少国民の歌
少国民という言葉は死語ではないまでも今では歴史的な言葉であり、まず使われることはない。かつて少国民と呼ばれ、少国民として教育を受けた人も今では数少なくなっている。まだ幼くて耳にはしてもほとんど自覚はなかった私も恐らくそのような一人であった。
その時代は戦争の時代であり昭和19年の1学期が終ったところで学童疎開ということがあり東京の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)の3年以上の生徒は縁故をたどって地方へ疎開することを求められた。地方に縁故のない生徒はまとめて学校ごとに地方へ集団疎開をした。物資の乏しい時代に、親元を離れてなれない田舎での生活を強いられた学童たちの苦労は幾つもの記録となって残されている。私は「疎開世代」という言葉を使いたいのであるが戦争はその後1年余りで終っているから疎開世代と呼べるのは学齢にすれば3学年に及ぶだけの少数派である。当時義務教育は小学校6年までであり進学するものはその後5年制の中学へ進んだ。中学は難関で少数の優等生しか進めなかったから中学生はすでにエリートと呼んでよかった。
少国民という言葉は何よりも教育上の用語であった。したがって小学1年生から数えても少国民、あるいは少国民教育を受けたものの数は疎開世代にこれらの旧制中学生を加えただけのものにすぎない。しかし、少国民という教育思想は世の中に行きわたっていたからその教育は国民全般に及ぶものであった。視点を変えていえば少国民教育は一億総動員の思想を小学生にまで及ぼしたものと言ってよかった。
話を具体的にするために私自身を例に挙げてみる。学童疎開が始まった時、私は国民学校の3年であった。そのころ学校給食が始まり、防空訓練も始まった。間もなく防空頭巾の定番ができたが当初は生徒に座布団を持参させて頭に乗せてみたりして工夫を重ねたのである。家では防空壕が掘られたが六郷川(多摩川の河口域)のデルタ地帯にある家ではすぐに水が湧き出してきた。いくら学校や隣組の指令であっても竹槍や火叩きと同じで思い付きでは座布団も防空壕も形をなさなかった。
さて疎開であるが6年生の兄と私は縁故をたどって山形県米沢市の伯父の家の厄介になった。私はこうして翌年の1学期を終えるまでの丸一年親許を離れて米沢市で過ごすことになった。米沢市は江戸期の殖産興業政策で知られる上杉鷹山公が治めた城下町で近所に大勢いた同年の友だちに歓迎されて毎日を遊び呆けて過ごし、その限りでは楽しい一年を過ごすことができた。昭和19年8月から翌20年7月までだから東京を始めとする本土空襲がたけなわになる一年である。私は20年の7月に二度目の疎開をした。米軍の空襲が地方都市に及ぶようになって米沢市の学童も疎開をすることになったのである。
米沢の学校で私は確かに少国民だったという記憶を持っている。ある日学校で担任の先生に呼ばれて注意されたことがあった。先生が「大島君、廊下はどのように歩きますか」と聞くので私はよどみなく「正常歩で歩きます」と答えた。私は今でも感心する。「正常歩」ですよ。先生は続けて「でも今走ったでしょう」という。「いいえ、走りません。」「でも、先生は見ましたよ。」廊下を瞬間的に走ったかどうかわからない。でも大したことではない。水掛け論をしても仕方がない。私はその場で罪を認めて釈放された。「正常歩」とは軍隊用語に違いない。私は即座にその言葉を口にできたのだった。
最近は年のせいで道を歩いていてちょっとした凹凸で躓くことがある。それでもう一つの言葉を思い出した。体操の時間に分列行進というのをやらされた。「歩調取れぇー」という号令がかかり生徒は横一列、膝を高く上げ、足並みをそろえて行進をする。先生は横からそれを見て上手く歩調が取れていれば「よしっ」と声をかけて激励する。これも軍隊だ。
校内ではどうだったろうか。封建的な城下町ではあるが戦争が始まってからのことと思う。男女のクラスは完全に分けられていた。そればかりではない。故意か偶然か、校舎は丁字型になっていて男女の校庭は二つに分けられていた。朝礼も男子は雨天体操場、女子は講堂と別々に行われた。私は学校で女生徒に行き会ったことは一度もない。
さてここで歌が始まる。朝礼では毎朝明治天皇の御製を朗唱した。先生が毎回交代で中央に進み出て講壇に向かって「明治天皇ぎょせえー(御製)」と唱え、生徒たちがそれに続いて御製を朗唱するのである。朝礼の都度やったはずだがどんな御製であったかは完全に忘れていて今思い出すことはできない。御製は文字にして演壇の背後にかかっていたと思う。
