『血にコクリコの花咲けば』には、やはり波乱が多いとはいえ、それに続く学者、言論人としての残りの2冊に収められた「ある人生の記録」とは別種の魅力がある。それは日本の未曽有の危機の時代に、背伸びをしながら人格を形成する若人の姿があるからである。
「反戦運動はなぜ起らなかったかったか」はすべての日本人を襲った危機の時代がなぜ到来したかを問うものであり、それは彼の青年時代の背景であった。だから森嶋がこの問いに答えることは森嶋の成長期を振り返ることであった。われわれは森嶋がそれにどのように答えたかを見たが丸山真男の説をベースにした彼の議論は「国体」観念、「農、工、商」の共同体的な在りようなど、なお咀嚼(そしゃく)する必要があるかもしれない。『血にコクリコ…』は「国体」を次のように説明している。
東洋の国は国民の主義主張が分裂しないことをほぼ常に理想としていた。しかし自然に放置すれば、東洋の国でも主義主張は分裂しうるから、それを阻止するためにはそれらを統一するための国家原理が必要である。これが戦前、戦中に唱えられた「国体」であった。国体はすべての全体主義国家において団結のための最高原理として君臨する。「日本の国体は天皇の意思であり、天皇の意思で国民を統一するのが天皇制である。だから個々の日本人の主義主張は、互いに異なるところがあっても、そのどれもが天皇の意思と矛盾してはならなかった。」ヘーゲルが中国人について彼らは「皇帝の車を押すために生まれてきた」といっているが日本人も「天皇の車を押すために生まれてきた」のである。
このように「天皇制の社会の下では、個人の主義主張は独立ではなく、統合されており、それゆえ社会的意思決定の過程では結託が行われている。」(注:「結託」は広辞苑では「ぐるになること」と説明されている。)戦後の日本は建て前としては、もはや天皇制の国ではない。しかし国内の種々の小社会ではいわゆる「小天皇」が幅をきかせており、個人の主義主張の完全独立は、社会のどのレベルでも実現していない。この点が、日本とイギリスで最も異なっている点である。イギリスでは対立はよいことと考えられ、対立があるからこそ一層優れたものや状態が発見されるのである。このようにイギリス人は弁証法的プロセスを楽しむと同時に尊重している。
森嶋の本には「共同体」について、「家父長的な『閥』・『情実』的人間関係との『複合』」としているだけでそれ以上の具体的な説明はない。私は青年森嶋の軍隊生活と同時期に学童疎開をして森嶋が軍隊生活を観察したと同じようにして農村社会を観察して育った。そこで以下には、私が深く印象付けられた農村の共同体的性格を「結(ゆい)」を中心にして説明を試みることにする。
水の共同管理を必要とする稲作農業では、地方によって言葉は異なるが、「結い」と呼ばれる不文律の共同作業がある。例えば田植え時など多くの労働力を集中的に必要とする時には近隣の農家から人が集まって共同作業をする。婦人たちの一部は台所に集り、子供の手も借りながら田植えをする農民のための炊き出しに精を出した。私は大風呂敷に包まれた幾つもの重箱に盛られた「こじゃはん」とよばれる弁当を田んぼへ運ぶ手伝いをした。「こじゃはん」は「小茶飯」であろうか、私は3度だけと思い込んでいた一日の食事を4度してもいいことを初めて知って驚いた。子供も労働力であったから田植え時には学校も2週間ほどの農繁休暇があり、その分夏休みが短かった。
農家は茅葺き屋根の葺き替えを自分たちで行い、味噌や納豆も自家製であったから「結」はそんな時にも機能した。跡取りとなる若者たちが作る青年会があり、彼らの決め事も「結」であったから、大人たちもそれに従った。お盆休みには、抜け出してこっそり働く人がないように青年会が目を光らせていたし、彼らが協同して池の水を干し、水路の清掃をした。「結」に従わないものは「村八分」を覚悟しなければならないのである。明治政府が導入し、森嶋が共同体に挑戦した不離一体の制度と指摘した徴兵と義務教育制度はこのような「結」の世界に侵入し、それを軍隊、軍律の世界に置き換えて行くものだった。
「なぜ反戦運動が起らなかったかったか」を論じるにあたって森嶋は「便乗の徒」の代表として難波田春夫と柴田敬を上げていることを前に紹介した。しかし「便乗の徒」の数は多く、彼らの影響は広く社会を覆っていた。森嶋が入学した京大の経済学部教官の主流派は独伊のナチズムやファシズムの経済学であり、新古典派の経済学やケインズは英米派、敵性の学問と見られていた。他の大学もそれほど違いはなかった。もちろんマルクス経済学者もいた。しかし彼らの大部分は身を潜めて時を待つのではなく、むしろ積極的に右翼経済学者に変身し、英米打倒を叫んで、世論を指導した。
