フーバー大統領が明かす
日米戦争の真実
米国民をも騙した謀略
加瀬英明【編著】
藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道【共著】
2019/3/5 勉誠出版
≪要 旨≫
第一章 “FREEDOM BETRAYED”を書いたフーバー大統領(Herbert C Hoover)・・・・・・・・・・加瀬英明
第二次世界大戦の大著
ルーズベルト大統領の前任者フーバーの膨大な第二次世界大戦の回想録。2011年刊行。『ブリタニカ大百科事典』にフーバーが秀逸な歴史研究家として描かれている。
ルーズベルト政権の中枢は共産主義者
フーバーは1941年6月、容共主義者フランクリン・D・ルーズベルトが第二次世界大戦に参戦しようとしているのに強く反対して、「スターリンがヨーロッパの大きな部分を支配することに手を貸すことになる」と訴えた。
トルーマンに早期講和を進言
1944年ルーズベルトは四選目の選挙に臨み、ハリー・S・トルーマン上院議員を副大統領候補に選んだ。1945年4月ルーズベルト急死によりトルーマンが大統領に。フーバーは親しかったトルーマンに、日本と速やかに講和を図るよう進言したが、アメリカの世論や軍部の反対で実現しなかった。
ポツダム会議と原爆投下
1945年2月ヤルタ会議の1か月後に重光葵外相が東京駐在のスウェーデン公使に和平の仲介を正式に要請。1945年7月ポツダム会議。トルーマンが原爆投下を命じたのは、アメリカ歴史上未曾有の残虐行為だった。
歴史の不思議
ルーズベルトは1932年大統領に選出され、マイアミを訪れて、歓迎会に臨んだ。セルマク・シカゴ市長も来てルーズベルトの隣に立っていた。そこへ無政府主義者の煉瓦工がルーズベルトを狙って発砲、セルマクに当たった。もし狙い通りルーズベルトに命中していたら、中立主義者のガーナーが大統領になって、日米戦争は起こらなかったはずである。
フーバーの生い立ちと成功
フーバーは1874年、中部アイオワ州で生まれた。少年時代に両親を失い、西部オレゴン州の田舎町ニューバーグの開業医だった叔父に引き取られた。1891年に高校を終えると、カリフォルニア州スタンフオード大学鉱業学部に入学して地質学を専攻。1895年卒業後、カリフォルニア州の鉱山で働いたのち、ロンドンの有力な鉱業会社に雇われて頭角を現わした。1900年、天津に新妻のルイーズを伴って滞在中に、義和団の乱に見舞われた。その後世界各地で活躍し、1908年にロンドンに本社を置く自分の鉱業コンサルティング会社を創立。会社は急成長を遂げ、若くして億万長者となり、“アメリカン・ドリーム・ボーイ”だった。
人種主義者で人道主義者
フーバーは中国やオーストラリアの鉱山で働いた体験から、「アジア人種と黒人は知能がきわめて低い。」「中国人は無能、不正直で、詐欺師だ。役人は全員が腐敗しきっている。」と述べる一方、1921年に商務長官在任中、ロシアが共産革命による混乱に陥って、飢饉が発生し、大戦に敗れたドイツ国民が食料不足に喘ぐようになると、共和党の反対を押し切って、ソ連とドイツに食糧支援を実施した。
第二章 戦争を仕掛けたのは誰か・・・・・・・・・藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道(鼎談)
『裏切られた自由Freedom Betrayed』とはどういう本か?
