「八木聞一日記に見る戦後満州」 佐藤仁史教授講演
第50回一橋祭で講演会を聞いた感想をごく簡単にお知らせします。
われわれの時代にも一橋祭はあったがその後の中断を経てから新たに数えて第50回という。また数年前に学期制の変更に伴って国立市の天下市との同日開催ではなくなり混雑も緩和された。今年は11月22、23と雨天に見舞われたが24日の日曜は快晴に恵まれた。この日には佐藤仁史教授の「敗戦後満州の如水会員:『八木聞一日記』に見る戦後『満州』」と題する講演(一橋いしぶみの会企画)があり私は数年ぶりに一橋祭を覗いてみた。催しはすべて西キャンパスで行われ、人気の乏しい東キャンパス(旧専門部、中和寮)は高く伸びたイチョウの黄葉と松の緑が雨後の世界を明るく見せてくれた。
講演はインテリジェンス・ホールで11時から1時間半、聴衆はざっと100人であったが後の質疑応答などで明らかになったように満州の引き揚げ体験者やその子孫、さらには研究者も散見された。講演は多くの資料に基づいた手堅いものであったが以下には私の印象を手短にまとめた。近く佐藤教授を筆者の1人とする『戦後日本の満州記憶(仮題)』が東方書店からから発売されるとのことなので詳細はそちらから入手されることをお勧めしたい。
満州における敗戦は突如として起こり、対応に苦慮した日本政府は居留民の現地定着の方針を示したが高碕達之助を会長とする日本人会は早期引き上げを要請した。その後の推移は民間(日本人会、企業、家庭)のイニシャティヴによる引き揚げの方向に進んだ。関東軍はすでに兵員の主力を南方戦線へ移動しており、その補充に近隣各地から招集した民間人を当てていた。このような混乱は引き続いて今日に及んでおり政府による公式のデータはなきに等しい。
引き揚げ(者)に関する先駆的研究は若槻泰雄氏によるもので多くはその古い調査によって示される。それによれば満州からの引き揚げの特徴として戦線の他地域に比して突出した死亡率の高さが上げられる。戦後日本への引揚者総数約350万人のうち満州国居住者は150万人であった。そのうち死者は約24万5000人(うち8万人は満蒙開拓団)に上り、これを死亡率に限って見れば沖縄戦よりも高い。(若槻著『新版戦後引揚の記録』時事通信社、1995年)このように講演は満州引揚の全体像を捉えようとするものであるが、その過程で中国政府あるいはソ連軍とどのような交渉が行われたかについては、八木聞一の日記によって窺うことができる。八木は明治30年(1897)生まれ、大正7年(1918年)東京高商卒業、終戦時は満州重工業(満業)の幹部の一人であり、高碕達之助の右腕として実務を担った。ソ連軍は占領に要する資金が十分でなく資金の供出を暴力的に強制するなどした。日記はまたソ連軍の兵士の略奪や女狩りの様子も伝えている。ソ連軍の先陣はシベリアの囚人兵でとりわけ粗暴であったことは遠藤誉氏が伝えるところであるが小林教授は実際は独ソ戦の最前線にいた強兵であったとしてこれを否定した。(しかしこの説は後に聴衆の一人によって行き過ぎた判断として是正を要求された。)日本人会の重責を担った八木聞一先輩の消息は途絶えており、その後の運命はいまだにわからない。高碕達之助氏が後に中国とのLT貿易などで活躍しているところからすればいずれ消息は探り出されるのではないだろうか。現在、滋賀大学の図書館に収められる八木の日記がどのようにして日本へ帰還したかとともに今に残る疑問である。
続いてはやはり「いしぶみの会」主催の「満州・シベリアで亡くなられた10人の学友の軌跡」のパネル展を見た。これは朝日、東京などの新聞の紹介を読まれた方もおられるだろう。パネルと同じ写真と文章がA4-12ページのパンフレットとして配布された。齢30に満たずして青雲の志を異土に埋めた死者は永遠に若い。その短い生涯にとっては学園は夢に帰る庭であったに違いない。
一橋祭ではこのような重いテーマもある一方で、学生の多様性を発揮する歌や踊りも見ることができる。帰途に兼松講堂に長い行列ができているので聞くと古館伊知郎氏の講演会という。整理券はすべて配布済みという。兼松講堂を満杯にする講演者は他にいないのだろうか。もう一人兼松講堂の講演者は菅賢治という人気TV番組のプロデューサーだという。時代遅れを自認する私はこの名を知らない。おそらくこれも満員の聴衆を集めたことであろう。一橋祭は、まずは盛んであると思われた。言い遅れたが「いしぶみの会」の展示の近くの写真部展には、佐藤昭一OBの作品も見ることができた。
添付写真:
講義棟3階通路から図書館方向
1番線ホームからの旧国立駅舎