P大島昌二:「読書遍歴(2)吉川英治と佐々木邦」2023.10.26  Home

00035(2024.1.29 06:50) 

読書遍歴(2)吉川英治と佐々木邦」


 戦後間もなく仏文学者の桑原武夫が著した『文学入門』(岩波新書、昭和25年5月刊)は大きな評判を呼んでベストセラーになった。この種の本としては予想外の出来事だった。その頃から盛んになり始めた文学全集の発行と軌を一にしたせいもあったかもしれない。『文学入門』の売れ行きといい、文学全集の売れ行きといい、文学書がただ部屋を飾るためだけでなく、戦後しばらくの間の日本人の文学志向は際立っていた。

私の持っている『文学入門』は27年8月刊行の第13版であるから高校の2、3年生の頃に読んだと思われるがこれという印象もないまま、すらすらと読んだように思う。本全体がトルストイの『アンナ・カレーニナ』論のような記憶が残っていた。ところが今開いてみると最後の第5章が「アンナ・カレーニナ読書会」という章で小説を読むときの心構えとして滋味深い教えに満ちている。しかし今それよりも目を惹かれるのは、第2章「すぐれた文学とはどういうものか」に続いて第3章「大衆文学について」という項目のあることである。ここに私が長年追い求めていた疑問の答えがあった。


昔の親は子供がいつまでも漫画を読んでいることを喜ばなかった。小説も純文学と大衆文学に大別され大衆文学(大衆小説、通俗小説)は見下されていた。この2つのジャンルがどう区別されるのかを知りたかったが誰も説明してくれなかった。一度は少年雑誌に投書して質問してみたが返事はなかった。私は今でも漠然とした仕分けしかできない。「猥褻」と同じで定義は出来ないが見ればわかるというのに近い。本は友だちと貸し借りするものであったから選別する余地はなく、容易に手に入るのは断然大衆小説であった。

桑原は大衆文学をすぐれた文学と対比させてこの両者の差異は「一言でいって、前者が人生において一つの新しい経験を形成しているのに対して、後者は新しい経験を形成していない、ということである」という。桑原は大衆文学の繁盛を一つの社会的現象として捉えてその問題の議論に37頁も費やしているから、これだけでは桑原説を紹介したことにはならない。この不足を補うには至らないが桑原説を敷衍するものとしてウラジーミル・ナボコフ(『ロリータ』の著者であり、すぐれた文芸批評家)が良き読者の心得として桑原と同じ説をより一層の強調を加えて述べているのでここに紹介したい。

「つねに心しておかなくてならないことは、芸術作品というものは必ずや、一つの新しい世界の創造であるということ、したがって(良き読者が)先ずしなければならぬのは、その新しい世界をできるだけ綿密に研究し、なにかまったく新しいもの、わたしたちがすでに知っているどの世界とも単純明快なつながりなど全然もっていないものとして、その作品に対することだ。」(「良き読者と良き作家」)

そこで私の差し当たっての結論は次のようになる。小説に純文学、大衆文学のレッテルを張るのは無益なことだ。これを日本で文学を代表する小説について言えば、小説という大きな滝壺の中にはすぐれた文学と通俗な文学が混在しているのだ。


桑原は大衆文学を通俗、不要なものとして一蹴しているのではない。彼は同じ著書で「戦後、大衆文学研究に熱意を示しているのは、雑誌『思想の科学』のみである」と述べて大衆文学研究の不在を嘆いている。また別のところでは、読者はなぜこしらえものの大衆文学を面白いと思うのかという問いを発して次のように言う。

「人生体験の乏しい少年はそれを面白いと思う。なぜなら彼らは未知の人生にあこがれており、しかも彼らは少年向きの文学——多くの場合、作家が不自然に身をちぢめて、いわば少年に迎合している文学——にあきたらず、大人の世界にあこがれる。しかも彼らは大人の実世界をまだ知らぬから、大人向きの文学でありさえすれば、良きも悪しきも、区別なく、区別ができずに、何でも面白がる傾向がつよい。」


これで準備ができた。私はこれで遠慮なく子供時代の読書を振り返り、そこからどのように成長してきたかを確かめることができる。まず取り上げるのは吉川英治と佐々木邦である。

私の母は娘時代に『少女倶楽部』よりも弟たちの読んでいる『少年倶楽部』の方が面白かったと言っていた。そのせいか母は吉川英治の本を読むことに反対せず、苦しい家計の中から小遣いを出してくれた。本が自由に手に入るような時代ではなく、わら半紙のような紙質の本が少しずつ出回り始めた頃である。最初に手にした吉川の本は『月笛日笛』で主題の馬術競技もさることながら何かしら少年小説には稀な、そこはかとない魅力が漂っていた。はっきりとは書いてなかったが登場する2人の少女の恋のさや当てが醸し出す雰囲気に魅了するものがあったのだろうと思う。後に知ったことだがこれは『少年倶楽部』ではなく『少女倶楽部』に連載されたものだった。吉川英治の少年小説はこんな調子で次々と読み進み、子供には毒な色模様の濃厚な『鳴門秘帖』まで行きついた。吉川の『三国志』はどうやら大衆文学に属するもののようであったが「泣いて馬謖を斬る」などという中国伝来の箴言を多く学んだのはほとんどがこの本のお陰と言ってよい。

これらの本はいずれも一世代前の作品であった。戦時期の中断のせいもあり、われわれは多くは旧い作品を探し出して飛びついたのであった。吉川は小学校卒業の学歴しか持たない苦学力行の人である。戦中は政府に協力する言論によって無傷で生き延びて戦後も『新書太閤記』を新聞に連載し、週刊朝日には『新平家物語』を連載して人気を持続した。私はこの2冊は部分的にしか読めなかった。『太閤記』の方は、冒頭はよく記憶しているがその先は読んだとしても記憶にないし『新平家物語』は家が新聞屋の友人が売れ残ったものをどっさりとまとめて呉れたのを読んだのである。

