【管理人注】「遊びをせんとや生まれけむ/戸松君感想」に対し萬野君から補足説明がありました。なお、末尾に戸松君の感想も再録します。
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戸松兄
お待たせしました。一応出来ましたので、お送りします。
貴原稿の冒頭に、いきなり「遊戯」、「游行」という禅語としては一番難しい核心の言葉が出てきましたので驚きました。
しかし、次の言葉「一番人間の本性に合致した構え方である」に違いないので、何とかこれを生かしたいと書き継いでいるうちに長くなりました。
また、よい機会でもありますので、長くなりついでに便乗して書き加えをしました。
加えたのは、第4章4節の養老孟司氏のところですが、この部分は文章が平易で、難しいものではなく、むしろ易しい文章であることをわかってもらえる良い機会であると確信しました。
また、「第4,5、終章だけでも目を通してみたら面白い」というお説の通り、この部分は拙著の一番重要な部分であり、同時に一番面白い部分でもあります。
この部分が読者の目に触れることは、願ってもない良い機会でもあると感じました。
萬野
曹洞宗の開祖道元禅師が著わした『正法眼蔵』には
仏法をならうとは、自己を習うなり、自己を習うとは、自己を忘るるなり
という、あまりにも有名な一節がある。つまり、自己などあると思っている内はまだまだであるということのようである。では、自己が存在しないとすれば、この生きたり死んだり動いたりするものはいったい何か。
それを道元禅師は「この生死は、すなわち仏の御いのちなり」と説いた。また、この「仏の御いのち」を「心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ」という。つまり、この《 いのち 》の不思議を、理論・理屈であれこれ詮索するな、言葉でいい表そうとするな、と道元は強調している。要は、頭なり頭脳に頼ろうとするな、と口を酸っぱくして教えている。
そして「ただわが身をも心をも放(はな)ち忘れて、仏の家に投げいれて、仏の方よりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、力(ちから)をもいれず、心をも費(つい)やさずして、生死をはなれて仏となる」(正法眼蔵、「生死」の巻)(自分の身体のことも、自分の心もきれいに忘れ去り、すべてを大自然に預け切り、任せきって、後は大自然の声を素直に聞き、これに従って行きさえすれば、何の努力も要らず、難しいことを考えることもなく、自ずと生死を離れて《 いのち 》のやすらぎを得ることができる。)と説いている。
筆者はこの道元禅師の正法眼蔵・生死の巻の言葉「ただわが身をも心をも放(はな)ち忘れて、・・・ ・・・ ・・・ 」を禅師の生涯をかけて真の仏教を日本に根付かせるという大きな事業の核芯の言葉として、その著作の終章の最終の言葉とした。
その好例の一つとして、この第4章から養老孟司氏を取り上げると、引用が少し長くなるが、次の通りである。
4 養老孟司
「生死」を離れる
仏法、また禅の目指す境地の一つは、「生死(しょうじ)」のこと、つまり人生の一大事である「生き死に」についての終わることのない悩みから脱却することといわれている。つまり「死ぬことを怖れない」である。この「生死」からの脱却・解脱を仏教、また禅においては、「生死を離れる」という。
「生死を離れる」ことができれば、それは即ち、「悟り」である、とする。たとえば、次の養老孟司氏の言葉は、氏ご自身のこの辺りのことについての心のあり方を非常によくあらわしているので、少し長いが引用したい。
