プーチンの戦争?

ロシア軍によるウクライナ侵攻が晴天の霹靂であったのはプーチンが正気を失ったからではないかとする見方を安易な逃げ口上だとすることはできない。一方で兄弟国といいながら、民間施設への攻撃を激化させ、核兵器の使用を示唆し、目的を達成するまで戦闘を止めないと公言するなどの言動は明らかに常軌を逸している。それで今更どうなるわけでもないがアメリカの情報機関がプーチンの精神状態の分析に乗り出しているという報道もある。

前回のレポートでは「プーチンの戦争」を前提としながら「何が彼女をそうさせたか」を検討した。ウイリアム・ペリー(元防衛大臣)とジョージ・ケナン(元駐ソ大使)の発言はソ連邦解体後の西側の対ロシア政策の拙劣さを明らかにするものであった。プーチンはそこへせり上がり舞台に乗るようにして登場したのだった。

理由があってのことだがわれわれの目にとまる情報が西側のものに偏っていることは前回のレポートの出発点であった(「後記」参照)。それをさらに敷衍した上で、一足飛びに大統領の地位にのし上がったプーチンの足跡をたどって見せる論文が開戦の翌26日のFTに掲載されている(“The road to war”)。著者はMary Elise Sarotte ジョーンズ・ホプキンス大学教授で、冷戦後東西問題の専門家。以下はその論文の一部からである。

解体後の旧ソ連邦、とりわけロシアとウクライナの関係をどうするかはアメリカにとって当時最大の問題であった。公開された1990年代の文書を照合検討した結果サロッテ教授は、西側指導者たちは独立したウクライナの位置づけがヨーロッパの永続的な平和の鍵であることを知っていながらそれに対処できなかったことを突き止めている。

ソビエト政権が崩壊過程にあった1991年にブッシュ大統領(G.H.W.Bush)の下でディック・チェニー防衛相がソ連邦の解体をできるだけ速やかに進めることを主張したのに対してジェイムズ・ベイカー国務長官はそれに強く反対した。「これこそがあなたが最大の関心事とすべき外交問題です」と進言した。その根拠は35,000に及ぶ核兵器が分散保有されることになり核兵器による危機が増幅する結果をもたらすからであった。ブッシュ政権はこの二つの方針に沿って分裂し収拾がつかなくなった。

他方、ウクライナでは91年12月1日に国民投票を急ぎ投票率94%、そのうち84%が分離独立を望む一方的な結果となった。分離票はクリミアでは54%、キエフを含む西部地域では95%を越えた。ドニェツク、ルガンスク(ルハンスク)とその近隣の東部地域でも80%が分離票であった。

当時の駐ロ大使、ロバート・ストラウスはこの結果をワシントンに次のように伝えた。「ロシア人にとって1991年最大の革命的事件はコミュニズムの崩壊ではなく、あらゆる党派のロシア人がロシアの組織形態の一部と考えるもの、しかもその心臓部に近いウクライナの喪失かもしれない。」

ウクライナの独立は瞬時にしてウクライナを、英仏を凌ぐ第三の核大国に引き上げる結果をもたらした。たとえ核弾頭のコントロールはモスクワの手中にあるとしても大量の核兵器が物理的に、これから独立の混乱期に突入する新興国に存在するリスクは無視できない。ロシアも混乱期に突入するだろう。しかしロシアは同じ悪魔でも少なくとも「気心の知れた悪魔」である。この問題に決着が見られないままにアメリカの政権はブッシュからクリントンに移行した。この時期には東西間に境界線を引くのではなく新たに「平和のためのパートナーシップ」(PfP)を組織して中央・東ヨーロッパ諸国および旧ソ連邦共和国(ロシア、ウクライナを含む)をこれに組み入れた。

しかし、これで何とか決着をつけられるという段階に来たところで1994年末にボリス・エルチェンのチェチェンの分離派に対する容赦ない攻撃が開始され、PfPをナトーにリンクするヨーロッパの安全保障策は棚上げになった。中央および東ヨーロッパ諸国にとってチェチェン紛争はソビエト旧来の戦略を想起させるもので他人事ではなかった。これにバルカン半島で継起する武力紛争も加わってワシントン・モスクワ間の軋轢が増し、ヨーロッパの安全保障問題の解決はますます緊急の課題となった。

1994年の中間選挙では共和党が勝利し、クリントンは再選のためにはナトーの拡張を急ぐ必要を痛感した。ウクライナの非核化問題は、ウクライナの領土保全を保証する「1994年ブダペスト覚書」によってウクライナの同意を取り付けることに成功した。