覚えているのは皇后陛下の疎開学童に与え給いし歌でこれは歌で歌ったせいもあってよく覚えている。
次の世を担(にの)うべき身ぞ たくましく雄々しく生きよ 里に移りて
もう一つは昭和天皇が皇太子時代に山形県を訪れて詠んだという最上川の歌である。
広き野を 流れ行けども最上川 海に入(い)るまでにごらざりけり
これもよく歌ったから忘れないでいる。歌唱では「最上川」と「にごらざりけり」を二度繰り返して歌う。当時は知らないで歌っていたがこれは山形県民歌であった。私はそのことを数十年もたってから酒田市の日和山公園にある歌碑で初めて知った。日本には長野県の「信濃の国」を筆頭とする三大県民歌と呼ばれるものがあり「最上川」は秋田県の「秀麗無比なる」と並んでその一翼を担っているという。 詩吟も講堂代わりの雨天体操場で教わった。西郷南洲の「城山」である。
しかし何といってもよく歌ったのは軍歌(戦時歌謡、軍国歌謡ともいう)であった。また軍歌は次々と生まれてくるもののようで私たちは毎日のように放課後に新しい軍歌を教わった。今となってはどこにも残っていないような歌がたくさんあって歌詞の断片が頭の片隅に残っている。「戦い正に危急なり」という言葉もあれば「打ち込む鍬も威勢よく」という勤労の歌もあった。同じ歌の「仇に思うなあの富士は」というフレーズも耳に残っている。これはアメリカのB29がまず富士を目指して日本に接近してきたことを指したものであったろうか。歌詞はすべて書いたものがなく耳で覚えたからいい加減な記憶かもしれない。
「加藤隼戦闘隊」、「轟沈」、「特幹の歌」など調子のよい歌は世間で広く歌われ子供たちも題も歌詞も正確には知らないままによく歌った。もちろんこれだけに止まらず、太平洋戦争期の軍歌は数限りなく、名だたる詩人や作曲家たちが競って創作に励んでいた(注1)。資源の乏しい状態の下では軍歌を歌わせることが戦意高揚のためのもっとも効果的な手段であった。戦後に、陸軍幼年学校の同期会に出かける人に「どんなことを話すんですか」と聞いたことがあった。「最初から最後まで軍歌を歌うだけです」という答だった。
高木東六が一つだけ作った軍歌だという「空の神兵」は今でも美しい旋律の曲だと思う。しかし何といってもよく歌ったのは「予科練の歌」だった。この歌のどこが良いのかは今となってみればわからない。若者が勇んで戦争に参加するという心意気が世にびまんしていたからだろうか。歌詞には「霞ガ浦にゃー」という一節があったが私は友だちがふざけて歌っているものと誤解してしばらくは「霞が浦にー」と歯を食いしばって歌っていた。米沢の学校では女学校の生徒たちが教育研修生として授業に参加していた時期があり一緒に庭掃除をしたことだけを覚えている。研修期が終った彼女たちを送り出す会で生徒たちが文句なしに選んで歌ったのは予科練の歌だった。茶菓はもちろん一杯の水もない送別会にあったのはこの一つの歌だけでそれがしばらくは余韻となって残った。
米沢市から2度目の疎開をした先は福島県白河市近在の農村だった。米沢で一学期を終えてきたはずなのにそこではまだ一学期が終っていなかった。田植え期に二週間ほどの農繫休暇があるのでその埋め合わせの授業が夏休みに食い込んでいたのだ。その山蔭の農村に引越してすぐに敗戦になった。米沢の友だちは二度目の疎開をしないままで敗戦を迎えたことだろう。
私は縁故疎開であったが米沢に集団疎開をしていた学校があった。地元の学校と交わることはなかったが六年生が中学を受験しに上京する際にお別れの会が開かれた。私の記憶にあるのは彼らが講堂の壇上で白虎隊の演舞を披露したことである。舞の最後に大きな日の丸の旗が広がって白鉢巻姿の六年生たちの身体を包み込んだ。受験のために帰京した生徒が何人いたかは不明である。それからしばらくして彼らの帰京列車が空襲を受けて生徒全員が死亡したという噂が流れた。これは真相がわからないまま過ぎていたが数年前に細江英公という写真家が次のように書いているのを読んだ。
「12歳の私は山形県の米沢市にいた。…3月には中学進学のため帰京した3人が上野駅に着いたとたん、爆撃にあって死んでいる。」これが何日のことかはわからない。『東京大空襲と戦争孤児 隠蔽された真実を追って』という著書のある金田茉莉氏は「九歳だった3月9日夜」疎開先の宮城県から浅草に戻る途中で列車が緊急停止、「夜明け前、東京方面の空は赤々と燃える夕焼けのようだった、上野駅に着くと変わり果てた焼け野原が広がっていた。迎えにきてくれるはずだった家族の姿はどこにもなかった」と回顧している。