風那はほとんど引かない。一年おきに一、二回ていどだと思う。バカは風邪を引かないというけれど、たぶんそれであろう。薬は飲まない。飲んだって飲まなくたって、一定の経過をたどって、いずれ治る。治らなきゃどうなるかというと、肺炎を起こして、経過が悪けりゃ死ぬだけだから、気にしない。肺炎になったら、なった時のこと、身体が弱っているんだから、しょうがない。どうも私は、寿命は天命だと考えていて、自分の努力でなんとかなると思っていないらしいのである。自殺する人が多いのは、寿命を自分で左右できると思う人が増えたことと、無関係ではないと思う。気がついたら生まれていたのだから、気がついたら死んでいた、でいいのだと思うのだが、文明人はそうは思わないらしい。寿命がくるときは、どうせくると思っていれば、慌てて死ぬこともない。まったくのあなた任せだが、それ以外に何ができるというのだろう。
養老氏のこれらの言葉、「(肺炎になっても)「経過が悪けりゃ死ぬだけだから、気にしない」、「(自分は)寿命は天命だと考えていて、自分の努力でなんとかなると思っていないらしい」、「気がついたら生まれていたのだから、気がついたら死んでいた、でいいのだ」、「まったくのあなた任せだが、それ以外に何ができるというのだろう」。これはまさに、生死を離れ、生死を脱却している人の言葉としかいいようがない。これを悟りといわずして、何処に悟りがあろうか。これを超える悟りはないといえる。「一切受容」の心が、これらの「気にしない」、「なったら、なった時のこと」、「まったくのあなた任せだが、それ以外に何ができるというのだろう」という言葉のなかに歴然とあらわれている。
「生き死に」の問題はすべての人間にとっての大問題であるといわれ、すべての人は死というものをそれこそ死ぬほど恐れているはずである。また古来生き死にのことは人生の最大事としてことあるごとに取り上げられ、生死を離れることができるような境地を渇望し、希求してきた。この大問題を養老氏は「気がついたら生まれていたのだから、気がついたら死んでいた、でいいのだ」、「なったら、なった時のこと」、「気にしない」という言葉で楽々と乗り越えている。これこそ釈迦が説く「一切受容」であり、また江戸時代の良寛禅師の「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ、災難を逃(のが)るる妙法にて候」である。この良寛の言葉は「逃げようとするから却ってそれに囚われて、悩みは死ぬまで消えることはない。それを「一切受容」しさえすれば、逆に悩みは消える」といっていることになる。
養老氏は自称「虫や」である。昆虫採取が何よりのお楽しみのようだ。これが氏の「数寄の道」である。その方面の探究はうまず、たゆまず、いのちの危険を冒してでも続けられている。「虫や」としての昆虫採取のための海外旅行をかなり頻繁にしておられるようだが、「虫や」仲間の航空機事故による死亡率がかなり高いことを淡々と話しておられる。虫のいそうな僻地へいくから飛行機なども軽飛行機に乗らざるを得ないことが多いようで、そのような僻地では機体の整備が信頼に足るレベルかどうか、はなはだ疑問なことも多いだろうし、それよりもその航空会社自体が数名で運営されているような小さいところが多いし、使っている機材もえてしてオンボロであることがままある。そして同じ「虫や」の近しい仲間が三人も飛行機事故で亡くなったというような話をしながら、それでも先ほどの言葉「寿命がくるときは、どうせくる」の通り、少しも気にせずにどんな所へでも行きたいと思ったらどんどん出かけられるようである。まさに生死を脱却しているとしか言いようがない。
氏は「私は危険な人生を送っている」と語っている。よく承知しておられるのだ。くわしく氏の話を辿ると、なるほど明らかに普通の人ならまず尻込みするような旅をする。それも、たかが「虫」のためにである。失礼を顧みずにいえば、まさにたかが虫一匹か、二匹のために命の危険を冒して僻地を旅する。僻地の軽飛行機で奥地に到着し、ホテルのチェックインを済ませば、そのまま虫取りに出かける。日が暮れてホテルに戻ると,ホテルの主人が「お前たちは運がいい」という。その日に乗ってきた飛行機が、帰路突風で谷底に落ちて乗客もろともバラバラになったとのこと。
【 一切受容 】の構え
「別に私は危険が好きなわけではない。でも生きているなら、危険はつきものだと思っているだけのことである」という。あの世以外、この地球上に安全を保証されている場所などどこにもないということを本当の意味で分かっておられるのだ。そしてそれに不足をいうことなく、【 一切受容 】しておられる。