彼らはそうすることに自己分裂を感じなかった。「というのは天皇問題を別にすると、日本では左翼と右翼は紙一重であり、文字通りの一心同体になり得たからである。というのは人種問題に関する限り、マルクス主義者と右翼の間には、意見の相違がなかったからである。」
「日本の知識人たちの振舞い」については、経済と法律の違いがあるので、この場合と同列に論じて良いものかどうか疑問があるが、戦後の憲法改正の際に東大法学部教授たちの示した変わり身の早さには驚くべきものがあった。森嶋は「学問的荒廃」という言葉を使っていたが、この方はリベラルと目された学者たちの節操のなさであり、一貫性の欠如である。あまり知られていないことなので、以前に4回にわたって掲載した「新憲法はどのようにして生まれたか?」(23年8月14日~9月12日)から要点を抜粋しておくことにする。(以下は主として古関彰一獨協大学教授著『平和憲法の深層』2015年によっている。)
当時、指導的憲法学者であった宮沢俊義は、美濃部達吉や金森徳次郎とともに憲法改正の必要を認めない立場である上に「女子参政権は反対なり」と主張していた。美濃部達吉は「少なくとも現在の問題としては憲法の改正はこれを避けることを切望してやまない」と述べている。マッカーサー元帥の憲法改正の示唆によって憲法改正委員会が正式に発足したのは1945年10月25日であったが以上の発言はその直前のことである。金森徳次郎も翌46年2月に出版された著書で「私自身としては、確信的にまた信仰的に――合理論を超越して――此の国体の原理を尊重すること我々の先人例えば本居宣長と同様である」と書いている。
宮沢、美濃部、金森などの思想は戦後80年という年月の経過を勘案してもあまりにも古臭いが、それでも一概に批判することはできないという人もいるかもしれない。しかし、彼らとは対照的な正論を吐く人々もいたのである。自由民権運動の研究家、鈴木安蔵がその1人で、かれは上記のような法学者を痛烈に批判している。
改憲に関する日米交渉は1946年2月13日の旧外務大臣公邸で行われた日米会談に始まる。アメリカ側はホイットニー民生局長、ケーディス民生局次長のほかに民生局員2名、日本側は吉田茂、松本丞治、白洲次郎のほかに外務省の長谷川通訳のそれぞれ4名、計8名である。
いまだに誰がどのような意図で行ったか経緯は不明だが日本側の草案とされるものが2月1日の毎日新聞にスクープ記事として掲載された。それはポツダム宣言の趣旨を理解しない旧帝国憲法の焼き直しに過ぎないものであったからGHQが態度を硬化させ、日本側代表は会談の初日からキリキリ舞いをさせられた。そして新憲法はその後の紆余曲折を経た後に成立するが日本案の背後にいた法学者たちはまさに君子豹変、進んで新憲法の解説を請け負い、最後にはそれを大いに称揚するに至るのである。
この辺りの経緯をもう少し詳しく説明すると以下のようになる。2月14日には早々と東大の南原繁総長は「関係諸教授と協議して、大学内に『憲法研究委員会』を設けた。委員長は宮沢俊義教授、委員は、法学部から高木、我妻、横田教授など…すべて20人』であった。日付が2月14日とわかるのは出席者の1人、民法学者の我妻栄の記録によるもので南原の記録には2月としか書いてない。
「憲法研究委員会」の解散時期は明らかでないが3月6日の「憲法改正案要綱」の公表後まもなくであったと推定される。我妻栄は、新憲法の問題を順次審議に入るところで突如としてGHQと合意の成った内閣草案が発表され、その3月6日の内閣草案の内容を知って研究会は「これほどまで新しい理念に徹底した改正を政府みずからが提唱するなら、われわれとしてはこれを支持して実現をはかるべきだ、修正を要する部分もないではない、しかしそれは枝葉末節ともいうべきものだ、要綱支持の態度を決定し実現に努力しようと衆議は一決した」と書いている。
GHQ案が出された翌日、早々と委員会が結成されたことを指して古関彰一は「激変した憲法体制に対し、いかに政治的に早く、かつ組織として、つまり東京帝国大学として政治的ヘゲモニーを握るのかの問題であったのだろう」と言っている。ここで「政治的ヘゲモニーを握る」とは何を意味するのだろうか。それは古関が別の箇所でいう「日本のあるべき憲法解釈、ひいては日本のあるべき憲法の姿そのもの」を手中に収めることであろう。言い切ってしまえば、国家統治の中枢を担う法律制度を己の領域、縄張りとしてその解釈、運用の任に自ら当たることと解すべきであろう。