ロシアが不可分と考えるウクライナの歴史は複雑きわまりない。その歴史は確かに、これもまた複雑なロシアの歴史と絡み合っている。この両民族はベラルーシ人と並んで東スラブ人に分類されるがロシア史の最初期は「キエフ大公国」(キエフ・ルーシ、9~12世紀)に始まる。それに続くのは「タタールのくびき」として記憶される13~15世紀の長期にわたるモンゴルの支配である。

このような発端から始まってロシア人とウクライナ人の関係は「あざなえる縄」のごとく絡み合っていてほぐし難い。そこで2014年のロシアによるクリミア占領の折に英国の月刊誌 ”History Today” に掲載された5頁ほどの両国の関係史(”Ukraine and Russia’s History Wars“, Charles Emmerson )によってこれを探ってみた。

ウクライナはロシアばかりでなくポーランドやオーストリアとも併合・抗争の歴史を持っており常に独立を志向するように運命づけられていた。上記の論文から見える両国の関係史の争点の一つは1654年のペラヤスラウ条約である。これはロシアがウクライナ・コサックの宗主権をポーランドから奪回して両国の関係を固めたものとされているがウクライナ人は軍事指導者間の一時的な同盟に過ぎなかったとする。ウクライナ共産党第一書記のフルシチョフがクリミアをウクライナに編入したのは1954年、このベラヤスラウ条約締結300年を記念してのことであった。

ロシアの3世紀にわたる領土拡張政策は近代ウクライナの国境線を東西に広げた。ウクライナの辺境は多分にその恩恵にあずかっている。黒海をロシアの湖とする野望は黒海北岸のオットマン帝国を侵食し、悪名高いモロトフ=リッベントロップ協定によってロシアが西方に獲得したポーランド領はウクライナに帰属した。ロシアにしてみれば国内の境界がそのまま国際間の境界になるとは夢にも思わなかっただろう。ロシアの政治家にとってはクリミアがウクライナの領土になったのは偶然でしかなく歴史的な根拠はなかった。

この論文が掲載されたのは2014年3月号でロシアによるクリミア併合と完全に時を同じくしていた。そしてそこにはすでに今日を予言するかのような言葉が埋められていた。「そこに危険なゲームの根がある。次に起こるのは何か?誰かが元に戻そうとするのは同じような一連の歴史的偶然の結果と見えるウクライナ、あるいはバルト三国の独立かもしれない。」(バルト三国の一つ、エストニアには後に触れる。)

ここでサロッテ教授に戻ってプーチンの足取りを振り返ることにする。プーチンがKGBの東ドイツの配属先(ドレースデン)から崩壊過程にあった故国に戻ったのは1989年であった。そこで彼はレニングラード(その後サンクト・ペテルスベルグと改称)市長になるレニングラード大学時代の旧師、アナトリー・ソブチャックの部下に採用される。そこで彼は市会議員、旧KGBの生き残り、地元の犯罪組織のボスたちとの関係を取り仕切る上で非凡な手腕を発揮した。市長への忠誠心も怠りなく、1996年にソブチャックが落選して汚職容疑で窮地に陥っても見捨てなかった。1997年11月にソブチャックをプライベート・ジェットでフランスへ逃亡させたという噂もある。このような献身的な働きがエリツィンの官房副長官、アレクセイ・クドリン(ソブチャックの部下だった時期があった)の目に止まってエリツィン政権への足掛かりを得た。

モスクワへ移ってエリツィンの部下となってからもプーチンの献身に揺るぎはなかった。その献身のほどが示されたのは、ロシアの検事長、ユーリ・スクラートフがエリツィンの家族とその取り巻きの腐敗行為の捜査を開始した時である。隠密裏の妨害策が思うようにいかず1999年初めにはスクラートフは動かしがたい証拠を手にするかに見えた。そこへ突如としてスクラートフとされる裸の男が2人の裸身の女とベッドにいる映像が政府運営のTV ネットワークで全国に流された。プーチン自らが出演してそのヴィデオが本物であると証言した。

このようにして上司への忠誠をひたすら貫くことによって権力への階段を登り続け1999年8月には首相、続く12月にはエリツィンの病気と辞任によって大統領代行に就任し、翌2000年3月の選挙で大統領に選ばれた。プーチンはそれまでに、ソ連の東ヨーロッパからの撤退は拙速にすぎた、またソビエト社会主義共和国(SSR)に主権国家としての独立宣言をさせるべきではなかったとの確信を抱くに至っていた。

