学者渡世 考 1
2021年5月16日 11:20
幼年期の環境、人格形成
大島 森 両氏の「学者渡世」考察を読ませていただいた。
アメリカ滞在から帰国後の生きざま、安保闘争参加に至る社会活動に感銘を受けられているのは、欣然-了解とするところである。戦後活躍した文化人・インテリ層のなかでは、ピカイチであろう。
しかし、私が学者渡世を再読したところでは、少々、着眼点を異にすると思われるので、コメントさせていただく。
その生涯(本書に記述された範囲で)を一貫して貫くものは、終生崩さなかった「研究者としての立脚点と信念」である。実験に終始した心理学から、帰国後の社会心理学の開花と発展、とくに「日本人の心理」は終生研究し続けたテーマである。
先に触れた「ホグベン・ コミュニケーションの歴史」は、社会心理・マスコミュニケーション研究のバックグラウンド、というか、カタパルトの役割という位置づけだと思う。
南先生の学生時代、研究として出発するまでの思想形成も興味深いが、特にここでは、幼年期の環境、人格形成に注目したいと思う。
「学者渡世」冒頭部分より引用
学者渡世 12~14ページから
(前略)
さらに、一九一八年(大正七年)七月から八月にかけて。全国的な規模でひろがった米騒動も、子どもの心に印象を残した。当時京橋にあった父の胃腸病院の前を。群衆が駆けて通り、石が投げられて、病院のガラスのドアーが、こわされたことがあった。もちろん、その意味は、理解できなかったが、林要さんが回想で、米騒動に大きなショックを受けたといわれているのは当然で、あるいは、そんな話が、子どもの耳にも入ったのかもしれない。これも、潜在的な思想的影響になったかと思う。
もうひとつ考えられるのは、右にあげたような少年の思想形成に、やはり、幼稚舎時代、子どもなりに、福沢諭吉の思想と人格から大きな影響を受けたことである。
幼稚舎の講堂の入口には、福沢の大先生の大きな肖像画が壁にかけられていた。当時のいわゆる偉い人たちが、ひげをはやし、洋服を着て勲章をつけたりしていたのに、福沢先生は、私服の着流し姿で、ぼくたちを見ていた。当時、もちろん、先生の思想などわかるはずはなかったが、慶応義塾をつくった、心から尊敬できる大先生の気どらない風貌から、「独立自尊」を体現した人間のほんとうの偉大さを、直観的に教えられたのである。
そういえば、幼稚舎では、徹底した自由主義教育が行われ、他の小学校とはちがって、教育勅語を教わらなかった。ぼくは中学校は、慶応の普通部に進まないで、当時の「官立」で七年制の東京高校尋常科に入った。修身の時間に先生が、教育勅語を一人ずつに暗唱させた。もちろんぼくは、一言もいえない。修身の先生は怒って、ぼくに聞いた。「君は教育勅語を知らんのか、いったいどこの小学校からきた」。ぼくが「慶応の幼稚舎です」と答えると、先生は一層大声で怒鳴った。「幼稚園のことをきいているのではない、小学校はどこだ」。幼稚舎で自由に、文学作品を読み、文章を書くことだけに熱中してきたぼくにとって。教育勅語というものの重圧が感じられた。それは、自由な学習の精神ではなく、意味もわからずに。むやみとむずかしい漢字がならんだ文章を、強制的に暗記させられる精神的な束縛だった。
少年期の反抗的な気持ちは、このころから出はじめたと思う。もっともこれには、父の影響もかなりあった.父の郷里は、『智恵子抄』の智恵子の生まれた町として知られた会津二本松で.明治維新の際、会津若松城の「白虎隊」とならぶ「少年隊」が、薩摩の軍隊と戦い玉砕した城下町である。薩摩の野津小隊長(のちの陸軍元帥.野津道貫)も負傷したが、後年回顧して、「恐らくは戊辰戦争中第一の激戦であったろう」といったほど、少年たちは勇戦奮闘したのである。この頑強な朝敵の血を引く父は、生涯、反政府、反官僚の態度を貫き、開業医として一生を終った。
もちろん、父は明治人として、明治天皇には尊敬の意を表していたが、それでも、朝敵らしい言動もしばしばあった。父が所蔵していた幕末錦絵に.不思議な図柄の一枚があった。そこには、西郷隆盛や大久保利通などが、いかめしい軍服や大礼服で大きく描かれ、その横に.赤ん坊のような子どもが立っている。西郷や大久保などが、その子どもを「金坊」と呼んでいる。中学校の時、父が「この金坊というのは明治天皇のことだよ」といったことを思い出す。
また、明治天皇の侍医に任じられた佐藤尚中が、天皇の診察には這って行かなければならないと命じられ、それに対して、「佐藤尚中、禽獣にあらず、匍匐する能はず」といって辞退したといふ。この話は、父の気に入りで、たびたび聞かされたものである。
やはり、ぼくが中学生のころ、父と家族一同が、汽車に乗っていたところ、車拿が、「宮様がお乗りになりますので、この席をお付きの方に譲ってて下さい」といったところ、父は、「おれは金を払って、この座席に座っているのだ。だれが来ようと、この席は譲らない」と母がはらはらするほど怒って、拒絶したこともある。
この父から、少年のぼくが学んだことは、右のような父の生活態度と結びついていた合理主義であった。それは、基本的に唯物論的な考え方であり、宗教については、徹底した無神論であった。父の蔵書に、中江兆民の『一年有半』、『続一年有半』があったのは、父が明治的唯物論の信奉者であったしるしかもしれない。父のなかにあった、この唯物論的な傾向は、やがてのちにぼくの思想面でも、受け継がれてくることになる。また、宮武外骨や南方熊楠の著書があったのも、民間の学者に対する尊敬の念があったからだろう。
《ウイキペディアー: 父は医師の南大曹(福島県出身、1878年生まれ。日本医科大学教授、日本消化器病学会会長、財団法人癌研究会理事長、南胃腸病院院長)》
《私・佐藤が南先生から直接聞いたのだが、「親父は患者の胸をたたいただけで、直ちに、病気がわかった」ということだった。》
「母上からの影響と幼児期の芸術的環境」については次回に