二十数年かけて膨大な資料に基づいて書かれた歴史書。フーバーは1964年に原稿を出版社に渡してすぐ亡くなった。47年後にようやく出版され、さらに6年後に日本語に翻訳された。大部分ヨーロッパにおける第二次大戦論。この資料を基にスタンフオード大学のフーバー研究所ができた。
早く戦争を始めたかったルーズベルト
セオドア・ルーズベルトが作ったオレンジプランという対日戦争計画を、フランクリン・ルーズベルトが推進した。
東京裁判史観のマインドコントロール
日本は、①絶対君主天皇がいた、②軍部が政治を支配した、③言論が弾圧されていた、④偏狭な民族主義、日本優越主義を信じていた、⑤国家神道を国民に強要していたから戦争を起こした、とマインドコントロールされてきたが、実は①民主主義国であるはずの、②文民統制だったはずの、③言論の自由があったはずの、④多民族国家の、⑤キリスト教国で信仰の自由を主張している、アメリカが戦争を起こしたのである。
フーバーは日本が真珠湾攻撃を行う前に既にアメリカが戦争を始めていた。また原爆投下はアメリカの犯した過ちで、投下を決定したトルーマンを批判している。
ヤルタの密約と北方領土
ヤルタ協定にはクリミア、ウクライナの地位についての条項のほか、日本の領土や朝鮮半島の問題にも関係があるので、北方領土問題はヤルタまで見直す必要がある。
ルーズベルトは狂気の男だ!
フーバーは終戦後、トルーマン大統領の要請で日本に来て、食料の配給がきちんと行われているか検証した。その時のマッカーサー連合国最高司令官との会談で、「この戦争はだれがやったんだ」「あの狂気の男(ルーズベルト)だ」と二人は意気投合した。
終戦時、中国大陸からの邦人帰国に尽力したウェデマイヤー米陸軍大将も同じ考え。
フーバー大統領の経歴
アイオワの田舎の生まれのクウェーカー教徒。スタンフオード大学を出て、鉱山技師としてオーストラリアや中国で働いた。(第一章参照)
フーバーの日本認識
鉱山技師時代に朝鮮に行った。盗賊がはびこっていたが、日本の統治下で近代化し、豊かになった。
「通商条約廃棄」というアメリカの準宣戦布告
戦前の中国がアメリカでロビー活動をやる一番の下支えになったのは、キリスト教のYMCAという大組織が中心となって、日本が中国を侵略しているから日本には武器を送るな、と大運動を展開、その影響で1939年7月に突如、日米通商条約を破棄すると通告してきた。
フランケンシュタインを作ったアメリカ
ニクソン大統領の言葉:一つは、頭は共産主義で下半分は資本主義という人造人間。二つは、怪物を作った博士が怪物のために死ぬ、即ちソ連と戦うために中国を引き寄せたのに、逆に化け物になってアメリカに刃向かってきた。
裏切られた対ソ連軍事援助
ソ連誕生以降のアメリカの歴代大統領4人と国務長官6人は、ソ連を承認しなかったが、ルーズベルトは承認。共産主義の宣伝活動をやらない条件だったが、ソ連はすぐ違反、米側の抗議に対し、スターリンはコミンテルンがやっていると詭弁。中国もこのロジックを使う。『自由な社会』と『自由でない社会』が戦うと、前者が不利、それが本書の題名。アメリカの一番大事な価値である『自由』が。それは共産主義に同調するルーズベルトに裏切られた。そこから、チャーチルはなぜドイツと戦争をするのか、ドイツとソ連という、全体主義国家同士を戦わせておけばよいのに。さらに、アメリカはソ連に航空機14,700機、戦車7,000両、装甲車6,300両、トラック375,000台、ジープ52,000台、等々を支援する。
中国から日本を爆撃する計画
ルーズベルトはマルクス主義にシンパシーを感じる進歩主義者で、日本は古代から続く君主がいて、遅れた封建的な国と見ていた。これに対し、中国は共和制だから進んでいると思っていた。それが彼の日本に対する人種偏見を強化、深化させた。
1941年7月、アメリカのB17爆撃機150機を中国に供与し、中華民国マークでシナ大陸から日本を爆撃する『JB-355計画』に大統領がサインした。これはカーリー大統領補佐官が陸海軍の参謀に指示し案を作らせた。ところが、たまたまイギリスでB17が必要になって、そちらへ回したため、作戦が遅れたもので、イギリスに回さなければ、昭和16年秋には日本本土が爆撃されていた。アメリカこそが戦争を起こしたという何よりの証拠。
