P大島昌二:「読書遍歴(4)ヰタ・セクスアリス」 2023.11.12  Home

00043(2024.1.29 06:48) 

「読書遍歴(4)ヰタ・セクスアリス」 

 

  成長、発育と共にあるのは「性の目覚め」である。そこで次にはそれに関する読書経験を書くべきだろう。今回の標題を「ヰタ・セクスアリス」としたのは同名の森鴎外の作品名に依拠しただけでなくその意味するところを内容にしたからである。しかし、いずれにせよ鴎外のこの作品を避けて通ることは出来ない。 

 私がこの作品を最初に読んだのはまだ中学生の頃であった。早熟と思われるかもしれないがそうではなく、ただ手許にある本を読んだだけである。高校で図書委員をしていた兄が借りてきた改造社版の文学全集の一冊に入っていたと思う。私はおそらくその後も同書を読み返している。いずれにしても私はこれを読んで驚愕した。顔を赤くして息を詰めて活字を追ったはずである。鴎外ともあろう人物がこんなポルノグラフィーまがいのものを書いて、それも堂々と活字になっているのは信じられなかった。 

 短い本なので今回あらためて読んでみたが、これまた中身は記憶と程遠い。いつの頃からか鴎外や漱石の本には注釈がつくようになって余計なことと思っていたがこれが予想外に役に立つ。お茶屋や吉原のしきたりや学校制度がわからないのは良しとしても、夏目金之助君の書いた小説(『吾輩は猫である』)を読んで「技攁(ぎよう)」を感じたと書いてあるがその意味が分からない。これまですらすらと何のよどみもなく読めたものが今回は註解が大いに役立った。すらすらと読めたのは今とは読み方が違っていたせいに違いない。私の長女が子供の頃に読んでいた英語の本の中の難しそうな単語を取り上げてその意味をたずねたが答えられなかったのと同じ現象だと思う。 

 今回読んだ『ヰタ・セクスアリス』はポルノグラフィーでも官能小説でもなかった。そもそも鴎外自身が性に関しては受け身であって誘惑の場にあってもそれに応じるのは「好奇心」を満たすためや同輩に対する「負けじ魂」のせいだという。「さわり」に類する箇所も次のように恬淡たるものである。文中、鴎外は金井湛(しずか)という哲学者であり、鴎外周辺の実在した友人たちも仮名で登場する。 

 二十歳になった金井湛は初めて吉原に案内される。花魁とその世話女房の3人になった時に「己(おれ)は寝なくてもよい」と金井がいうのに対して女2人は顔を見合わせて笑う。女房は手早く金井の足袋を脱がせた上で、抵抗のできないように柔らかに、隣室の衣桁の向こうに敷いてある布団に横にしてしまった。「ぼくは白状する。(…)これに反抗することは、絶対的不可能であったのではない、僕の抵抗力を麻痺させたのは、慥かに僕の性欲であった。」 

 鴎外はその後も妻を亡くしてから再婚する前に友人2人に吉原へ連れて行かれるが女に向かって「己は寝ない積だ」という。そして女と腕角力をする。「煎餅布団の上に腕を突いて、右の手を握り合った。いくら力を入れて見ろと云っても駄目である。僕は何の力も費やさずに抑え附けてしまった。」そして何ごともなかったかのように続く。「障子の外から、古賀と三枝が声をかけた。僕は二人と一しょに帰った。これが僕の二度目の吉原通いであった。そして最後の吉原通いである。」 

これで遊興は終りかと思うと鴎外はその後も洋行前、21歳の時に待合へ行く。同じようなものではないかと思うが吉原は格上で引出茶屋を通して予約を入れるしきたりがあった。「いつもの通り(友人と)三人で、下谷芸者の若くてきれいなのを集めて、下らないことをしゃべっている。」そこへお上が入って来て「金井さん、ちょいと」という。別間に見たこともない芸者がいる。「少し書きにくい、僕は、衣帯を解かずとは、貞女が看病をする時のことに限らないということを、この時教えられたのである。今度は事実を曲げずに書かれる。その後も待合には行ったが、待合の待合たることを経験したのは、これを始の終であった。」 