吉川英治を発見する少し前になるが少年倶楽部に連載されていた大仏次郎の『楠正成』を毎号期待して待っていた。それが敗戦と同時に中断された時にはいたく落胆した。正成がまだ小犬丸という幼名で登場し、手紙を届ける使命を帯びた道中で猛犬に行く手を阻まれたところで、小犬丸の運命に不安を抱かせたところで終ってしまったのである。私がどうしてこの連載を途中まででも読むことが出来たのかは分からない。読んだのも毎号ではなく飛び飛びであったかもしれない。おそらく兄が購読していたものと思うが月刊の雑誌も必ず手に入るという時代ではなかった。その頃には少年倶楽部も大きな新聞紙のようなものになっていて読者はそれを裁断して10頁ほどのパンフレットに綴じたのであった。

講談社は戦争の末期には陸軍は『若櫻』、海軍は『海軍』という2種の上級生向けの雑誌を発行した。『若櫻』は色刷りの表紙を見た記憶がある。大いに期待させたがすぐ敗戦になり、いずれも3号雑誌ならぬ1号雑誌で終ってしまったのではないかと思う。


『少年倶楽部』は戦後再刊された時には『少年クラブ』になっていた。私が購読した頃は毎号100頁ほどだった。獅子文六の『広い天』が好評の連載小説だったが、それは終っていて阿部知二の『新聞小僧』がメインの連載小説だった。その後には佐々木邦の『僕らの世界』の連載があった。佐々木には『トム君サム君』、『苦心の学友』など多数の知性とユーモアに溢れた少年小説があったがこれらの作品はわれわれの一世代前のもので容易に手にすることはできなかった。

私は冒険小説志向であったがそれらの中身はまるで思いだせない。佐々木邦のユーモア小説『僕らの世界』は楽しんだだけでなく教えられることが多かった。ユーモアなるものを初めて味わったのも佐々木邦の小説であったろうと思う。疎開した都会の青年が子供たちに、チグリスやユーフラテスの文明を語り「君たちは21世紀に生きるんだから」と教えていた。私も村の少年の1人として文明の発祥地の2つの川の名前を記憶に留め、21世紀という未来のあることを知ったのだった。残念なことに『ぼくらの世界』は4,5回連載されただけで、なぜか説明のないままで中断されてしまった。佐々木は、戦中は筆を折っていたというから自由が回復されてから初めて書き始めた少年小説の中断は著者自身にとっても残念なことだったろうと思う。この小説がそのまま続いていたら佐々木の少年小説の世界は戦前ばかりでなく戦後にも及ぶことが出来た。近年になって佐々木邦の伝記(小坂井澄著『佐々木邦 ユーモア作家の元祖ここにあり』)を読んでみたが『僕らの世界』については何も書かれていない。

佐々木は明治学院高等部の学生時代にはアメリカ人の教師を驚かせた逸話が残っているほどの英語の達人であったが朝鮮釜山での2年ほどの教師生活のほかは一度も外国へ出たことがなかった。彼のユーモアの源泉は英米のユーモア小説、とりわけマーク・トゥエインの作品ということである。佐々木は晩年に自伝風の小説『心の歴史』を雑誌に連載したがそれを彼自身が英訳して出版にまでこぎつけている。そのころに発表された随筆には次のような文章がある。

「お国自慢も結構だが、天孫人種だとか神国だとか主張するに至っては正気の沙汰ではない。何処の国にも建国神話がある。だが神話を歴史として扱うのは日本人丈だ。」「こういう国民だから一足飛びに天皇制廃止はむずかしい。何か巻いてくれるものゝない境地は想像しても目が回るのだろう。そこでこの問題になると、理性を失って、感情論に陥る。天皇制は存続するものと思うが、充分に制限しないと、今度は官僚がまた利用する。」


純文学というのは極めて日本的な概念であり、その特性は桑原武夫の本に詳述されているがここでは割愛する。ただここへ来る過程でいろいろ考えたことの幾つかを最後に記しておきたい。

ある時、中国人の作家が、大衆文学とは江戸時代の文学の流れを継ぐものであり、これに対して純文学とは西洋小説の流れを汲むものであるという説明をしていた。しかし、なるほどこれかと思ったのも一瞬ですぐに行き詰ってしまった。良いヒントにはなってもそれだけですべてを説明し尽くすことができないことはすぐに分かった。漱石の『吾輩は猫である』はこの流れのどちらに属するのだろうか。戯作者風でありながら西洋風の批評眼が行きわたっている。泉鏡花の夢幻の世界は大衆文学として貶めて良いものだろうか。

日本では文学史や文学入門的な書物に事欠かないが小説の世界に広大な領域を占めている大衆小説はのっけから対象外である。漱石の作品が重要なことは分かるが菊池寛はどうなのだろうか。問題は外国作品の翻訳にも及んでくる。架空の主人公を歴史の中に持ち込んだウォルター・スコットの『アイヴァンホー』は大衆小説に分類しなければならないのだろうか。面白すぎて世界中で読まれたアレクサンドル・デュマの『三銃士』や『岩窟王』は大衆小説として退けられるべきだろうか。いわゆる大衆小説についての私の見方は先に述べた。狭苦しい心境小説に偏りがちな純文学の枠を打破して銭形平次や眠狂四郎が登場する日本文学史があったら面白いのではないかと思う。



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