00040 2025.7.1
日本憲法論の里帰り
(押し付け憲法論の限界)
仁昌寺正一著『平和憲法をつくった男 鈴木義男』を読んで私は昨年4月14日に「鈴木義男」を掲載させて戴いた。同人を私は郷里の選挙区の社会党代議士として知っていたがやがて治安維持法違反容疑で検束された大塚金之助教授の弁護人であったことも知った。そして次には「平和憲法をつくった男」として紹介された彼の伝記を読んだのであった。この辺のいきさつは上記の「鈴木義男」で詳しく説明してあります。
それでは鈴木義男は平和憲法とどのようにかかわっていたのだろうか。いろいろに歪められている憲法論議の問題の一つは1946年6月から8月までの2カ月にわたる衆議院本会議(小委員会)での草案改訂作業の議事録が1995年までの長期にわたって公開されなかったことである。日本国憲法をめぐっては「押し付け憲法論」と「自主憲法論」が対立してかまびすしく、いずれも我田引水に過ぎるのはそのせいもあると思われる。鈴木義男が「平和憲法をつくった男」であると断言するのもそのたぐいと言わざるを得ない。ただ憲法成立史では無名のままにされてきた鈴木氏にこのような勲章を付与するのは「鈴木義男伝」としただけでは誰も手を出さないであろう読書界に一石を投ずるための苦肉の策と見るべきであろう。
私は上記の小論で、「新憲法は占領軍が発意し、骨組みを提示したことを否定することは難しいと思っています。しかし日本の議会や法曹人がそれを俎板の上に載せて吟味修正に務めたことを否定することもこれまた難しいことです。鈴木義男がそこで果たした大きな役割がここに描かれているように思われます」と書いた。だが現実には、日本国憲法がどのようにして成立したか、より端的には「誰がつくったか」について、回顧録や日記が世に出るたびに蒸し返して新聞が報道する有様です。
私は僅か103条の条文に過ぎない憲法などは空気のようなものに過ぎないと感じているような好い加減な人間でしたが仁昌寺氏のこの著書をきっかけにして少し勉強をして「一橋33ネット」に「新憲法はどのようにして生まれたか」を昨年8月から9月にかけて4回にわたって掲載させてもらいました。
冒頭に述べたように鈴木義男は私の郷里の先輩であり郷里の生んだ偉人、そして今や私の数少ない尊敬する人物の一人です。そのような人物を郷里白河の人間はどれだけ知っているだろうか。私は、日ごろはまったく無縁の白河高校同窓会の東京支部の役員にメールで仁昌寺氏の著書の推奨を依頼し、合わせて仁昌寺氏を招待して母校の後輩に講演をしてもらうように依頼しました。その結果は、取りあえず東京支部で講演をしてもらえないかという依頼になり、去る2月3日に新橋の会場で同窓生25名ばかりの会合で一席弁じるということになったのでした。
米寿88歳の白頭翁のスピーカーを筆頭にして71歳の若手まで女性2人を含むすべて初対面、計25人の集まりでしたが皆「先生」の話を熱心に聴いてくれたことは幸いでした。演題を下記のようにして薩長専制政権に「白河以北一山百文」と見下された歴史にも触れましたが話の筋道は日本国憲法の成立過程を見失わないようにしました。諸兄はご存知かどうか、太宰治に『津軽』という作品があり太宰はそこに『はだか随筆』で文名をとどろかせた佐藤弘(人)一橋大教授(われわれの頃の前期部長)の奥州論を長々と引用しています。「かしこくも明治大帝の大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居留地に教化の御光を与え云々」というクラシックな文章も紹介しました。
事前に簡単な自己紹介に加えて講話の趣旨を以下のように伝えておきました。
演題 「鈴木義男と白河以北」
談話の趣旨は郷里の偉人、鈴木義男の業績を広く知って戴くこと、白河市周辺の歴史を再認識し、合わせて、とかく引っ込み思案の白河以北の東北人に積極性を期待することにあります。
鈴木義男については鈴木が学んだ東北学院普通科(中等部)と同じ学園(東北学院大学)の後輩である仁昌寺正一氏の著書『平和憲法を作った男 鈴木義男』(2023年1月発行)があります。「平和憲法を作った男」という表題は鈴木の広範な業績の一部を代表させたものにすぎず、学者、弁護士、政治家としての鈴木の生涯の業績にはこれらのすべての分野において目覚ましいものがあります。
鈴木義男についてはほかには鈴木義男伝記刊行会による私家版の『鈴木義男』(1964年12月刊行)1冊があるだけで、それも伝記ではなく鈴木の為人(人となり)を知る各界多数の著名人の寄稿よりなるものです。仁昌寺氏の著書も鈴木義男の死後60年にして初めて出されたものです。残念なことに、鈴木義男の事績はこのように世に知られるところが真に少ないのです。
白高は2年前に創立100周年を祝いました。私は創立30周年の時に2年生でした。以来、今日まで70年の年月を経ております。その時のささやかな祝典の一つに白河中学第二代校長、工藤正勝先生が来賓として祝辞を述べられました。校歌「西秀麗の那須の峰」の作詞者です。遠路はるばる熊本から来校されて、6年に及んだ若き日の情熱を思いだされて文字通り「声涙共に下る」講演を行われました。私にとっても忘れ難い経験でした。このようなことを思い出す人、知っている人はもうほとんどいないでしょう。私はこのような古い、昔のことを思い出すのですが、その後の長い70年間の出来事は何も知らないのと同然です。この懇親の機会にご参会の諸兄からもお話を伺えれば何よりと思っております。
