P大島昌二:「読書遍歴(6)チャタレイ夫人の問題」2023.12.18   Home

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 私は『チャタレイ夫人の恋人』を読んでいなかったので、この機会に一読しなければならなかった。「読書遍歴」の例外になるが遍歴の補強のつもりである。いま邦訳は6種類あり岩波を除く著名な5つの文庫すべて、およびKindle文庫にも入っている。つまり少なくとも翻訳は6種類あることになる。私は古いペンギン文庫の英語版を持っていたので、新潮文庫の伊藤整訳、伊藤礼補訳と併読した。邦訳を読んで英語版でチェックしたのである。(実は伊藤整はこの1964年版以前にも削除版の翻訳を出していた。)私が手にした新潮文庫版は伊藤の次男の英文学者、伊藤礼が1964年版に補正の手を加え他ものである。

 このような読み方をすると当然ながら翻訳の文章が気になる。数多い密会の最初の機会でメラーズはコニー(チャタレイ夫人)に向かって”You lie there.” という。これは「そこへおやすみなさい」と訳されている。Softlyと穏やかな声で言っているのだが、この言葉のドキリとさせる裏の意味が失われて普通の会話のように読めてしまう。翻訳の限界は常にあるが細心の心配りが必要な一例である。(本文末尾注参照)

 『チャタレイ夫人の恋人』の読者の関心がコニーとメラーズの度重なる密会、交合のシーンに引きつけられるのは避け難い。それぞれの行為が、場所を変え、また異なった心理に彩られながら繰り返されて、深い印象を与えるからである。もちろん、ロレンスの筆力はこれらの場面に迫力を加えている。


それでは往々にして忘れられがちな小説全般のプロットはどうなっているのだろうか。まずは第一章、冒頭の今日に通ずる堂々たる宣言を引用してみる。

「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れよとしないのである。大災害が起り、われわれは廃墟の真っただなかにあって新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ。」

森番のメラーズは炭鉱夫の子として生まれたが野卑で無学な人間ではなく軍隊では中尉にまで昇進している。標準語を話せるがより身に付いた言葉として好んでダービーシャ―方言を用いる。コニーとの会話では金が支配する世の中を憎悪する言葉をくり返す。それは産業革命がもたらした炭鉱の開発、それに伴う公害、過酷な鉱山労働、それらがもたらした人々の生活の質の劣化に向けられた呪いに満ちている。(このようなメラーズの境涯と思想はロレンス自身のもののようで、メラーズはロレンスの分身であるとする見方がある。)

コニーの夫、クリフォードは第一次大戦の戦傷で下半身が麻痺して車椅子の生活をしている地主を兼ねた炭鉱の持ち主であり、作家として一応の名を成している。森の散策を楽しむコニーはメラーズと話を交わすようになり、メラーズがこの地方の住民と共通のものを持ちながらどこか普通の人とは違うところがあることに気づき、次第にメラーズの魅力に引き寄せられていく。このようにしてコニー、メラーズ、クリフォードの間には一種の三角関係が生れるが不具をかこつクリフォードはその保守的、貴族的な考えや性格のために地主としての権威を保ちながらも取り残されて行く。

コニーにとって不可解な存在であり続けるメラーズは2人の最初の密会から野生の神秘を失わないままで読者にとっても同様に不可解な存在であり続ける。しかし、コニーがメラーズの子を宿し、それまで姿を見せなかったメラーズの妻が現れて離婚を拒否するに及んでメラーズの心理が姿を現し始める。ここから互いに強く結ばれ合ったコニーとメラーズは毀誉褒貶の渦巻く社会に囲まれていることを意識せざるを得ない。

コニーは直情径行ともいえる振舞いを続けるが、メラーズとの関係を姉のヒルダに打ち明ける。やがてコニーは父と姉のヒルダとの3人でヴェニス旅行に行く。後に残ったメラーズはイングランドを離れて生活する外国に思いを巡らす傍ら暗礁に乗り上げた離婚問題の詳細をコニーに知らせる手紙を書く。この最後の段階に至ってメラーズは初めて弱い一人の人間としての悩みを見せる。ロレンスの小説は結末の見えないままメラーズの手紙で終る。その末尾は次のようである。

「いつまでも筆を置くことが出来なくなりました。しかし僕らの大きな部分は離れずにいます。僕らはそれを守りぬいて、早く再会できるようにお互いの道を進みましょう。ジョン・トマスは少しうなだれた姿で、しかし希望に満ちてジェイン夫人におやすみなさいをいっています。」


伊藤整はその著『裁判』の中で『チャタレイ夫人の恋人』を40ページにまとめて提出したと述べている。ここに試みた要約はその10分の1にも及ばないだろう。しかし密会のさわりだけを読むのに比べればすっかり違った印象があるのではないだろうか。ロレンスは産業革命によって生まれた炭鉱や成金(ブルジョワ)に反発する思想家であった。またそれによって破壊される自然や農村社会を描いた。一世代前のトマス・ハーディも変貌する農村社会を描いたがロレンスはそれに逆らう人間存在の基本を性に置いて、性を賛歌する思想家であった。チェインバーズの『伝記辞典』にはロレンスについて次のように書いている。「ロレンスが一度たりともエロティックであろうとしたとするのは完全な誤りである。彼の理想主義は彼のすべての作品を通じて燃え続けている。」

