33年net諸兄姉どの(2023.07.30)
さる、2023.06.25にお送りした 「★天皇の御威光と象徴」の続篇です。
日本史(古事記、日本書紀など)を読んでいても、殆ど政治史である。神とは何
か、神との関係を語ったものは、きわめて少ない。
わたしが、55年前に読んだ益田 勝実の『火山列島の思想』 筑摩書房 1968によれ
ば、日本列島の火山活動に関して「火の山は流動的な生き方をしている。時あって
か、神秘な憤怒ー神の火によって神の姿を現わす。日本の神の特質は、多くの主要な
な神々に常在生がない、と言うことだろう。神と人との常時普遍的な緊張関係が人々
の生活を律しない。神は祭りの日々に訪れ、招き降ろすろす斎の庭に下りたもう。そ
れが、日本人の宗教性・倫理性・思想性、さらに生活態度の全般とかかわっており、
民族性の形成にに甚大なな影響をおよぼしていることは意外に根深い。こういう神の
見つけ方は、農耕生活の開始・季節の重視・季節祭の定着というルートでの歴史の進
み方と関連しているとして、水稲耕作地帯=東南アジア的なものとして解かれること
が多かった。たしかに農耕生活という契機も重要であろが、もっと遡って、この火山
列島の生活そのものが持たざるたをえない風土性の問題として、その基盤の形成を考
えるえるべきではなかろうか。火山と人々・潮流と人人・台風と人々の問題として、
まず考えてみるべき要素を多く含んでいるようだ。そのひとつとしての<神の火>に
よる山の神の顕現は、不可測なるがゆえに恐るべきであり、偶像化や人格化のしにく
いものであった。神は<力>として感受され、客体的な<像>として固定しにくかっ
た。
日本の神道は恐れと慎みの宗教であり、客体として対象化されるぺぎ神の面より
も、禊ぎ、祓いい・物忌みし斎く人の側に重心がかけられている、いわば主体性の宗
教であるという。
独自の神を創出しないPL教団や成長の家のような、修養団体的要素の濃い新興の
近代宗教か存在しうるのも、はるかな淵源はそこにあろう、古い(神の火)の信仰
は、そこでもやはりひとつの重要な役割りを演じた、と見られる。神火に対して問題
になるのは、神の姿・神の行為であるよりも。まず、山麓の人々の心の内部のことで
あると主張する。
しかし、PL教団(信者67万人)も成長の家(信者35万人)、前者は混乱、後者は
一時、日本会議を主導したが、本社を八ヶ岳麓に移し、現在は反自民である。主体性
の宗教とはとても言えない。日本の神道は「恐れ」こそ、即ち「神は<力>として感
受される恐れ」ことこそ、「人の力では抗い得ない力」こそ、日本人の精神構造に与
えた最も重要な問題ではなかろうか。
かって、大阪勤務時代、大神(三輪)大社に詣でた。ご神体は三輪山の奥に鎮座
し、そこからご本殿に降臨する。天皇はじめ、人々は、神が怒りを発し、不幸を下さ
ないないように祭祀を行い、豊穣をめぐむ世にと祈るのだろう。そして事を決すると
き神の声を聞くために祭祈が行われた。
(注1) 益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6月29日 - 2010年
〈平成22年〉2月6日)は、山口県下関市出身。東京大学文学部卒業、同大学大学院修
士課程修了、法政大学に勤務、1967年に教授。1989年(平成元年)3月退職。日本の国
文学者。古代文学専攻。元・法政大学文学部教授。『火山列島の思想』 筑摩書房
1968
この後、★水田稲作の歴史★班田収授法の実施★祭祈権の統合と変化
多様性を前提とするアニミズムと唯一絶対的な存在としての穀霊信仰という正反対の
世界観、神への信仰に変わったことについては、すでに述べた。
天皇の「御威光と象徴」は、マグマのように地下に眠っている。
現代の研究では、どうなっているのであろうか?
杉田俊介(1975.1.17~日本の評論家)は、その著「橋川文三とその浪曼」(2022年
4月、河出書房新社)では、
『丸山眞男は「超国家主義の論理と心理」で日本の超国家主義とは、絶対主義/帝国
主義/軍国主義とも異なるものだった、という。そもそも明治以降のの日本国家は、
近代的なな中性国家(政教分離、私と公の区別)の道を取ることができなかった。
近代日本人は「横の社会的分業意識」よりも「縦の究極的価値への直属性の意識」に
依拠してしまうのであり、そこでは「抽象的な法意識でもない、内面的な罪の意識で
も、民衆の公僕観念でなく」、「具体的感覚的な天皇への親近感」が、何よりりも重
要なものと感じられる。そして「全国家秩序か絶対的価値たるたる天皇を中心と、連
鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇との距離に比例する、価値のいわば
漸次的稀薄化」が生じる、そこではナチス的な独裁観念の代わりに「抑圧の移譲によ
る精神的均衡の保持がすべてを支配していく。「上からの圧迫感を下への恣意の発揮
によって順次にに移譲して行く事によって体系がのバランスが維持されてい体系」で
ある。
有名な名な、あまりにむな有名な名になりすぎた丸山のウルトラ・ナショナリズム
諭であるが、特に次のような箇所は、現在時においてもあらためて熟読されるべきも
のだろう
天皇はそれ自身究極的価値の実態のであるという場合、天皇は(略)決して無より
の価値の創造者なのではなかった。天皇は萬世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓に
よって統治する。(略)かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に
に負っているのである。(略)天皇を中心とし、それからのぎまざまな距離に於て万
民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくて
実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの無限の価値の流
出は、現実の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。』
杉田俊介は、ここで言われているのは、じつのところ、問題は天皇の権力ではな
く、天皇ですら虚無であるとい事実であり(「万世一系」の「伝統」をどこまで遡っ
ても具体的な実体かないのだから)、それならぱ近代日本人は無としての「究極的価
値の実体」に自発的に隷従し続けてきたのではないか、という疑惑である。それは文
字通りの「無窮」であって、「中心」や「垂直」や「縦軸」という比喩ですら、ミ
ス・リーデングある可能性がある。これもまた戦中の問題、あるいは戦後の問題にとどまらない。
実際に日常を見回せぱ、今もまだ、政治や学校や会社などのあらゆる場面で、自発的
に喜んで権威に従いたがる、しかも、自分たちを搾取し、剥奪する権威に、(あるい
は、組織を崩壊させる、国家を崩壊させる)という奇妙な権威主義的なパーソナリ
ティが蔓延している。まさに「忖度」の間題である。権力的に強いの立場の人間の考
えを下っ端の人間が先回り的に忖度してしまう。
上から強制的に命令したわけではなにから、責任の所在が消える。すなわち、権威へ
自発的隷属としての忖度。虚無への隷従。
虚無への隷従とは、何だろう。底なしの権力に従う。かって若き日に読んんだレフ・
シェストフ(キエフのユダヤ系哲学者)の「悲劇の哲学」(河上徹太郎訳、1934年刊
行)のニヒリズム(虚無主義)を思い出す。底なしの事件が次々に起きている。底な
しの闇が人々をむしばみつつあるのだ。
イチハタ