、芸者は萬竜」とうたわれたひとが。歌舞伎座を設計した建築家、岡田進一郎先生の奥さんとなって、時々家へ来られた。小学生のぼくから見ても、華やかな明るい感じの女性で今でも深く印象に残っている。母は口ぐせのように「私はきれいな女の人が好き」といっていた通り新橋の名妓で亡くなった喜代竜さんや先代亀蔵さんの奥さん。それに松竹歌劇団のズターたち津阪オリエ、江戸川蘭子なども遊びにきていた。芸術にしても女性にしても、美しさに子ともの時から感動することを教えてくれた母に感謝する気持ちが残っている。
南先生のその後、心理学に到達するまでの経緯は、また改めて紹介したい。