「押し付け憲法論」は「1954年ごろに雨後の筍のように族生された」と古関は言う。憲法案がGHQ製であることは宮沢俊義を始めとする東大の憲法研究委員会だけでなく指導的立場にいる政治家、学者、官僚、法曹人は程度の差こそあれーー耳打ちされた人も含めてーー知っていた。知らなかったのはわれわれ「普通の人」だけだった。日本国憲法を審議した貴族院の憲法改正特別委員会の委員には勅選議員の宮沢俊義、佐々木惣一、浅井清などの憲法学者が名を連ねていた。もっとも代表的な学者委員は南原繁東大総長であった。南原は衆議院から貴族院へ改正案が送付された貴族院の本会議(46年8月)で次のように述べていた。
「この間における政府の苦心については察するも、われわれは日本政府が自主自立的に責任を持って、ついに自らの手によって作成しえなかったことをすこぶる遺憾とし、これを日本国の不幸、国民の恥辱とさえ感ずる者である。かくては新憲法は上より与えられたというだけでなく、これはまた外より与えられたとの印象を国民に感ぜしめる惧れはないであろうか。」(議事録および『南原繁著作集』第七巻」)
こればかりでなく、南原はのちに議会で日本国憲法を承認し、その後、新憲法改正に反対する「憲法問題研究会」で講演もしている。このように「押し付け」は早々にして知られていたにも拘わらず議会では共産党所属の議員以外はみな賛成票を投じていたのである。これらの学者や指導者たちは「押し付け憲法論」が浮上するまでいったい何をしていたのだろうか。「九条の『平和条項』が、少数の議員によってではあるが、自発的に修正されていた事実を勘案すれば、押し付けの虚構性は明白ではないか」と古関は指摘する。
森嶋の回顧録に特徴的なことは彼が有名無名を問わず友人の記憶を強くとどめていること、彼らに対する思いの深いことである。米軍が硫黄島に上陸したのは2月19日で3月17日に日本軍司令部を壊滅させた。この1か月間に硫黄島の守備軍は目前の敵と戦うだけでなく戦場の有益な情報を日本へ送ることによって以後の闘いを日本に有利にするために全力を尽くした。
硫黄島には、森嶋が通信学校時代最も親しくしていた村越祐三郎がいた。通信学校を卒業した日に発表された配置先は、村越は硫黄島、森嶋は大村海軍航空隊であった。彼はうらやましそうに「貴様はよいところに決まってよかったな」と静かな口調で言った。次の玉砕地が硫黄島であることは誰でも知っていた。(「自分流に考える」の中で森嶋は「硫黄島からの暗号電報を、村越からの電報であると思いつつ、平文に翻訳した」と書いている。)
『血にコクリコ…』には森嶋夫人(瑤子)が解説を書いているがその中に以下のような文章がある。「村越少尉の話は本書では10行足らずの短いものだが、私は何度聞いたことだろう。『貴様はよいところに決まってよかったな』と言い残して死地に向った村越少尉との別れは、彼の人生に決定的といってよいほどの影響を与えたと私は思っている」。
村越祐三郎は1943年10月の一橋大学(当時は東京産業大学)の卒業生であった。(戦没した一橋の先輩たちを記録した『80年目のレクイエム』には村越氏について硫黄島で戦死したこと以外の情報がないので私は同会あてに一報しておいた。)このような「運命のいたずら」は数限りなくあったに違いない。海軍経理学校を卒業した私の叔父は赴任先がフィリッピンと決まった時に「安全な方面でいいな」と羨ましがられたという。しかしマッカーサーの執念は迂回してフィリッピンを目ざし、叔父はセブ島で戦死した。沈没した艦艇から投げ出されて水浸しで救出され、叔父に衣服を借りた軍人が叔父の実家にその衣服を返しに来たという。「背嚢(はいのう)はとても重いよ」と私に教えてくれたもう一人の叔父は、北支で負傷して白衣の傷病兵として再々出征を免れている。
制海権を失った海軍軍令部は陸へ上がって海からの電波の届きやすい日吉の丘陵地帯の地下壕に疎開していた。私はそこを見学してボランティアーの説明を聞いたことがあった。松代大本営ばかりではない本土決戦の準備がここにも見られた。森嶋は九州に同じような退避基地がいくつもあったことを描いている。海軍の特攻機の作戦配備も日吉の司令部で行われたという。艦隊側の反対を押し切って草鹿参謀長か伊藤整一中将を説得して大和を確実な死へと向かわせた決断もここで行われたということであった。地下壕に閉じこもった通信兵たちは、かつて寝食を共にした戦友が大和の艦内から敵の砲弾や魚雷の命中する轟音を耳にしながら打電する暗号をここで受信し続けた。