氏の命がけの昆虫採取も、ただひたすらそうしたいから、それが楽しいからやっているのであって、それ以外のいわゆる欲とか望みとかの「囚われ」とはまったく無縁のようである。いわゆる「偉い人に成りたい」人ではない。だから、その命がけの昆虫採取とその研究が完成するまでは、とか、一定のレベルに達するまでは死ねないなどとは毛ほども思っておられない。すべてに対して、なるようになるという主義は徹底しているようだ。「なるようになる」という言葉は一休禅師の口癖であったが、養老氏の「なるようになる」は、一休さん顔負けの徹底ぶりである。
これは、まさに【 一切受容 】であり、「諸行無常 諸法無我」の体得である。氏の生き方の姿勢は、すべて釈迦の教えた「縁起」を踏まえているとしか思えない。繰り返すが、これを悟りといわずして、何を以て悟りといえるだろうか。そういう意味で養老氏のものの考え方、日頃の身の処し方は釈迦のいう【 自由自在 】そのものである。
これほど深い洞察と示唆に富んだ言葉が気楽にというか、あけすけにというか、随処に散りばめられているのに、その素晴らしさに気がつく人は少ないようだ。氏の著作はベストセラーにもなり、実に多くの人に読まれたはずであるが、氏の生きざまの見事さについての読者の関心は薄い。
氏は一般常識なり、一般の社会通念や固定観念に捉われない人である。したがって、普通一般の人は氏のことを、ちょっと普通とは違った風変わりなことをいう人だという受け取りが多い。氏自身も自分は他の人と少し違うようだという自覚はありそうだ。それは先ほどの「(自分は)・・・と思うが、文明人はそうは思わないらしい」というやや皮肉の利いた言葉によく表れている。そしてその裏には、「文明人といわれる種族は何と窮屈で、つまらない生き方をしているのだろう」という感壊がありそうだ。そんな自分で自分を縛る窮屈なところからはるかに離れた、禅にいう「自在」な考え方をしておられる。そしてそれをもったいぶったいい方をせずに、ごく普通のことをいっているに過ぎないという感じでおっしゃる。養老氏ご自身も、自分は別に大したことはいっていない、と思っておられるようである。ごく当たり前のことを当たり前にいっているだけ、としか思っておられない。だから読者も語られていることの重大さに気がつかず、氏の言葉に含まれる意味深い部分を見落としがちになるのかも知れない。その意味で、氏の著書を読んで気づくのは、全体を流れる気楽で、リラックスした軽やかな雰囲気である。その言葉なり表現はに難解をてらう気取りも、けれんもない。それはまさに道元禅師のいう「身心脱落」の境地といえる。かなり高度で、難しい種類のお話をしておられても、何の気取りもなく、また肩肘はることもなく、その話し方はリラックスした雰囲気に満ちている。つまり、軽やかに生きておられる。
「虫なんか調べて、いったい何の役に立つのか」。よく聞かれるこの類(たぐい)の質問に対する氏の答えは決まっている。「一文にもならない」のひと言(こと)である。つまり、「何の役にも立たない」を臆することなく、逡巡することもなく明快にいってのける。面倒臭いから、次なる質問を先回りして遮断している。
氏もまた、イチローと同様に「偉くなりたい人」ではない。自分の数寄の道で心ゆくまで楽しみたい人である。それは次のような言葉ではっきりしている。「学会で知られていたって、知られていなくたって、自分にとっての発見の喜びは変わらない。それが研究の楽しみなのである。他人がノーベル賞をくれようが、くれまいが発見の面白さには変わりがない。世界で認められるような大発見をしたい、そんな動機で虫なんか調べない」。ご自分で見つけた発見の面白さを自分で楽しみ、自分なりに「知ること」を遊んでいるといえる。人に知って欲しいなどとは思わない。またこうもいう。「他人の評価なんか、求めない方がいい。そんなものは後でついてくるのであって、ついてこなくったって知ったことではない」。ご自分のことを「いい歳をして、山中で網を振り回す。ワ―とか、ギャーとか叫ぶ。ゴミみたいな虫を一日中眺めすかして、ウーンとか、スゲェーとか騒ぐ」とご自分の姿を先回りしていう。すべて、よくわかっておいでなのである。
