本稿は、新三木会々報(第59号 2022.1.25発行)掲載論文です(一部加筆)。森
一橋大学に入学して最初の頃に読んだ本の一冊は亡くなられて間もなかった故杉本栄一教授の『近代経済学の解明』であった。序文であったと思うが、先生が経済学の教授であると知った近所のご婦人から「それならお金持ちでしょう」と言われたという。ここで杉本教授の言いたかったことは、経済学は金儲けのための学問ではなく経世の学であるということであった。これを読んで私にはピンとくるものがあった。私の高校の校歌に「経世の任は重かるを、来たれ雄飛の雲呼ばん」という勇ましい一節があったのである。校歌というものはその歌詞を信じて歌うものとは限らない。私に経世の任に就こうなどという野心はもちろんなかった。
さて、ジョン・メイナード・ケインズは泣く子も黙る経済学の泰斗である。そのケインズは経済学ばかりでなく投資の成功者でもあったことがよく知られている。門下であるハロッド教授の伝記によれば、ケインズが投資のために使った時間は毎朝30分ほどベッドの上からブローカーに電話をするだけであったという。それだけで彼は自分の大学(ケンブリッジ大学、キングズ・カレッジ)だけでなく自分自身にも大きな富をもたらしたという。これだけではどうも神話じみているのでもう少し詳しく知りたいと思うのは世の常であろう。ティム・ハーフォードというファイナンシャル・タイムズのコラムニスト・エコノミストも同感と見えて昨年5月に「J. M. ケインズの投資の教訓」というコラムを書いていた。まずそれをご紹介するところから始める。
1918年3月ドイツ陸軍がパリ郊外に陣取っている最中、イギリスの若きエコノミストであったケインズはこの光の都で思いもよらないオークションが行われることを耳にした。エドガー・ドガの遺産であるフランス19世紀の名だたる画家たちの膨大な作品群が競売に出されたのである。ケインズはすぐさま正気とは思えない冒険に乗り出した。彼は大蔵大臣を説得して美術品の購入のための2万ポンドの資金を確保した。当時の2万ポンドは今ならば数百万ポンドに相当する。大戦の火ぶたが切られてから4年になろうとしている時に思いもよらない散財である。ケインズは変装したナショナル・ギャラリーのチャールズ・ホームズ卿と連れ立って駆逐艦と飛行船に守られてフランスに渡り、降り注ぐドイツ軍の砲弾下で進められたオークションの品々を片っ端から手に入れた。
ケインズは後にあの時の私の行動は疾風の中に飛び込んでいったようなものだったと回顧している。まさにその通りで彼は火中の栗を拾ったのであった。しかし彼はリスクをリオードに転換するコツ(knack)を心得ていた。1946年に死亡した時、彼は株式と債券を40万ポンド、ニュートンのMathematicaの原本、ミルトンの『失楽園』の初版本、絵画ではブラック、ピカソ、スーラー、マチス、シッカート、ドガなどの作品を所有していた。
ケインズはどのようにしてこのような成果を上げたのだろうか。もちろんコツだけでは答えにならない。ハーフォード氏はJohn Wasik とJustyn Walsh による2冊の本、David Chambers, Elroy Dimsonほかの金融経済学者の論文を調べてみた。
真っ先に明らかに見えることは、失敗から大きな教訓を学んだということだ。パリへの冒険旅行の18か月後ケインズは変動の大きい戦後の通貨市場での投機に乗り出している。当初しばらくはうまく波に乗り、数か月のうちに6,000ポンドの利益を手にした。現在の価値に直すと100万ポンドほどになる。彼は母への手紙で満足げにこう書いている。「お金って変なものですよ。ちょっとばかりの余分な知識と特殊な経験のご褒美として(どう見てもいわれのないところに)どんどん流れ込んでくるのですよ。」
ところがその数か月後にケインズは丸裸になってしまった。彼は借金をした上で何とか損を利益に変えることができた。しかし30台も末近くなって学んだ教訓は貴重だった。1929年にウオール街を襲った暴落にはケインズも不意を突かれたがその後の反応は誰よりも早かった。
ケインズの投資行動から見て取れる第二の教訓は、一貫性は必要がないということである。ケインズは美術品と通貨への衝動的な冒険から始めて、自分は景気循環を予測できるという自信の上に立って循環的な株式投資を試みたが、最後には循環予測を捨ててベンジャミン・グレアムやウオレン・バフェットが広めたような価値基準の長期投資(long-term value investing)へと移行した。
