近況、合わせて五島列島への旅
伊豆高原で一度会っただけの森下さん、その後どうしているかと案じていたら神出鬼没、今度は千葉に現れての消息。
われわれはとにかく元気が必要だよ。そもそも我々は不幸だろうか?ピーター・フランコパンという大風呂敷を繰り広げて見せる世界史家の『変容する地球 語られざる歴史』という本を開いたらその冒頭に「我々は劇的な気候変動を有難く思うべきだ」と書いてあった。数十億年にわたる地球の変動のお陰で我々はここにいるのだという。それがこじつけでないならば、「もしトラ」さんが支配することになったUSAなぞは何でもないではないか。そんな元気が欲しい。
森下さんは定家の『明月記』に触れている。私も数年前に『明月記私抄』を読んでから堀田善衛の本を随分読んだ。それでも大著に過ぎるゴヤやモンテーニュには及んでいない。私の教養などと言うものは「広く浅く」という主義だからだ。ペンネームを選ぶとすれば浅川広ぐらいかなと思っている。
いまある英人教師のズーム教室でシェイクスピアの「ハムレット」の抜粋を読んでいる。「沙翁とは誰か」という問題が入試の国語試験に出たことを覚えている。沙翁の知識は該博でハムレットにはモンテーニュのセリフが下敷きになっていたりする。それを教えられるまではモンテーニュの方が沙翁よりも後の、より近代的な人物だと思っていた。気が触れた哀れなオフィーリアが入水して歌う唄にはサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のいでたちが浮かび上がる。哀れは一入である。
年に一回の気分転換と思って五島列島へ3泊の旅をしてきたところである。五島列島などとは日ごろまったく念頭にない島々だが長崎局のTVニュースを見るとこちらでは天気予報を始めとして日ごろおなじみの土地である。中国人が五つの島影を見て命名したという説があるがめぼしい島だけでも7つはある。東シナ海も目に入り、五島弁には朝鮮語が入っているという。遣唐使の寄港地としても重要だがもっぱら切支丹の島として知られて数多ある小さな天主堂をめぐって歩くことになるが、島々のあいだを海が、川や湖のようなたたずまいで囲んでいる風光の明媚さもそれに劣るものではない。
五島列島の一部は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として2018年(平成30年)に登録された世界文化遺産を形作っている。観光地としては本土と結ぶ海上交通の便のある南の福江島(五島町)と北の中通島(新上五島島町)の2島が盛んで、われわれが訪れたのもこの2島だった。
われわれはもっぱら「隠れキリシタン」と言って「潜伏キリシタン」はむしろ耳慣れないが学術的には区別して使われるという。厳密にはキリスト教が解禁されてからカソリックに帰依した信者を「潜伏キリシタン」、そうでなく長い弾圧の下で変質して根付いたキリスト教の信者を「隠れキリシタン」と呼ぶとのことである。江戸時代はむしろ緩やかであった五島での迫害は、その後の明治になってからの「五島崩れ」と呼ばれる悲惨な歴史となって伝わっている。数多い教会堂は明治政府が列強の抗議を受けて禁教を解いてからの建設で鉄川与助(1879~1976)が手がけたものである。
「五島崩れ」は観光向きではないらしくほとんど語られないが逆にかすかに知られている空海(遣唐使の一員であった)の足跡は誇るべき話題のようであった。ある土産物屋の片隅で『五島を通った遣唐使』という大部の本を見つけたので開いて見ると、タクラマカン砂漠を横切るシルクロードと同じように、中国へ渡る海路には北路と南路の2つがあり五島列島はその南路の主要な港であった。中国側の港は風任せ、波任せで、とにかく着けるところに着くという状況であったらしい。五島出身の桜井隆という著者の手になる力作で遣唐使時代の日本と中国の間がどのように結ばれていたかを当時の航海の問題と併せて知ることができる。後年の岩倉具視が率いた「遣欧米使節団」の先駆けで、日本はこのような波路を乗り越えて文明の光に浴したのだと知ることになる。
私の頭ではゴンドウクジラは「巨頭クジラ」ではなく「五島クジラ」からきている。ひょっとしてクジラを見られるかもという期待が無きにしもあらずであったが中通島の有川湾にはかつてクジラが雲集したという昔話を聞いただけで終ってしまった。そういえばシドニー湾もかつてはクジラで埋まっていたということは読んだことがあった。
一行は計21人、49年卒の植樹会のメンバーが銀行員時代の同僚と2人で参加していた。曲がりくねった山道を小型のバスに揺られ、高台に登って景色を見下ろし、教会では靴を脱ぐという旅は疲れて当然だろう。往路中央線の事故で2時間近く立ちづくめであり、帰宅も夜12時になったことが一番響いたかもしれない。