第三章 ルーズベルトが犯した十九の失策・・・・・藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道(鼎談)
第1の過ち 1933年の国際経済会議を崩壊させた過ち
1929年の大恐慌の対策として、フーバーとマクドナルド英首相が準備したが、ルーズベルトが選挙に勝って、6月に延期した。国際決済に金標準を用いる事に合意したにも拘らず、ルーズベルトが反故にした。これにはルーズベルトの懐刀ハル国務長官がこの失敗が第二次大戦の根本的な原因になったと非難した。
第2の過ち 共産ロシアを承認した過ち
1933年[上記参照]ルーズベルトが大統領に選ばれる直前、共産主義者が主導した、偽札を大量に刷った事件と、退役軍人らによるボーナスをよこせという行進の二つの事件が起こった。にも拘らずソ連を承認した。ルーズベルトとその政権中枢が赤化していたため、戦後マッカーシーによる赤狩りは止むを得なかった。ルーズベルトの人種差別的な意識と共産主義的な進歩主義とが結びついて対日戦争になった。
第3の過ち ミュンヘン融和――ヒトラーとスターリンの衝突を止めた過ち
1938年9月、英仏伊独の首脳がミュンヘンで会談しナチスドイツによるチェコスロバキアのズデーテン地方割譲要求を受け入れた[ミュンヘン融和]。ヒトラーとスターリンにつぶし合いの戦争をさせればよかったのに、つぶし合いを止めることに努力した。
第4の過ち 英仏によるポーランドとルーマニアへの独立保証の過ち
1939年3月、題記保証により、ヒトラーとスターリンとが戦うことが避けられない状況であって、その際ヨーロッパの民主国家は介入しない方針だったが、これが変わったため、英仏はドイツとの戦争に巻き込まれるという大失策を犯した。
第5の過ち 日独に宣戦布告なき戦争を始めた過ち
日本に対する1940年の通商条約の破棄、経済封鎖、1941年の日本の在米資産の全面凍結、石油と屑鉄の禁輸等は宣戦布告なき戦争。ヒトラーがロシアを攻撃することを知っていて、ロシアに情報を提供もしていた。ドイツに対する宣戦布告なき戦争を回避するべきだった。
第6の過ち 緊急事態に慎重な政策をとらなかった過ち
政治の大道からすれば、あの緊急事態の中で、注意深くじっくり待つ政策(国際法の範囲内でイギリスに武器を買う経済援助をすれば、イギリスの借金になるに過ぎない)をとることが必要だった。
第7の過ち スターリンと同盟した過ち
アメリカの全歴史を通じて最も政治の大道が失われたのが、ヒトラーがロシアを1941年に攻撃したときに、共産ロシアを支援して、アメリカとロシアが非公然の同盟関係になった(アメリカが莫大な犠牲を払ってソ連に力をつけてしまった)こと。結局、第二次大戦唯一の勝者がスターリン/ソ連と言える。
第8の過ち 日本への全面経済制裁をした過ち(1941年7月)
スターリンと隠然たる同盟関係となった1か月後に、腹心の部下の再三の警告を無視して、日本に対して全面的な経済制裁を行って、日本を挑発した。ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、中華民国の蒋介石も、ルーズベルトをけしかけた。
第9の過ち 1941年9月に近衛和平提案を拒絶した過ち
近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達するものだった。
なお、マッカーサーは最初、近衛に憲法をつくらせようとしたが、カナダの外交官で戦後のGHQで一番のキーパーソンだったハーバート・ノーマン(ソ連の100%のエージェント)がこれを排除して違う路線を取らせるために中心になって動いた。彼はカナダの駐エジプト大使の時、マッカーシーに査問され、飛び降り自殺した。
第10の過ち 日本の三カ月の現状凍結提案を拒絶した過ち
1941年11月、天皇陛下から3か月間の冷却期間をおこうとの提案がなされたが、ルーズベルトは、米軍高官の受け入れるべきとの進言を無視して、これを拒否した。当時、ドイツが対ソ連戦で守勢に回りそうだったので、日本がそれを見て開戦を躊躇すれば、ルーズベルトの目的が達せられないと思ったため。
