U市畑進:明治憲法制定の根本精神2024.5.3  Home

33年ネット諸兄姉どの(2024.05.03)


 今日は憲法記念日である。丸山真男著「日本の思想」(1961)から明治憲法を読む。  


 明治21(1888)年6月、枢密院の帝国憲法草案審議が天皇臨席の下に厳かに開始された日の劈頭に、議長の伊藤博文は 憲法制定の 根本精神について所信を披露した。伊藤は日本の近代国家として本建築を開始するにあたって、まずわが「伝統的」宗救がその内面的「機軸 」として作用するような意味の伝統を形成していないという現実をハッキリと 認識してかかったのである。(中略)


 自由民権運動との陰惨な闘争の記憶がまだ生々しい藩閥政府にとって機軸のない姿は想像をこえたおそるべき ものと映ったであろう。


こうして「我国ニ在テ機軸トスへキハ、皇室アルノミ。」となった。


 新しい国家体制には『将来如何の事変に 遭遇するも・・・・ 上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざるための政治的保障に加えて、 ヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねるという巨大な使命が託されたわけである。


 かつて東大で教鞭とっていたE・レ―デラーは、その著『日本=ヨーロッパ』 ( E.Lederer, Japan- Europa 1929)のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは、大正十二年末に起った難波大助の摂政宮狙撃事件 (虎ノ門事件 )である。彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している )の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に 矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを批当した訓導も、こうした不逞の徒 かつて教育した責を負って職を辞したのである。


 このような茫として果てしない 責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったたようである。


 もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災のときのことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取りだそうとして多くの学校長が命を失ったことである。


 「進歩的なサ—クルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけた方がよいという提議が起った。校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった 」とレーデラーは記している。日本の天皇制はたしかにツァ ―リズムほど権力行使に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアおいても、社会的責任のこのようなあり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神]にも「機構]にもけっして無縁 でなく、また例外的でもないというのである 。(中略)


 明治憲法において  「 殆ど他の諸国の憲法には 類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)皇室自立主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣などの超憲法的存在の媒介によらないでは国家思想が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体 (責任の帰属 )を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の統性の源泉である天皇の意思を推しはかる(忖度)と同時に天皇への助言を 通じてその意思に 具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。


 しかもこれほど臣民の無限責任によって支えられた「国体」はイデオロギー的にはあの「固有信仰」以来の無限定的な抱擁性を継承していた。國体を特定の「学説」や「定義」として論理化することは、ただちに それをイデオロギー的に限定し相対化する意味をもつからして、慎重に避けられた。それは否定面においてはつまりひとたび反国体として断ぜられた内外の敵に対してはきわめて明確峻烈な権力体として作用するが、積極面では茫洋とした厚い雲層に幾重につつまれ、容易にその核心を露わさない。


 治安維持法の「国体ヲ変革シ」という著名な第一条の規定においてはじめて国体が法律上の用語として登場し、したがって否応なくその「核心」を規定する必要が生じた。大審院の判例は、「万世 一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総覧シ給フ」国柄、すなわち 帝国憲法第1条第4条の規定をもってこれを「定義 」 (昭4.5.3の判決、95年前の今日)した。しかしいうまでもなく、國体はそうした散文的な規定に尽きるものではない。過激社会運動取締法案が治安雜持法及びその改正を経て、思想犯保護監察法へと「進化」してゆく過程はまさに国体が 「思想 」問題にたいして外部的行動の規制—市民的法治国家の法の本質—をこえて、精神的「機軸」としての 無制限な内面的同質化の機能を露呈してゆく過程でもあった。(天皇バンザイと死んでいった無名人たちが典型的)


 それは世界史的にも、国家権力ー近代自由主義の前提であった内部と外部、私的自治と国家的機構の二元諭をふみこえて、正統的イデオロギーへの「忠誠」を積極的に要請する傾向が 露骨になりはじめた時期と一致していた。


 國体はもともと徹底的に内なるものでもなければ、徹底的に外面的なものではなかったので、こうした「 世界史的」段階にそのまま適合した。日本の「全体主義」権力的統合の面ではむしろ「抱擁主義」的で (翼賛体制の課程や経済統制を見よ)はなはだ非能率であったが、少くもイデオロギー的同質化にはヒットラーを羨望させた「素地」を具えていた。ここでも超近代と前近代とは 見事に結合したのである。(p38)


「言わざる、見ざる、聞かざる」の三猿に追い込んでしまった。


三猿は日光東照宮が有名だが、わたしの若かりし頃は大抵の寺にはあった。


イチハタ


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