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00032(2024.2.2 08:53)
一橋33ネット諸兄姉(2024.1.22)
1月16日(火)の朝日新聞記事「最高裁長官の行為の違法性を認めず」は、同日25面「社会・総合」面下段の小さな記事であった。
日米和親条約(1958年)に端を発する不平等条約・治外法権の改正問題については、1872年の岩倉使節団が失敗し、以降我が国が何度も何度も交渉して改正してきた問題である。日米安保条約に関する最高裁判決は(1959年(昭和34年)12月16日)により日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安,一橋大学(憲法田上ゼミ)卒、名古屋大学教授、故人)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。
朝日新聞は、こんな記事で終わらせてしまうのかと残念に思っていたが、今朝1月22日(月)の社説が出てきた。忘れていたのではなかった。
この問題は、日本の自主独立に関わる大きな問題である。周囲知人、孫子へも伝えてもらいたいと再送する。
イチハタ
33年net諸兄姉どの(2024.01.16)
01.16朝日新聞、ちょっとすると見落としてしまう記事ですが、かって「砂川事件判決のおぞましさ」(2022.07.31添付)を書いたわたしとしては見逃せない記事だ。
日米安全保障条約に基づく刑事特別法ー正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」 (昭和 27年法律 138号) の略称として用いられる。原則として属地主義を採用する日本の刑事法制に対して,日本に駐留するアメリカ軍の軍事目的を実現するために,特別の規定を設定してこれを修正している。日米安保条約および米駐留軍の合憲性が争われた事件。1957年7月8日,東京調達局は,米駐留軍が使用する東京都下砂川町の基地拡張のために測量を強行したが,これを阻止しようとする基地拡張反対派のデモ隊の一部が米軍基地内に立ち入り,刑事特別法条違反で7人が起訴された。この訴訟で,被告人らは,安保条約およびそれに基づく米国軍隊の駐留が憲法前文および9条に違反すると主張したので,一大憲法訴訟となった。
★砂川事件は、江川紹子によれば、一審が米軍駐留を違憲として無罪判決(いわゆる東京地裁伊達判決1959年 (昭和34年) 3月30日)が出たため、政府はすみやかに逆転有罪判決を目指すべく、高裁をすっ飛ばして最高裁に「跳躍上告」した。アメリカ側からプレッシャーはものすごかったようだ。駐日米国大使が日本の外務大臣に対して「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたことも判明している。
◎戦後司法の歴史の中で、最大の汚点
プレッシャーは、日本政府だけでなく、裁判所にももたらされたようである。当時最高裁長官だった田中耕太郎は、何度も米国大使館などにおもむき、駐日米大使に対して、判決の時期や審理の進め方、見通し、一審判決批判などを説明している。大使が本国に送った報告の電文などが、米国側ですでに開示されていて、その事実を裏付けている。判決前に裁判長がこのような情報を外部にもらすなど、通常では考えられないことだ。
日本の主権や司法の独立という点で、「砂川判決」は、戦後の司法の歴史の中で、最大の汚点とも言うべき出来事あろう。【江川紹子の事件簿】(2015.06.13)
イチハタ
33年net諸兄姉どの(2022.07.31)
先日、原発事故と最高裁判決をご報告した。文中で砂川事件判決に触れた。この判決も最高裁判決として決して忘れてはいけない判決である。砂川事件は我々が学生時代に起きた。当時、高島善哉ゼミにいた山岳部の先輩の中村幸正(故人、31年)さんが、先生から頑張ってやってくださいと云われたと山岳部のテントを借りて砂川の学連共闘場に張ると言い出した。これには山本健一郎(故人 32年、のちチーフリーダー)さんがそんなことしたら山岳部卒業生はどこの企業も採用してくれないよ、ダメだときつく反対したのを覚えている。60年前の話である。閑話休題。
【砂川事件刊決のおぞましさ】(国体論-菊と星条旗、白井聡 2018.04.22集英社p156-p158)
しかも、先に示唆したように、この国家主権の構造は終戦終結と同時に終わらず、日米安保体制へと引き継がれる。それを象徴するのが、1957年に発生し、59年に判決が出された砂川事件である。当時、東京都北多摩郡砂川町(現立川市)にあった米軍立川航空基地の拡張をめぐって反対運動を行っていた現地住民や活動家と測量を強行しようとする政府側との対立は激化し、流血の事態も発生していた(1956年10月13日)。砂川事件とは57年7月8日、測量阻止のデモ隊が基地の柵を壊して内部に不法侵入したとして23人が逮捕され、内7人が起訴された事件である。同事件の第一審では、いわゆる伊達(秋雄)判決が下され、「日米安保粂約は憲法違反である」との司法判断がなされる。これに驚愕したした日本政府は跳躍上告するが、同年のうちに最高裁は一審判決を破棄する。
(市畑注)第一審(1959年(昭和34年)3月30日)で最高裁判決は(1959年(昭和34年)12月16日)であったから、9ケ月後のスピード判決であった。
最高裁刊決は伊達判決を完全に否定するものであった.その要旨は、「憲法九粂が禁止する戦力とは日本国か指揮・管理する戦力のことであり、外国の軍隊は戦力にあたらない.したがりて、米軍の駐留は憲法や憲法前文の趣旨に反しない、そしてゴ「日米安全保障条約のように高度な政治性ををもと条約にについては、きわめで明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかを司法が判断することはできない」(統治行為論)とするものであった。
一審の判断を最高裁が覆したしたこと自体は、日本の三権分立権分なの形式制の実態に照らせば.いまさら驚くには値しないかもしれない。しかし、21世紀になってになってから明らかにらかにされたのは、この最高裁判決か出されるのに至る過程のおぞましきであった.
一審判決にに驚愕したの日本本政府だけでなくアメリカ側も同様であったが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー二世は、伊達判決が無効化されるよう、藤山愛一郎外相や最高裁長官田中耕太郎に.圧力を掛けたいた。
このようなアメリカの動きも、驚くには値しない。日米安保条約の無効化は、彼らにとって戦利品の喪失を意味するからである。最大の問題は、日本側とりわけ田中耕太郎がアメリカからの圧力を不当な介入として撥ねつけるどころか、自ら積極的におもねっていた、もっと端的に言えば、この判決は、「駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら」書かれたという事実である。
そして。この判決内容の意味も重い。なぜなら、統治行為論を援用することによって、日米安保条約に関わる法的紛争については、司法は憲法判断を回避するべきだという判例をつくってしまったからである。これにより、日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の「二つの法体系」(長谷川正安)が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定されたのである。
(市畑注)長谷川 正安(はせがわ まさやす、1923年[1] - 2009年8月13日)憲法学者、1946年(昭和21年)東京商科大学(現一橋大学)卒業(田上穣治ゼミ)1956年12月 名古屋大学法学部教授(1967年 - 1968年法学部長)1961年 - 1963年 フランス留学、1986年3月 名古屋大学定年退官
イチハタ