戦艦大和の出撃は太平洋戦争末期の悲劇として語り継がれ、なかんずく吉田満の『戦艦大和ノ最後』が有名である。通信士官として勤務していた森嶋は呉から三田尻へ回航された大和はすでに特攻の指令を受けていたと考えている。これは防衛庁防衛研究所戦史室の「戦史叢書」の(多分に関係者の戦後の談話にもとづいて書かれた)記述と齟齬するが 森嶋の記憶では、特攻はこの回航前に発令されていた。軍令本部と大和との間にお祭り騒ぎの電報の交換があったのはそれが特攻攻撃であったからだとしている。
この時ならぬお祭り騒ぎによって、日本軍が作戦行動に入ったことを感知した米軍は3月27日夜遅く下関海峡に機雷を投じた。大和はそこで進路を変えて三田尻沖から豊後水道を通って種子島の北に出ることにしたが、またしても東京と大和との間にお祭り騒ぎの交信があった。米軍は電報の意味を理解しないまでもその量の急減を知るだけで日本軍が作戦行動に入ったことを理解するから森嶋は「馬鹿なことをまたやった」と慨嘆した。
森嶋もまた大和からの通信を受け取っている。「私は四月七日の朝に『われ敵機の触接を受く』という特攻艦隊からの電報を受け取り、続いて『われ敵機の攻撃を受けつつあり、敵機の総数は三六〇機也、われ将旗を初霜に移揚す』の電信を受け取った。この時司令部員は大和を放棄して初霜に移っていたのだから、大和は沈没したか使用不能になっていたのである。戦闘はこれで終った。」
私は幾多の従軍記を読んだが軍隊内部の人間関係について、残虐さは別として、愚かしさについて、それが上位下達の愚かしさであることを学んだように思う。(それは森嶋のいう国体の共同体への挑戦なのかもしれない。)また軍隊という舞台で緊張を強いられる人間はまた大いに弛緩を必要とするものであることも。『血にコクリコの花咲けば』の末尾「総員逃亡」の項には森嶋中尉の最後の任地、垂水(たるみず)基地の一変した状況、食料と衣類を詰めて脱走する兵が現れる様などが描かれている。
森嶋教授の著書を愛読する過程で私は教授あてに手紙を書いたことがあった。それは教授があるところで、チャーチルとルーズベルトが「アンクル・ジョー」と呼んでいるのは誰のことだろうかと書いていたからであった。それはこの2人がジョセフ・スターリンに付けたニックネームだった。私はそれを知らせたついでに、その時読んでいた彼の著書の簡単な感想を付け加えた。教授はこの感想を予想外に喜んでくれた。「本を書く時はここを読んでもらいたいというところがあるものです。どうでもいいことを取り上げて褒めてもらっても嬉しくない。あなたはここというところを読んでくれました」という趣旨の返事をもらった。私はそれに力を得てそれからも何度か手紙を出し、その都度返事を頂戴していた。
森嶋教授は1993年7月~9月期に12回にわたってNHKテレビの「人間大学」で「思想としての近代経済学」という連続講演をされた。原稿もメモもなしでの講演はBBCで話題になった歴史家A.J.P.テイラーの講演の向こうを張ったものと私は推測した。残念ながら、内容は別として、病気の後遺症と思われるものがあって呂律が十分に回らない含み声に聞こえた。
「思想としての近代経済学」では8人の国際的な経済学者の業績が論じられたがその中の1人に高田保馬が入っていた。私はそれが不思議でその理由を問う手紙を出したところ「あなたは高田保馬を認めないのですか?」と叱られて、私の手紙は終りにしてしまった。
私にとって森嶋教授の分析はいずれも説得的かつ刺激的であった。『血にコクリコ…』の一部から取り出すだけでこれだけの分量を書かねばならない。いま開いて驚くのは1999年に出された『なぜ日本は没落するか』はまさに今の日本を予告する警世の書であった。しかし私の「読書遍歴」は先を急がなければならない。
森嶋教授の引力が余りに強いために私は前回「いろいろな人が試みる多様な英国論に引き付けられるものはなかった」と書いたが、今井宏著『日本人とイギリス-「問いかけ」の軌跡』(ちくま新書、1994年12月)はウイリアム・アダムス(三浦按針)の日本漂着から「漱石の憂鬱」まで、歴史的な日英の文化交流のスケッチとして出色のものであった。