結論的には氏の説明は次のような言葉になる。「虫に限らない。自然を相手に生きている人は高齢になっても元気である。それが生物としての人の「自然」だからであろう。虫やが虫に関わっているとき、不幸に見えることはない。それで答えとしては十二分ではないか」。この言葉は「何の役に立つか」から始まって、「一文にもならないことを何故するのか」とか、「どんな意味があるか」とか聞きたがる人への見事な回答であり、解説である。これで十二分だろうという。まさに、十分以上である。それでも意味を訊きたがる人たちへのとどめの一言(ひとこと)は、「好きなことをやるのに理由なんかいらない」である。 以上
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P戸松孝夫:2020.10.2
先ず本書の題名にあるKey Word「遊び」について、筆者は次のように説明している。
何の執着・欲望とも関係なく、利害得失に囚われることなく、自然の赴くままに身をまかせて生きようとする命が躍動し、輝いている人間本来の姿が「遊び」である。いかなる逆境に直面しようとも開き直りにも似た覚悟で、打算も、功利心も、見栄も、世間体も全くない遊戯(ゆげ)、遊行(ゆぎょう)という姿勢こそが一番人間の本性に合致した構え方である。
更に、遊びの必要性を認識する為には{悟り}が必要だとして、これを「心の安らぎが得られる楽しい境地」と定義付け、使い慣れない言葉では「正覚」と同義語で、その結果として得られるものが、涅槃、寂静、三昧、一切受容の心だとの哲学的説明が続く。 次に悟りの宗教的背景にある仏教や禅宗の精神に触れ、「莫妄想」「足るを知る」「随処作主」「自由自在」といった難しい禅語について解説されている。「悟ってしまった人々」の判り易い例としては、我々にも馴染み深い東西の有名人の生き方の詳しい分析(第4章)がなされている。また人は遊ぶ為に生まれてきたわけだから、明日を願って苦行することなく「今日一日、今一瞬を楽しむことが大切だ」とのアダム・スミスの説が引用されているのも面白い。
筆者は学生時代から哲学的思考の持ち主で、難しい話をして我々を煙に巻くことが多々あったが、本書は彼の哲学の集大成ともいうべき作品で、文学青年の名残りを留めた美しい文体で書かれている。300頁を上回る大作を一通り読ませてもらったが、哲学的論理の展開は正直な話、僕には難し過ぎて充分な理解は困難だった。また本文には見慣れない文字の漢語や、昔の支那や日本の宗教家や哲学者の名前と説が沢山登場するが、薄学の輩には、難文字を追うだけが精いっぱいで、文章をスムースに読む障害にもなったほどだった。でもそれらの説や人物をその都度きちんと頭に入れておかないと、次に来る論理の展開に付いてゆけないので、衰えた頭脳を駆使しつつ完読した結果は、自分が理解できた範囲内で萬野哲学に異論を唱える隙はなく、ほぼ共鳴出来た次第である。
内容的には我等老人が残る人生を楽しく生きる為に読んでみる価値のある作品だとの印象である。難しい哲学用語が使われ、筆者の人生観が極めて論理的に展開されているので、一章づつ順を追って丁寧に読んでゆかないと、充分の理解は得られないだろうが、余りにも長過ぎて完読が無理なら、序章から第3章までは飛ばし、第4,5、終章だけでも目を通してみたら面白い。但し補章は僕もよく判らなかった。本書をじっくり読むことは我等85歳老人には、惚け防止の良い体操になることは間違いないから、時間をかけてでも挑戦してみることをお勧めしたい。
最後に、宗教などを扱うのは若者の特権だから筆者が若い頃、認めた原稿では? との意見もあるようだが、本文内に2か所ばかり、新しいパソコンに関する記述もあるし(我等が後期高齢者になった後この世に登場したAIなるIT用語も使われている)、また5-6年前に昔の仲間で集まった折、本人から「今面白い本を書いている。出来上がったら贈呈するから読んで批評してほしい」との話があったことでもあり、古い原稿ではなさそうだ。 以上