第11の過ち 無条件降伏を要求した過ち
1943年1月のチャーチルとのカサブランカ会談で、ルーズベルトは、米軍やチャーチルの助言も聞かず、新聞の一面の見出しをねらって、枢軸国の無条件降伏を要求した。それにより戦争が長引く弊害が生じた。
ポツダム宣言は、軍事的には無条件降伏で、政治的には条件を残すはずだったが、無視された。
第12の過ち バルト諸国と東部ポーランドを犠牲にした過ち(1943年10月)
モスクワでの外相会議でロシアがバルト海諸国、東ポーランド、東フィンランド、ベッサラビアとブコビナを併合(これはヒトラーと合意していた)しようとすることに全く抗議をしなかったことである。この沈黙は、大西洋憲章とルーズベルトが約束した『四つの自由』を最終的に放棄するものであった。
第13の過ち テヘラン会議でさらに七カ国を犠牲にした過ち
1943年12月のテヘラン会談で、ルーズベルトとチャーチルは、前項のロシアによるバルト諸国などの併合を、国際的な道義とルーズベルトとチャーチルの諸国への独立の約束と、自由な人間への忠誠に則り、断固反対すべきであった。
第14の過ち ヤルタ会談で秘密協定を結んだ過ち
上記ヤルタ会談では、ソ連の要求が増えて12カ国になった。数世代に亘って国際関係に危険をもたらすような秘密協定が多数結ばれた。そして、言葉を繕って、スターリンの暴虐に水を差さずに隠蔽した。
第15の過ち 日本の和平提案を拒否した過ち(1945年5月~7月)
この時期、日本は白旗を掲げて和平を求めていたが、ルーズベルトはこれを拒否した。しかし、トルーマンは、ルーズベルトの無条件降伏という愚かな条件に従う義務はなかった。天皇の地位保全という唯一の譲歩を米国が最終的に受け入れて和平が達成できた。日本の歴史教育では、日本がポツダム宣言を無視したから犠牲者(原爆等)が増えた、と言っているのは誤り。
第16の過ち【以下トルーマン】ポツダムの過ち
ポツダム宣言は英・米・中の指導者が日本に向けて出した(7/26→8/10午前2時御聖断)。経験のない人物(トルーマン)に政権が移り、スターリンの思うままにされた。日本には無条件降伏を要求し、日本側は天皇の存続という条件のみを求めたが、原爆が投下され、その後この条件が受け入れられた。
第17の過ち 原爆投下という過ち
トルーマンが日本に原爆を落とすという非道徳的な命令を下したことは、アメリカの全ての歴史の中で他に比較するもののない残忍な行為であった。「二度と過ちを繰り返し云々」の広島の慰霊碑の碑文は書き換えるべきである。
第18の過ち 中国を毛沢東に委ねた過ち
トルーマン、マーシャル将軍とアチソン国務長官が中国に関して、政治の大道を踏み外した。ルーズベルトは、蒋介石が共産党と協力することにこだわり、中国に関する裏切りの秘密協定がヤルタで結ばれた。その結果モンゴルと、事実上満州をロシアに手渡すことになった。それはトルーマンの左翼の側近の根強い影響のためである。
第19の過ち 第三次世界大戦の種を撒いた過ち
モスクワ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談、そして対中政策の錯誤が重なって、冷戦の原因になってゆく。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争を引き起こす。第三次世界大戦を引き起こす可能性のある災いの種が世界の至る所にばらまかれた。
第四章 戦争を望んだルーズベルトの狂気・・・・・藤井厳喜・稲村公望・茂木弘道(鼎談)
共産主義の本質を見抜いていたフーバー
フーバーは、共産主義とは「自由人に対する巨大な、知的または道徳的な脅威」で、国際関係について、外交官の言葉と行為とは矛盾しなければならない。労働組合はストライキをやり、法的な秩序、団体を転覆させる。国家間における敵対関係をかき立てるのが基礎で、共産主義国と資本主義国との間に平和ということはあり得ない。としていたと見抜いていた。
アメリカに拡がる共産主義