金井はこの後、本書の終り近く、ベルリン、ライプチッヒ、ミュンヒェンなどでの出来事を手短に回顧する。「そしてつくづく考えた。世間の人は今の自分を見て、金井は年を取って情熱がなくなったと云う。しかしこれは年を取った為めではない。自分は少年の時から、あまりに自分を知り抜いていたので、その悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてしまったのである。それがふとつまらない動機に誤られて、受けなくてもよいdub(下記注)を受けた。これは余計な事であった。結婚をするまでdubを受けずにいた方が好かった。(…)或は結婚もしない方が好かったのかもしれない。どうも自分は人並み外れの冷澹な男であるらしい。」 

  (注)鴎外はしばしば文中にドイツ語や英語を用いる。ここでdubは童貞を失うことを指している。 

標題にかなっているとはいえ、『ヰタ・セクスアリス』、それもほとんど後半部に多くの字数を割きすぎたように思う。確かにこの小説を連載した『昴(すばる)』は発売禁止の処分を受けている。その後、発禁が解かれたのは時代が変わったということだろうが、私自身に即して言えば、思春期にポルノグラフィー紛いと思いながら読んだ本も大人になって読んでみれば目を背けるような内容は一つとしてない。 

    

これで吉原の大門の内側の様子を垣間見ることができたが、実は本書の前半には男女間ではなく男色の世界が展開している。鴎外は13歳の時から東京で寄宿舎住まいをしている。寄宿舎には軟派と硬派の生徒がいて多くは鴎外よりはるかに年長の20代であった。硬派、軟派はいずれも悪所通いをしたが硬派と軟派はそれぞれ行き先が違った。硬派は遊郭、軟派は町湯の二階という具合である。この分類で鴎外は軟派であったが硬派に狙われていた。幸い同室の年長者が見えない防壁になっていたが実家から護身用に短刀を持ちこんで用心していた。その短刀を持って2階の窓から屋根へ逃げて息を凝らして隠れたこともあった。 

軟派は数において優勢であったが硬派が巾を利かせていた。硬派は九州人が中心でそれに山口の人の一部が加わった。そのほかは中国一円から東北までがことごとく軟派であったという。ここに描かれた地域差はその通りだと思う。私が育ったのは関東、東北であるが男色というのはいつまでたっても言葉を知るだけであった。きだみのるの『道徳を否むもの』の主人公、慎一は鹿児島の南端の町で育っている。そこでは「若い娘たちは夜でも自由に歩くことが出来た。しかし少年たちは、美しければ特に、そうはできなかった。」慎一は硬派ではないが多分にその土地の伝統的な徳目に縛られていた。慎一の成長記は師父とも言うべきJ..C..の影が色濃くその分『道徳を否むもの』には慎一の知的成育の道筋は見えても多分に無頓着で血の温みは十分には伝わってこない。 

鴎外は自分を軟派には向かない、また女性の眼を引くこともない「醜男」と見なしていた。これに対して慎一は美男子であり日本人には珍しく背丈があって人目を引いた。J..C..の慎一に対する感情にも単なる師父以上のものを添えなければ理解が届かないと感じられるのである。鴎外が金井湛に託して描く自画像は一時期の鴎外の自伝になっている。それをそっくりJ..C..を離れたところの慎一の姿に置き換えても不自然ではないようにすら思われる。 

 

小説世界に現れる性の問題ではすぐにも世界的な話題を呼んだ『チャタレイ夫人の恋人』に飛びたい誘惑を感じるが、ここでは私が強烈な印象を受けたもう一つの日本の作品に触れておきたい。それは谷崎潤一郎『武州公秘話』である。私は谷崎の作品は大作『細雪』のほかは『春琴抄』、それに晩年に話題を呼んだ『鍵』、『瘋癲老人日記』ぐらいしか読んでいなかった。谷崎の死後に松子夫人が著わした『倚松庵の夢』は彼女の魅力に惹きこまれた谷崎の意外な言動を谷崎の小説のごとく奇なるものとして読んだ。 

『武州公秘話』を数多い谷崎の作品の中の代表作として上げる人はまずいない。だから私がそれを手にしたのは偶然のことで今は失ってしまったが中央公論社のハードカバーながら文庫版サイズの本であった。記憶に残っているのは武州公がその慕う桔梗の方の意に従って苦心の末に彼女の夫である牡鹿城の城主、筑摩家の織部正則重の鼻を削ぐという話である。 

