友を送る(2)
「友を送る」という標題の下で亡くなった友人たちの面影を偲ぶとその一つ一つの思い出に連なって浮かび上がってくる人生の断片がある。67年に及ぶ交遊に始まってそこからさらに国民学校の一年、昭和17年(1942年)までさかのぼってしまった。もちろんさらにその先もあるがとりあえず67年前から歩き直してみることにした。その手掛かりは小平の一年の時のクラス雑誌『多摩湖線』である。
多摩湖線という鉄道は実在の私鉄であったから私はちょっと変えて『多摩湖船』にすべきと思ったが賛成の勢いに押されて言い出せなかった。アルチュール・ランボーの『酔いどれ船』にあやかろうと思ったのである。第2号の編集後記には「如何にも田舎大学じみて気に入らんのです」という違った理由からの改題論が紹介されているが少しは走り続けたのだから酔っ払いよりは線路でよかったのかもしれない。
多摩湖線は国分寺を出ると次が一橋大学前駅であった。今はこの駅も廃駅となってしまったが当時の満員電車ほどではないが車両が小さいこともあって結構混む時間帯があった。「あと一人乗れないという満員電車はない」などといいながら乗り込む学生もいた。ドアは手動で開けていたが今はもちろん自動で車内も明るい。
前回、あまり紹介できなかった桑名道隆君が得意の秋田弁を駆使して「こっくりさん」という素晴らしい随筆を書いているのを見つけた。私は彼の才能を覚えていて復刊多摩湖線にも書いてくれるように頼んだがようやく一、二度書いてもらえただけのように思う。小野寺君は友人への手紙の形で「『年寄りの言い分』を読んで」を書き、梅田君は「たなばたさま」で天女の話を書いている。どうしたことだろうか、この一月に彼からもらった最後の便り(彼は早々とメールをやめている)には彼の出身地である丹後風土記逸文にある羽衣伝説についての彼の文章(21年4月30日記)が同封されていた。3人が3人とも67年前の姿であの世へ旅立ったことになるのだろうか。
唐の古詩にいう。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と。花は年年繰り返し同じように咲くというが一歩進めて観察すればそれは全く同じものではない。これに対して「歳歳年年人同じからず」とは人生の短さを述べたものという。それを人はその性分を全うしながら短い人生を終るのだと読めないだろうか。英語には“integrity”という言葉があるのでその方がよりふさわしい。
創刊号では詩を寄せた人が多く7人もいる。(はるかに薄くなった第2号では2人である。)私もその一人だが拙劣で、他人様には読まれたくないし、自分でも恥ずかしくて読めない。今見れば失われた若々しい感性が記録されているだけである。私の結婚式の時に司会を頼んだ小野寺君に司会の半ばでいきなり読み上げられて困惑した。幸いなことによく聞こえなかったと見えて誰にも何の印象も残さなかった。
誰でも書けるようにアンケートの欄がある。その「尊敬する人物」に私は「マオ・ツー・トン」と書いていた。67年前のことであるから新中国は出来立てのほやほや、毛沢東の失政はそれから本格化するのだから許してもらえるだろう。しかしこのことはこの67年間のほとんど微少と言ってよいわれわれ個人の立ち位置の変化とわれわれを囲む世界の変化の激しさを対照的に示していると言えないだろうか。しかも世の変化も年々の花々のようにただ循環的に変化しているだけらしいことは現下のウクライナの戦闘を第二次世界大戦時のヨーロッパ戦線と比較して感じるのである(注)。
一橋寮のペア制度は後輩とのつながりの機縁ともなった。先輩のことに触れたのでここでは健在のはずの後輩たちのことにも言及しておきたい。二人ずつ2回、計4人との交流があったから部屋替えは毎年一度行われていたことがわかる。最初の2人とはさる短大の4人の女子学生とグループ交際をした時期があった。寮では「疲れた、うまくいかない」などという時に使う「しょうもう(消耗)」という流行語があったが彼女たちもその言葉を使うまでになった。その女子の1人が何かで仲間から無視されたという理由でグループを離れるという事件が起こった。それを思いとどまってもらうために私がグループを代表して神田の三省堂近くの喫茶店まで出かけたことがあったが彼女の心は翻らなかった。