私が東京で入学した蒲田区の出雲国民学校も同じ昭和19年4月に空襲で全焼した。普段は目の届かないところにあった新聞を伯父が持ってきて読ませてくれた。学校にはもちろん往時の記録は何も残っていないという。記憶はどうだろうか。私の手許には二年までの通信簿が残っている。そこに校歌が印刷されていたと思っていたが記憶違いでそれはない。それでも私は歌うことができる。忘れないうちに歌詞だけでも記録しておこうと思う(注2)。気が付かなかったが、代わりに数え年7歳から15歳までの東京市標準の「身長、体重、胸囲」の表がある。これは少国民の体格がどのようなものであったかを示している。
このように振り返って見ると、私は少国民としての教育をフルに受けていたことがわかる。君が代は公の式典の時にだけ歌ったが大伴家持の歌に信時潔が曲をつけた「海ゆかば」は自発的にではなく集会の終りなどによく歌った。君が代よりもよく歌った。私は厳かな死の賛美にほかならないこの歌を「君が代」に次ぐ準国歌と認識していた。(実際に大政翼賛会は「国民の歌」として国民儀礼の一部にその斉唱を指定している。)信時が曲をつけた万葉集のもう一つの歌「みたみわれ生ける験(しるし)あり天地の栄ゆる時に遇(あ)へらく念(おも)へば」(海犬養岡麿)も広く歌われた。若者が戦線に持っていく一冊の本は万葉集という時代で天皇の権威は万葉時代に直結していた。
少国民教育はある日突然に終った。8月15日である。夏休みのさなかで私は終戦の詔勅を農家の大家さん一家とラジオの前に座って聞いた。私には何も聞き取れなかったが目の前に座っていた出征まぎわのその家の長男が両膝の上に握りしめた拳を捩じるようにして涙を流しているのが異様だった。終って庭に出てから母に「何て言ったの?」と聞いたことを覚えている。母は「戦争が終ったんだって」と一言いっただけだった。私にその場のそれ以上の印象は残っていない。日常には何の変化もなかったかのようである。
学校が始まってちょび髭を生やした校長先生が講堂で奇妙な訓示をしたのを記憶している。「日本は四等国になりましたがこれからは軍備を持たない文化国家として生まれ変わるのです。」その時の私には軍備を持たない国家がありうるとは信じられなかった。軍備があっての国家だという考えが頭にこびりついていたのだろう。だが校長は答を持っていた。「たとえ外国の軍隊が攻めてきても彼らは日本の文化の高さに驚いて武器を捨てて戦うのをやめるのです。」この高い理想主義は文部省の指導によるものだったろうか。
少国民教育は終わっても少国民の生活は終らなかった。「撃ちてし止まむ」は忘れても「欲しがりません勝つまでは」は現実として残った。今でも物を捨てる前に何かに利用できないかと考えないでいられない。「ぜいたくは敵だ」は今も心の中にある。戦後はよく停電があった。なにもできない暗闇の部屋に横になって私は軍歌を次から次へと歌った。山里の一軒家の歌声がもれて進駐軍に聞かれる気遣いはなかった。
戦中の日本の歌謡界は軍歌一辺倒で軟弱な歌謡曲が生まれる余地はなかった。そのため日本の歌謡界では、戦後もしばらくの間は戦前から持越された歌謡曲が歌われた。戦前、戦中、戦後にかけて日本の歌謡界で大活躍をした詩人西条八十に『唄の自叙伝』という本がある。戦後まもなく新円を手に入れて東京に出たい一心で書いたというその本の「あとがき」には以下のようなくだりがある。
「それよりも、わたしは、この『唄の自叙伝』直後の、戦争中の軍歌時代の回想について――たとえばあの『予科練の歌』や、『そうだその意気』や、『出てこいニミッツ、マッカーサー』などの唄について書きたい回想が多々ある。ことに最後の『比島大会戦の歌』についてわたしは、敗戦後上陸したアメリカ軍によって絞首刑にされるという噂まで聞かされたのでいろいろな意味で感慨のふかいものがある。」
(注1)たとえば桜本富雄著『少国民は忘れない』の第二章「歌の弾丸は今も…」には数えきれないほどの軍歌が出てくる。私は軍歌ならすべて知っていると勝手に思い込んでいたがこの機会に調べてみるとそれはとんでもない誇張であった。
(注2)出雲小学校は昭和11年創立と比較的新しい学校でホームページには昭和21年に廃校、31年に開校と出ている。(私は昭和29年に校門の外から校舎を見ている。)教育委員会の指導下のホームページと見えて内容は味気ないし校歌も出ていない。私の子供たちが学んだ英国ロンドン郊外の小学校の溌溂とした内容と比べて恥ずかしい。そんな様子を見ると、原始的な太陽崇拝と見まがうばかりの歌詞だが旧校歌は紹介に値すると思う。
日輪昇り出でませば ものみな明るく輝やけり
富士赤々とそびえたち 東の海は何もなし
ただ一つなるみ光の み恵み仰ぐ尊さよ