ロレンス最後の長編である『チャタレイ夫人の恋人』をロレンスの最高作品とする評者は限られている。主人公はチャタレイ夫人ではなく「チャタレイ夫人の恋人」、つまりメラーズのはずではなかったか。もしロレンスが、この作品が春本まがいの読まれ方をするのを許したとすれば、それはロレンスがその意図するところを十分に伝え得なかった可能性を予想しなければならない。私はこれをロレンスの未完の作品として取り置き、そのより深い読解の為にはロレンスが社会思想家として成長するのを待たねばならないと考える。先に引用した第一章冒頭の宣言は成金(nouveaux riches)の築いた文化とともに100年後の今日も息づいているのである。


『チャタレイ夫人の恋人』をめぐる裁判は当時の日本の社会を映す鏡でもあった。翻訳者として裁判の被告人の1人であった伊藤整は記録文学と名付ける大部の著書『裁判』によってその裁判(第一審)の仔細な報告を残している。私はここでも「遍歴」を離れてそれに読みふけることになった。

まだ全部を読み終える前だが、検察官、裁判官、弁護人、特別弁護人、そして多数の専門、非専門の参考人がこの小説をどのように読んだかを知り自分の理解をテストにかける上でこれほどの材料はない。なお残る疑問を解く鍵もここにあるに違いない。

検察側で表面に出るのは中込(のりより)検事で当年39歳、被告側は辣腕で知られる主任弁護人の正木あきら(当年55歳)ほか弁護士2名(巽昌一、直弥兄弟)、特別弁護人として中島健蔵、福田恒存の2名である。裁判はこの2つの陣営が裁判官を説得して有罪あるいは無罪をかち取るための論争で、その過程で双方から多くの参考人を呼び出して自陣に有利なように事態の究明をはかる。争点は単純そのもの、『チャタレイ夫人の恋人』は猥褻文書か否かである。

当然ながら、私は上に述べたような読後感を持っているから予断を持ってこの本を読み進めている。難解と言わざるを得ないこの本をこれらの発言者たちもそうだが、とりわけ法学部出身の中込検察官がどれだけ読みこなした上で議論しているかは大いに疑問である。「検察一体」という言葉が現れる。裁判にあたっては、検察庁は一体となって当該の検察官を支持するのが習わしだという。となれば最後の判断は裁判官が行うとしても弁護士だけが頼りの被告人が直面する壁は巨大としか言えない。2021年の日本の裁判の第一審有罪率が96.3%であり無罪は0.2%(その他3.5%)という現実はあまりにも現実離れしている。

被疑者であり翻訳者である伊藤整がもっとも感心し「法廷で見失ったロレンスの思想の灯を再び見出したような救いを感じ」たのは心理学者の波多野完治(お茶の水女子大学教授)の証言であった。波多野によれば、ワイセツ感なるものは、それを受ける人間の性格により、かつまた環境によって変化があり、その実態はこの2つの要素の函数である。しかし、そのようなものでも「その本の性格を科学的に(文章心理学によって)分析してみれば、その作品が本質的に猥褻文書の性格を備えているか否かを客観的に定めることができる。」こう述べた上で波多野はワイセツ作品の17の本質的な性格を取り出し『チャタレイ夫人の恋人』はこのいずれにも該当しないことを示したのである。

裁判の当事者双方の論点は多岐にわたったが、問題の中心は全体として12カ所とされる性描写で伊藤はそれらの必要性とその意味とを解説することになった。ただ裁判官たちがそれを傍聴人に聴かせることを望まなかったために伊藤はそれを400字詰めで30枚ほどの原稿にして提出して形の上では法廷で読み上げたことにした。伊藤は裁判費用の一部に充てる意図から、ほぼ同じ原稿(引用文は英文を使った)を雑誌『群像』に掲載した。それは『裁判』の中に「『チャタレイ夫人の恋人』の性描写の特質」として転載されている。

問題の12カ所の中には女性への肉体的思いやりのない、クリフォードの文学仲間であるマイクリスとの関係もあるがそれも含めて、伊藤は「作中の人物がある経験によってその思想が変化して行き、実生活も変化していくように書いてありますけれども、その変化する場所、変化のきっかけの場所、は性行為の中で変化するように作者は書いております」と述べている。メラーズとの関係で現れる変化も直線的なものではなく挫折、後退も避けられない。この猥褻とされる密会の場面のそれぞれ個別的な解読はコニーの心理の真相に迫るもので『チャタレイ夫人の恋人』の読者にとっては本書のクライマックスと言ってよいのではないかと思う。