この4人の女性たちとも卒業後は音信が途絶えた。ただそのうちの1人は卒業後間もなくかなり人気のある漫画家になった。トシコ・ムトーと言っても覚えている人は少ないだろうが創刊間もない女性週刊誌『女性自身』に「小さなコイビト」という4コマ漫画を連載して人気を得ていた。彼女が後に書いた自伝の説明とは少し違うが、きっかけとなったのは彼女が趣味で描いた絵が勤務先の社長の目に止まりその社長の紹介があったからだということだった。社長はチャーチル会という有名な素人画家グループの会員だった。
『人生は片道切符』という彼女の自伝によれば、結婚して一児をもうけた後に婚家を離れ、子供とも引き離されて、単身アメリカへ渡り英語を学ぶために化粧品の訪問販売の仕事から人生を立て直して辛酸をなめたことが書いてあった。しかしその後、彼女の名を目にしたのは東京ディズニーランドが建設された時である。彼女はアメリカ側のスタッフの一員のデザイナーとして来日したのだった。「おっとりした」という一語がすべてを現すような、いつも夢見心地のような女性だったので「片道切符」を手にしてからの成長ぶりは驚異の一言に尽きた。
このグループの後輩のペア2人は彼らの就職が決まった時に私の会社の寮へ報告がてら訪ねて来てくれた。幡ヶ谷駅の近くにあった鮒忠という飲み屋のチェーン店でささやかながら前途を祝福することができた。
同室のメンバーであった戸田君も一緒の8人で奥日光の金精峠越えの一泊ハイキングに出かけたことがあった。今のようにトンネルのできる前のことで峠の頂上でみんなが知っている寮歌などを歌って気勢を上げた。そんなことをしたせいというよりは地理、地形に無知なせいで山を降るまでに日はとっぷり暮れて軽装の一同は大いに難儀をして暗闇の中を歩かねばならなかった。
私が「多摩湖線」の創刊号に載せた詩というのは「秋の湖上で」と題するものでその翌日、菅沼でボートに乗った時のものである。私と同乗したのは後に三省堂でお別れした女性であった。この私の往時の作品は完成度が低い、つまり欠点の多いもので幸いにして人目に触れることはなさそうである。ただ今の私には書けないものでもある。救えるものなら救いたいと思うので推敲の手を加えてどこかにしまっておくつもりでいる。
このほかにも私には思い出される外国の友人がおり「友を送る」を綴りながら幾人かを脳裏に思い浮かべていた。その最たる人は私には恩義のあるヴィッカーズ社のレイフ・ヴィッカーズ(Ralf Vickers)社長である。日本の新聞には”Obituary”に相当する追悼録の習慣がない。彼の死を知った時私は日経新聞の「交友録」のコラムを借りて形ばかりの追悼の意を表わしたのだった。
〔注〕前々回4月26日の拙稿に以下のような感想を述べてあります。
「本棚を整理してイギリスの歴史家(AJP Taylor)の手になる『第二次世界大戦』を見つけて読むと目下の戦争に符丁の会うことが多いのに驚きます。勝てば官軍でソ連はファシズムに打ち勝った「民主々義勢力」に入っていますがソ連はドイツが独ソ不可侵条約を破って自国に攻め入るまで(1941年6月22日)友好国であるドイツに武器、食料、石油をふんだんに供給しています。イギリス軍はバクーの製油所を空爆することも考えていました。ドイツに攻め込まれるとスターリンは英米に対して西部に第二戦線を開くよう懇願し続けますがノルマンディ上陸作戦(1944年6月6日)までアメリカはもっぱら武器や食糧の供給(←武器貸与法)に徹しています。その間ドイツ陸軍の攻撃をまともに受けて連合軍最大の犠牲を払い、最後に反転してドイツに侵攻、各地の独軍を降伏させたのはソ連軍でした。ルーズベルトはソ連に甘かったと非難されますがポツダム会談のころ現地に連戦錬磨の大軍隊を擁していたのはソ連だったから譲歩しなければならない事情もあった。調べればきりがないけれど戦争ではいつになっても同じようなことがくり返されている。日本はアメリカの経済制裁(sanction)に耐え切れずパール・ハーバーへと空母艦隊を出撃させたのであった。」