ケインズはこれらの相互に撞着する投資手法を同時並行的に用いてもいる。経済学者のエレオノラ・サンフィリッポは1937年の暴落(1929年の40%に及ぶ株式の大暴落は、一旦は回復するかに見えたが壊滅的な大暴落は1930年5月から1932年12月に起こり、その後も震動は絶えなかった)の際にケインズはキングズ・カレッジの投資に関しては”buy and hold”(持ち株を持続保有する)戦略を取り、彼自身の持ち株は下げ相場のただ中に売り放している。これは彼の資金事情がせっぱ詰まっていた為かもしれないし、値上がり巾が大きく分散度が低いので利益を実現しておきたかったのかもしれない。
いずれにしてもケインズの投資手法を見定めるのは難事である。John Wasikはケインズの基本的な投資原則のリストを作ってはいるが「群衆に同調するな」というのもあれば「流れに逆らうな」というのもあってすっきりしない。
ケインズは1936年に出版した『一般理論』の中で「これから10年後の鉄道,銅鉱山、…ロンドンのシティの建物などがもたらす収益を予測するわれわれの知識の根拠はほとんど無きに等しい」と述べている。しかし1942年になると「私は通常、目先の変動は無視して長期間の先行きを見ることにしている」と述べている。
ハーフォード氏は「ケインズの伝記を読んで賢明な投資家になれるとは思えない」という。ケインズの言動は一貫性を欠いている。自分の意見を変えることができるのは得難い徳目である。しかしまた、時には、自分の信念を貫く勇気を持つことも同様である。ハーフォード氏のコラムは次のような言葉で終っている。パリのオークションでケインズはホームズ卿に大蔵省が提供した資金のすべてを使い果たすことを説得できなかった。そこでケインズは自分用にセザンヌの静物画「リンゴ」を手に入れた。ナショナル・ギャラリーは大魚を逸したのである。この静物画は今ケンブリッジのフィッツウイリアム美術館の壁を飾っている。
私は「美人投票論」こそがケインズの投資理論としてもっとも精彩に富んだものと思うがここでは本筋に沿って先を急ぐことにする。経済評論家でもあり、実業家でもあったニコラス・ダヴェンポートは”Memoirs of a City Radical” (『シティ急進派の回想』)という回想記を書いている。彼はケインズの友人であり、ケインズが会長として19年間にわたって君臨したナショナル・ミューチュアル保険の重役としてケインズの働きぶりをまじかに見ていた。この回想記の第3章は「シティでケインズと働く」と題された興味深い文章である。
この章にはオズワルド・フォールクというケインズのもう一人の友人が登場する。彼はハロッド教授が、ケインズが毎朝30分ほどベッドの上から電話をかけたという相手であり、丸裸になったケインズに資金を提供した一人でもある。しかしケインズの頭脳の働きがいかに俊敏であったとしても毎朝30分だけでは用がすまなかったことは彼とフォールクとの関係をたどれば明らかである。フォールクはバックマスター・アンド・ムーアという証券会社のトップであり1924年には後に失敗に終る投資会社(Independent Investment Trust)をケインズと共同で設立している。アクチュアリー(保険計理士)の資格を取り、ケインズと同じ保険会社の取締役にもなった。ケインズをロシア音楽やバレーの世界に引き入れたのも彼であり、妻となるリディア・ロポコーワを紹介したのも彼である。
ダヴェンポートの語る幾つかの挿話を見ればケインズが多分に投機的な気質を持っていたことは明らかである。ケインズは売り買いともに短期の清算取引を活用している。商品取引も彼の手中にあった。ダヴェンポートは経世の学である経済学を講ずるケインズが私益を追うことに当初は戸惑いを感じたというがやがて次のように考えるようになった。「彼のギャンブルは彼自身の為ばかりでなく彼のカレッジの為であり、経済に関する彼の見解を実地に試すためのものであった。投機は彼の経済学を進歩させ経済学は彼の投機を改善させた。ケインズを偉大な経済学者たらしめたのは投機的なビジネスの本能を理解できたからである。」これはちょっと飛躍にすぎる結論のように見えるが英国の各種の取引所や株式会社、そしておそらく経済学的思考も、シティに広まったコーヒー・ハウスを根城として起こった歴史をつぶさに見ると牽強付会とばかりは言い切れない。