『裁判』はこのようにして現実にも移り変わる季節の中で延々と進められた。被告人の伊藤整は八王子の田舎(日野町)から身体の不調に耐えながら霞ヶ関の裁判所まで通勤し、裁判の成り行きに一喜一憂しながら弁護士や友人、あるいは彼を支援するために駆けつける参考人たちの友情に心身ともに支えられていた。この裁判をへて伊藤は作家としても一つの成長を遂げたはずである。原告、被告が呼び出す参考人の多くは有識者とも言うべき人々でそれらの風貌や証言が紹介される。これらの参考人は年少であったわれわれが畏敬の念を持ってその著作などを手に取った知識人である。その中から、必ずしも裁判の進行に大きく影響したというわけではないが、冒頭近くの福原鱗太郎神近市子の2人の証言を紹介したいと思う。

福原は当時56~57歳、英文学の泰斗として広く尊敬を集めていた。福原は先ず「この翻訳が出ました時に、私は非常に大胆なことが行われたという感じを持ったのです」と前置きし、続けて「日本もフランスのような国になったのかという感想も起しました」とその言葉を補足した。それに続けて訳者としての伊藤に触れ、文学者として私がもっともよく読んでいる作家の一人だと述べた。伊藤はそれを聞いて自分の耳を疑ったという。正木弁護人と中島健蔵からも後で「何だか君は福原さんの証言で偉くなったようだね」とからかわれたという。

「更に福原氏は続けてロレンスの位置が特殊なものであること、その社会感情が作中に入っていること」を述べ「起訴状の『雌犬神』は成功の象徴という意味が本当であること、ワイセツと言われるような『含みのある』また『陰影のある』ものはこの作品には全然ないこと、等を証言した。」福原はその後も中込検事の尋問を巧みに退けて弁護側陣営を感嘆させた。作中にしばしば現れる「雌犬神」は”bitch goddess”の訳語でありヘンリー・ジェームズ以来英米文学一般で「立身出世意識の権化」という意味でつかわれているという。

福原の証言は午前で終り午後は神近市子が証言台に立った。神近は著作家組合の一員で正木弁護人がこの事件を引き受けるべきかどうかを相談した時に最も熱心にすすめた人だという。この後であったと思うが私は彼女が圧倒的な多数で国会議員に選出されたことを記憶している。当時は「婦人タイムス」社長であった。

大正時代から社会運動家として知られた神近は、起訴状を読んで「不快な感じを抱いた」こと、起訴状は「偏見や何かの目的があって書かれたものと思うこと、とくに婦人の立場から自分は証言したいと思うこと」などを述べてから証言を始めた。その後も彼女は尋問に対して臆することなく歯切れ良く持論を展開した。その要旨は「現在まだ日本の女性は隷属的な地位に置かれていて、多くの婦人は『性欲過小症』に陥っていること、そして全婦人の3分の2か、4分の3は性欲を殆ど理解していないこと、したがって人生を理解していないこと、この点が反面では男性の性欲過多症、すなわち放蕩癖となっていること、妻は全き人間ではなく職業的な売笑婦という地位に置かれていること、そういう性の無知を救う意味でこの作品は原著者の言うように17歳以上の少女に読まれて良いと確信すること」などと述べた。伊藤はこの後に、神近と中込検事との一問一答を紹介しているが神近は、検察による起訴は、文学を読む心構え、あるいは習慣を持たないための誤読ではないかと切り捨てるなど「被告側にすれば胸のすくような」応答を続けた。


『裁判』は一審の記録であるが、「検察一体」の牙城は破れず、判決は小山久一郎罰金25万円、伊藤整無罪であった。法廷での弁論に関する限り軍配は明らかに被告側に上がっているように見えたが小山書店の積極的な販促政策にほころびが見えたようだ。「判決理由(要旨)」は各参考人の陳述をなぞって繰り返す、きわめて長文のもので、右顧左眄、スポーツ放送でよく使われる「流れが変わる」スタイルで何を言いたいのか最後まで分からない。小山有罪の結論は以下のようである。「読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認めらるるに至るのである。」余談めくがここに猥褻の法律上の定義を認めて良いだろう。「理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめる」は面白い。果たして何人の読者がそのような状態に陥っただろうか?

一審の判決は当事者双方によって高裁、次いで最高裁に上告された。その結果、小山の罰金25万円は据え置き、あらためて伊藤に10万円の罰金が課されて終結した。最終判決を下した田中耕太郎最高裁長官は1974年3月、功成り名遂げてこの世を去った。文化勲章の受勲者であり、死後も大勲位菊花大綬章を追贈された誰一人知らぬ人のない偉人であった。しかし「天網恢恢疎にして漏らさず」とは正にこのためにあるかと思わせられる事実が顕れた。皮肉なことに、天網は最高裁長官にも降りかかったのである。砂川事件の最高裁の裁判長として、彼はアメリカ大使と密談、密議を交わし、アメリカ側の意向に沿う裁判を約束していた。2011年に機密指定解除になったアメリカの公文書によって2013年4月に明らかになったのである。しかし、この問題に深入りすることをここでは避けなければならない。『チャタレイ夫人の恋人』を論ずることによって逸脱した「遍歴」の道をさらに逸脱することになるからである。


(注)見逃せない誤訳に次のようなものがあった。第9章で“seven or eight guineas” が  なぜか「八、九十ポンド」になっている。ギニーは1ポンド1シリングだから換算すれば「7ポンド7シリングや8ポンド8シリング」となり訳文の10分の1にもならない。 


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