1938年、非米委員会ができ、マーティン・ディース委員長の下、国家転覆の謀略を次々と暴いた。ルーズベルトはこれをあざ笑っていた。
アメリカの破壊を策謀するコミュニスト
共産主義の活動方法は、セル(細胞が組織の中へ入って、組織を崩す)とフロント(表面上は通りやすい名前を付けた団体を作って活動)の二つがある。フーバーはアメリカの基本は自由のために建国したのが基本と考えていたが、ルーズベルトは議会を無視し、大統領権限を肥大させ、憲法違反で、アメリカの国体を革命的に破壊するものであると認識。
共産主義は戦争を画策し利用する
共産主義の正体として、表面的にはだれにでも受け入れられるデモクラシーや人権などを表に出して、過去を断罪する活動を、本音では否定しながら、利用している。
中国共産党の野心
1979年、ジミー・カーター大統領は中華人民共和国を正式に承認、台湾との外交関係を切った。現在、中国はアジアインフラ投資銀行(AIIB)で、アメリカの金融覇権・ドル覇権へのチャレンジを目指している。
終戦処理の誤りと共産主義の膨張
トルーマン政権は、マーシャル特使を派遣して、蒋介石に共産党と連立政権を作って内戦をやめろと伝えたが、スターリンの援助で共産党が優勢になり、蒋介石政権も崩壊。
ルーズベルトという狂人の欲望
前述のとおり、フーバーは、ルーズベルトが日本を戦争に追い込んだり、共産主義でアメリカを転覆させようとしたりした狂人だったと、はっきり書いていた。
第二次世界大戦はアメリカにとっても正義の戦争ではなかった!
2005年5月ブッシュ・ジュニアがラトビアの首都リガで行った、ヤルタ協定を批判した演説は、フーバーに近い。第二次大戦がアメリカの正義の戦争だなどとは嘘だ、というのがフーバーの結論。本書はおそらく、アメリカ人にとっても国際政治に関する戦後最大の衝撃的な本であろう。
あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加瀬英明
なぜルーズベルトは日本に対米戦争を強いたのか?ルーズベルトの母方の祖父が、中国に対するアヘン貿易で巨富を築いたという生い立ちから、またアメリカ国民が中国の巨大市場を夢見る傍ら、中国をキリスト教化できると信じて、中国贔屓だったのに対して、宣教師たちの努力にもかかわらず、日本がキリスト教化しなかったために、日本に好意を抱けなかったことがあげられる。それに何よりも、当時のアメリカが白人至上主義に発した人種差別と、アジアについて無知だったことが根底にある。
著者プロフィール
かせ・ひであき
1936年、東京都生まれ。外交評論家。慶応義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長。1977年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問を務めたほか、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任。「加瀬英明著作選集」を刊行中。
ふじい・げんき
1952年、東京都生まれ。国際政治学者。早稲田大学政経学部政治学科卒。クレアモント大学院政治学部(修士)を経て、ハーバード大学政治学部大学院助手、同大学国際問題研究所研究員。1982年から近未来予測の「ケンブリッジ・フォーキャスト・レポート」発行。主な著書に「国境ある経済の復活――世界貿易戦争で敗北する中国とドイツ」など。
いなむら・こうぼう
1947年、奄美・徳之島生まれ。岡崎研究所特別研究員、「月間日本」客員編集委員。東京大学、フレッチャースクールに学ぶ。沖縄郵政管理事務所長、総務省政策統括官、日本郵政公社常務理事、日本郵便副会長を歴任。主な著書に「黒潮文明論――民族の基層と源流を想う」など。
もてき・ひろみち
1941年、東京都生まれ。「史実を世界に発信する会」(代表・加瀬英明)事務局長。東京大学経済学部卒。富士電機、国際羊毛事務局を経て、1990年、(株)世界出版を設立。主な著書に「戦争を仕掛けた中国になぜ謝らなければならないのだ!――『日中戦争』は中国が起こした」「大東亜戦争 日本は『勝利の方程式』を持っていた!」など。