牡鹿城が籠城戦を戦っている時に13歳の法師丸(後の武州公、武蔵守河内介輝勝)は人質として牡鹿城に留められており、城中で5,6人の婦女が首実検にそなえて敵の将兵に死化粧を施している様子を観察する。それらの首の中には「女首」と呼ばれる、合戦のさなかに目印として鼻を削がれたものもあった。法師丸は当初の気味悪さを乗り越えると3人の女が流れ作業のようにして首に化粧を施す様子に心を奪われた。とりわけ彼を惹きつけたのは、1人の若い女が「ときどき、じっと首を視入る時に無意識に頬にたたえられる仄かな微笑のためだった。その瞬間、彼女の顔には何かしら無邪気な残酷さとでも云うべきものが浮かぶのである。そしてその髪を結ってやる手の運動が外の誰よりもしなやかで、優美である。(……)法師丸はそう云う彼女をたまらなく美しいと感じた。」 

女首のほかにも頭髪のない「入道首」というのもある。谷崎は香を焚き込めてはいても生臭いに違いない首洗いの過程を微細に描写して読者を離そうとしないのである。舞台は戦国の城盗り合戦である。法師丸はその血なまぐさい世界で変態性欲の世界に自ら進んで迷い込んだのである。私は法師丸(輝勝)の奇行よりも矢傷を負って兎唇(みつくち)になった、筑摩則重の呂律の回らないセリフから異様な刺戟を受けた。 

話の筋を少し明かすと、桔梗の方とは牡鹿城を包囲した薬師寺家の弾正政高の娘である。仇敵同士の縁組は奇異に感じられるが最後の攻防戦の後、時日もたっており勢力伯仲する両家に平和をもたらすことを望んだ室町将軍家の口添えの結果であった。攻防戦のさなかに何者かの不意打ちにあって死後鼻を削がれるという恥辱にあった弾正政高の死因は糊塗されており、筑摩方でもその死の真相を知っているのは武蔵守輝勝ただ1人であった。美人好みの筑摩則重は桔梗の方との婚姻を喜び2人の仲は睦まじく男女2人の子宝にも恵まれていた。 

このように話は錯綜しているが谷崎は妙覚尼の「見し世の夢」と道阿弥の手記という、おそらく架空の2つの古文書に頼って話を進めており当然ながら疑義を残し、すべてが明白な事実とはされていない。武蔵守輝勝(武州公)の桔梗の方に対する恋情がどこまで叶ったかも霧の中である。後年の輝勝の戦場における勇猛ぶりはあまねく伝えられているがそれを叙することは谷崎の意図ではない。ただ輝勝の桔梗の方への想いは、かの法師丸時代に若い娘の顔に認めた仄かな頬笑みの再現を渇望したものであったことは明らかである。そして桔梗の方の胸中で消えることのなかった炎は何よりも父の怨念を晴らすことであった。『武州公秘話』を再読して驚くべきことは、このようなプロットの繊細性にかかわらず破綻を見せないこと、またその結末が意外でありながら説得的であることであった。 

この稿をまとめながら私はどこかに『武州公秘話』についての評論がないものかと探していた。そしてついにドナルド・キーンの『日本文学の中へ』という自伝の中の「わが心の三島、谷崎」の中にそれを見つけた。キーン氏はそこで「では何が谷崎文学の最高傑作かと聞かれると返答に困るが、やはり『蘆刈』、『春琴抄』、『吉野葛』など昭和五年から十年にかけて書かれた一連の作品に頂点があるように思う」と書いている。(『武州公秘話』が書かれたのは昭和6~7年であった。)そしてその上で谷崎文学の研究書のおおかたは、(…)『武州公秘話』にはあるていど以上の評価を与えていない。だが、私は実際に作品を読んで、それを谷崎文学の傑作の一つと判定した。」そしてさらに「だから私は『武州公秘話』劈頭の陰惨きわまる首装束の場面のことを『谷崎文学の最高の作品であるばかりでなく、今世紀のいかなる傑作とも比肩しうるもの』(Landscape and Portraits)と書いた」という。 

私は以前(20年6月)「谷崎潤一郎の作品と家族」と題した小文を載せている。そこで広く世界文学を渉猟して評論を行ったMartin Seymour-Smith が谷崎に最高の賛辞を呈していることを紹介した。キーン氏は日本近代文学に限っているが、最高の大家を決めるのは不可能であろうとした上で言う。「しかし、正直に言うと、鷗外や漱石の文学を尊敬しているが、私は谷崎文学の魅力をより深く感じるのである。そして誰かに聞かれたら、近代文学における最高の大家は谷崎であると敢えて言うだろう。」(『日本文学を読む』) 



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