2014年にプーチンは「数百万の人々が一夜寝て目覚めたら別の国の少数民族になっていた」と嘆いて見せた。2017年のピュー・リサーチの推計ではロシア国外の旧共和国に住むロシア人は2,500万人に上った。これでプーチンの目には、「ロシア人は国境外に住む人口が世界最高の人種である」ということになる。彼の念頭にないのは、そのために果たしたスターリンの強制移住政策である。

今思えばプーチンは、ソ連の崩壊とウクライナ独立30周年が近づいた昨年、表向きはロシアの少数民族のためとしながらウクライナの西側への接近を妨げる決心をした。西側はウクライナの安全な場所を確保していない。武力によってロシアがその支配に乗り出しても抵抗するすべを持っていないだろう。アメリカは国内の意見の分裂、イギリスはブレグジットとジョンソン首相の苦境、フランスは選挙という問題を抱えているという判断があったかもしれない。ドイツは東ドイツ出身でロシア語を話す苦手のメルケル首相の不在というのも好都合である。

ファイナンシアル・タイムズ(FT)には毎週末に「FTとランチ」というページがあって、世界の時の人を招いて肩の凝らない話し言葉で招待客の本音を引き出している。コロナ禍の下ではZoomを使う場合もある。最近では食事に日本食が選ばれることが少なくない。飲み物に日本茶が所望されることもある。誇らしい日本文化の一面である。

2月19日(土曜)の賓客は人口130万の小国エストニアの44歳の女性首相カジャ・カラスであった。見出しは「ロシアに対してナイーブにすぎませんか」(”There seems to be a naivety towards Russia”)という彼女の見解である。確かに彼女はサロッテ教授がこの時期は「(欧米主要国首脳が)問題を抱えているという判断があったかもしれない」という推定を断定に変えている。プーチンは虎視眈々と時を窺っていたのだという。

まずカジャ・カラス首相の生い立ちから始まる。彼女の曽祖母、祖母、母(当時生後6か月)は皆シベリアへ送られた。1949年3月のことである。家畜用のワゴンで3週間の旅、赤児が生き残れるとは思えなかった。ある駅でミルクを恵まれ、見知らぬ人が赤児を温め、オムツを身体に巻いて乾かしてくれたので命をつなげた。持参した1台のシンガー社のミシンで寒冷地での生活を支えた。

ソビエト時代に育ったカラスは彼女の祖母がフィンランドで働いていた時の話をするのを聞いて驚いた。そんな近いところであっても外国旅行ができるなどとは信じられなかった。祖母の時代は自由があって何でも選ぶことができた。それがある日全部取り上げられてしまった。私たちの世代はその逆で自由もなかったし店でも何も売ってなかった。それが1991年になってすべてを手に入れた。自由が戻ったのだ。

その年に自由が戻ってからエストニアでは賃金は45倍になり、年金は60倍に増えた。一人当たりの国民所得はかつてEU平均の40%であったものが今や86%になり、ギリシャ、ポーランド、ポルトガルの上にいる。このように発展は急速だったが安心はできない。いつそれがまた振り出しに戻るかしれないからだ。

西側では侵略者はナチス・ドイツだけと考えがちだ。ところが東側ではソ連の犯罪や悪事がいつまでも忘れられずに残っている。ナチスの悪業は常に話題に上るが共産主義が生んだあまり語られることのない膨大な数の犠牲者がいる。5月9日は西ヨーロッパの人々にとっては対独戦勝利の輝かしい記念日である。5月10日にスターリンが「皆さんは自由だ。自由な国に戻りなさい」と言ってくれたのだったら私たちも祝うことができるだろう。そんなことはなかった。その日から残虐行為が始まったのだ。強制移住、大量殺戮、文化の抑圧、生産の集団化などがそれだ。私たちは二度とそんな時代に戻りたくはない。エストニアは一貫してロシアの失地回復欲(revanchism)について警告を発してきた。プーチンの2008年のジョージア侵略、それにもまして2014年のクリミア併合の時はその声を一段と高めていた。

カラス首相の話題は当然ほかにもあるが時節柄どうしてもウクライナと平和の問題に戻ってくる。食後彼女は記者を「共産主義の犠牲者の碑」へのドライブに誘う。そこには軍人ばかりでなくシベリアの地域ごと、さらにソビエト各地の強制移住先ごとに数知れない柱が建ち説明がある。日本の読者がすぐさま思い浮かべるのは沖縄の「平和の礎(いしじ)」にほかならない。

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