欧米の人たちは仏教を「信じる宗教」(Religion of faith)ではなく、「目覚める宗教」(Religion of awakening)である、と捉えている。「目覚めた人」になることを素直に、そして一直線に目指し、あの世の事とか、ホトケ様とかいうような余計な寄り道に惑わされること(53頁👉 なく、二一世紀にふさわしい宗教としての正しい仏法の道を歩もうとしているといえる。先に、仏教とは仏陀になる教えでもあると説明したが、まさにこれら欧米の人達は仏陀、すなわち「目覚めた人」を目指し、目覚めようと努力する修行にダイレクトに入っていけるのである。途中で大蔵経典を研究したり、ホトケ様のことなどに寄り道させられることもなく、直接に「目覚める道」、「気づきの道」に向かって行ける流れの中にあるといえる。
第一章で、欧米人の方が、夾雑物に邪魔されずダイレクトに禅に入(はい)ってゆけると述べた。(p000)そしてまた、欧米の人たちは仏教を「信じる宗教」(Religion of Belief)ではなく、「目覚める宗教」(Religion of Awakening)であり、また「気づきの宗教」、「覚醒の宗教」であると捉えていることも述べた。(P000)
185頁👉 また、あまり注目を浴びていないが、英国の作家サマセット・モームが回顧録「サミング・アップ」のなかで、このことについてかなり詳しくふれている。その結論として「大抵の人はこの言葉に直面するのを嫌がるが・・・」と前置きして、しかしながら「人生には意味などないのだ」と非常に明確にいい切っている。原文は、There is no reason for life and life has no meaning. である。モームの見解については後に詳述する。
自分は善いことをたくさんしており、よく善根を積んでいると思っている人ほど、天国から遠い。自分が罪深く、地獄に落ちるしかないと心の底から信じている人ほど、天国に最も近い。自分は善根をたくさん積んでいるから、少なくともその分だけは天国に近いはずだと思っている人は、損得勘定で神と取引しているだけである。神はそんな心根の人を相手にすることはない。ここのところを桜井章一氏は、そういう意識があれば自分の自然な人助けの行いが「よくないものになってしまう」と感じておられるようだ。氏は「善人を目指せば、人を許せなくなる」という。「地獄への道は、善意で敷き詰められている」(The road to Hell is paved with good intentions)を引用したりもする。氏は、人が声高にいう「善いこと」を簡単に信用しない。「いいこと病」に感染することを恐れ、それを避けて通る。
ところで近頃は「今、ここ」を生きる、といういい方が、ナウい生き方であるかのように、耳にすることが多くなっている。しかし、この言葉は決して新しく見出された哲学でもないし、(301頁👉 新鮮な発想ともいえない。古くは二〇〇〇年も前に既に、古代ローマの詩人ホラティウスのCarpe Diem(ラテン語、英訳:seize the day、日本語訳:今日を生きよ)があり、言葉としては、いわば昔からいい古されてきているといえる。問題はこの言葉を、実際にどう生きるかである。
私自身と呼ばれているものによってなされたことは、私の中にいる私自身よりも大いなる何者かによってなされたような気がする。(What is done by what is called myself is, I feel, done by something greater than myself in me)