P大島昌ニ:橋畔随想(如水会々報2022.10月号)2022.10.12 Home

コロナの猛攻の下に『如水会々報』がやせ細っている状態は変りませんが今10月号

(No.1093)の橋畔随想は興味深く読みました。その一つは中村喜和氏の「山田洋君

のことなど」、もう一つは渋谷栄介氏の「石原慎太郎を偲んで」の二編です。


中村さんがそこで語るのは長谷川櫂著『俳句と人間』に作品が紹介される山田洋氏の

ことです。中村さんが「近刊の名著」とされる同書は新書でも227ぺージほどの薄

い本ですが日本の本には珍しく索引の付いた良心的な本で私も感心して読んでおりま

した。1954年生まれの長谷川氏は皮膚癌におかされ、その翌年2019年の冬にはコロナ

ウイルスの猛威を知って「死を忘れるな」(memento mori)という中世的なつぶやき

にとらわれるようになった。そこで死を思いつつ心に浮かんでくる故人の俳諧、主宰

する俳誌『古志』などに掲載された作品を吟味しながら「自分の生きている世界のあ

りのままの姿」を見つめることにしたのである。それはまた自分が生きてきた世界と

自分の作品を振り返ることであり、読者は俳人らしい簡潔な短文の積み重ねを追いな

がら櫂氏の心境に引き込まれて行くのである。


引用されている俳人の数は多くない。山田洋は『古志』に投稿する一人で『一草』と

いう遺句集を死後友人たちが出しているだけで生前の作品集はない。櫂氏の著書では

第5章「魂の消滅について」で「よく生きてよき塵となれ西行忌」を始めとして9編紹

介されており、最後は「帰るなら眠れる山へ帰りたく」である。櫂氏は山田のすい臓

癌の手術の後も「これと決めたら恐るべき情熱で集中する」人柄を伝え「俳句への精

進も鬼気迫るものがあった。山田は俳句の即身仏になったのだと思う」と書いてい

る。


櫂氏は山田の簡単な経歴は書いているが一橋の卒業生であることは中村先輩に教わっ

て初めて知った。中村氏はわれわれの一年上だが氏について私にはちょっとした記憶

がある。確かなのは『極光のかげに』以下のシベリア抑留三部作を書かれた高杉一郎

氏の消息を聞いたことである。当時は静岡大学教授として健在ということであった。

ソルジェニーツィンに先立って書かれたグーラグの記録はベストセラーにはなったが

日本の知識人はまともに取り上げず著者はペンネームに拠ることを余儀なくされたの

であった。もう一つ一橋寮での記憶があるがこれは自信はあるが曖昧さも残る記憶な

のでここでは控えておくことにする。


『俳句と人間』という私的な世界を論じながら櫂氏はこの短い書物の中で明治維新以

来の日本の思想史的時代区分も見せてくれる。それは「国家主義」(明治の精神)に

始まり「国粋主義」(国に殉じる)、「超国家主義」(ミリタリズム)の時代を経て

現在の「大衆迎合主義」(ポピュリズム)に到達する。




もう一人の渋谷栄介氏はわれわれの同期生である。石原慎太郎氏は何回か「如水会々

報」で詳細な記事になっていたがあれだけの有名人であっても若い日々のことは「お

やっ」と思わせられることが多かった。89歳の長寿を全うしているから世に出てから

の長い生涯を、それも政治家として過ごした人に対して思想、行動に首尾一貫性を求

めるのは難しい。渋谷氏の回顧はもっぱら『一橋文芸』復刊時の石原氏で「如水会々

報」よりもさらに若返る。「湘南ボーイの垢抜けした感じと博学なイメージを漂わせ

ていたが、一方では自己主張の強い言動が多かったと記憶している」という。また

「石原は青春時代には詩の世界にかなりの時間浸っていたようだ」として『一橋文

芸』に掲載された詩の一編を紹介している。確かにこのことは渋谷氏の言うようにあ

まり知られていないことかもしれない。私は同じころ、一橋寮の委員が石原氏をどう

見ていたかも伝え聞いている。石原氏が芥川賞を貰って間もなく、当時夕刊紙であっ

た東京新聞で上原専禄教授が「どうして、優秀な学生じゃありませんか」と石原氏を

短く先生独特の言葉遣いで評していたことを記憶している。歴史学の答案でも十分に

文才を発揮したに違いない。石原の上原評は彼の作品『灰色の教室』に出てくる。


私の記憶にもとづいて言えば、石原氏の政治思想は年を追うにつれて左から右へと急

傾斜したように思う。文芸に熱中していた頃は政治思想というほどではなくとも少な

くとも右ではなかったと思う。アンチ・ビジネスというのか、ソロバンをはじく商大

生タイプ、ひいては如水会を見下していたのが政治家になるにつれて如水会にもなじ

んで行ったようだった。彼が同じ文学者として三島由紀夫をどう見ていたかがわかれ

ば彼独特の思想が浮かび上がってくるかもしれない。石原が都知事時代にファイナン

シアル・タイムズ(FT)のインタビューに応じて弁舌を振るったことがあった。そこ

で石原は「世間では私を韓国嫌いだと言うが私が本当に嫌いなのは日本です」と断言

していた。言論を駆使することに長じてもいたから「意表を衝いた」というところか

もしれない。私はこれは日本のジャーナリズムが話題にするぞと思っていたが何ごと

もなく過ぎてしまった。(その記事を保管しておくべきであったが、かなり昔のこと

になってしまいFTのアーカイヴズでも手が届かない。)すでに若い時代に渋谷氏の印

象に残った「自己主張の強い」性格ばかりは根強く首尾一貫していたようである。


多く読んだわけではないが石原氏の死後さまざまな論評が新聞紙上に現れた。私は中

では2月24日東京新聞の中島岳志氏の論に指を屈する。中島は「石原は生涯を通じ

て、『価値紊乱者』として振る舞い、さまざまな暴言を残した。大切な価値を創造す

ることなく、世相の波に乗り続けた石原の姿は、戦後日本の姿そのものだったかもし

れない。」ヨットが最大の趣味であったという石原の姿が浮かび上がってくる。石原

の生前このような辛口の評言が少なかったのは石原本人にとっても不幸なことであっ

た。明白な失敗に数えられる新東京銀行の大破綻は発足前に誰にでも予測できたこと

であり石原の独断専行の結果としか思えない。




以上とは別に、今月の会報では「如水会々報のデジタルサービス」の発足が知らされ

ている。温故知新、今後とりわけ若い会員に広く活用されることを望みたい。