憲法論について配布した資料は添付形式で載せましたが長い本文を省略したい方のために要旨を簡略に記しておきます。
押し付け憲法vs.自主憲法
日本国憲法の生成過程は一言で言えば、ポツダム宣言にもとづいた占領統治のために、権能をはく奪した形で天皇を象徴とし、軍備を放棄させ、できるだけ日本国民の自主憲法という体裁を取った形で改憲を行うのがGHQの方針でした。最初に日本側が作成した改正草案は改正というにはほど遠いものでGHQは自らの草案を作って日本側に示す必要を感じて行動に移ったのでした。そのGHQの草案は日本側にとっては革新的に過ぎ、それに驚いた日本側はあらゆる理論的な抵抗を試みるのですが被占領国の力の限界は歴然としており、抵抗の限度は限られていました。今見ると日本側の考えは明治帝国憲法とほとんど変わらないものであったことは明らかです。GHQが改憲を急いだのは、終戦の「聖断」で統治威力を示した天皇の権威を彼らの占領支配に利用するためでした。ソ連やオーストラリアはGHQの上部機関である「極東委員会」を通じて天皇を戦犯として訴追する行動を起す前にそれを阻止する必要があった為でした。天皇の訴追回避は日本側の思惑と合致することでしたからその意味でGHQの改正案は日本側に受け入れる素地はあったことになります。
条文の細部についてはその後両サイドで議論を尽くしましたがその限りではGHQ側が優勢で「押し付け憲法」の印象が強いと言わざるを得ません。議論の実質的な開始は1946年(昭和21年)2月13日。その後の交渉をへて6月25日に新憲法案が衆議院本会議に上程、8月25日に衆議院を通過となっています。この2か月間の衆議院の改憲委員会の議事録は戦後50年にあたる1995年まで公開されず、それまでの憲法研究者の盲点となっていたため改憲過程の全貌が広く知られることなく今日まで来ています。
極東委員会は、憲法施行後1年以後、2年未満の期限内に新憲法に関する事情が再検討されねばならないという政策決定を行い、GHQを通じて日本政府にも改憲の可能性を複数回告知しています。これに対して日本側は明確な反応を示すことがなく、最終的には1949年4月28日当時の吉田首相が衆議院外交委員会で「憲法改正の意思は今のところ持っておりません」と答弁して憲法改正問題は葬り去られたのでした。「押し付け憲法論」はここでその主張の合法性を失ったと言うことができます。
(注)実際の配布資料はここに添付したものの黒字部分で青字の箇所はその理解を助けるために東京支部のホームページ用に加えたものです。
大島昌二(2024年2月10日)
添付書類
「鈴木義男と白河以北」(資料) 東京登龍会
24年2月3日
新憲法の成立・公布まで
自由民権運動研究に始まる鈴木文蔵の憲法案があった。鈴木文蔵が主宰して作成した憲法研究会案は新憲法の主要な構成要素となった。
成人男子の普通選挙権は1925年に実現したがこれと並ぶ女性の国政参加が認められるのは1945年12月17日の改正衆議院選挙法公布による。
前史 近衛文麿の自死(1945年12月16日前夜)に至るまで。マ元帥は10月4日に近衛に直接指示を与えた。憲法問題調査委員会と並立。昭和天皇は近衛の新憲法案に期待を寄せていた。
山川菊栄:文麿指揮する内閣が、戦時中に「言論、集会、結社の自由をうばいあらゆる民主主義的傾向に弾圧を加え」たこと、「かつて自分の手で屠り去った人民の自由が、自分の手で起草する改正憲法によって、復活することに矛盾を感じないほど、自由の意義に無関心であり、魂ある人間としての人民の存在に無感覚なのであった」。文麿自身には戦争を避けようとした“個人の意思”があった(ぼくの志は知る人ぞ知る。 … その時はじめて神の法廷において、正義の判断が下されやう)。この現実離れのした貴族が政権の座に飾られていたのだ。
時系列でみる新憲法の成立までの日米交渉
1945年
ポツダム会談(7.17 ~8.2)
ポツダム宣言(7.26)の公表
ポツダム宣言受諾の申入れ 8月14日
ポツダム宣言をめぐる支配層内の対立(軍部vs.重臣層)は、最終的には、二度にわたる(注)昭和天皇の「聖断」によって、受諾に決着をみた。さらにポツダム宣言受諾を告げる天皇のラジオ放送は、各地での帝国軍隊の降伏と秩序の回復に大きな力を発揮した。…この天皇の「聖断」の威力がマッカーサーに大きな印象を与えた。彼はアイゼンハワー陸軍参謀総長に宛て天皇の威力を「百万人の軍隊と数十万人の行政官に匹敵する」と伝えている。このような天皇の威力に驚いたのは占領軍だけではなく、何よりも日本の支配層やそのイデオローグたち自身が、改めて天皇の持つ力に瞠目したのである。天皇の威力は、ただ天皇がたんに存在していたことではなく「統治権を総攬」していたからこそ可能であった。とりわけ軍の統帥については、「統帥権の独立」により、国務大臣の輔弼がはずされ、天皇の直隷下に置かれていた下では、天皇は軍に対して降伏を命じ得る唯一の機関であった。だからこそ軍部は「聖断」が下されてしまうと、しぶしぶポツダム宣言を認めざるを得なかったのである。(渡辺治、p67-69)
(注) 最高戦争指導会議で、 8月9日は留保条件をめぐって3対3で対立後、8月13日は国体護持の保留条件にたいするバーンズ国務長官の回答をめぐって、いずれも3対3に票が割れた。
〇マッカーサー、幣原首相へ憲法改正を示唆 (10月11日)
「ポツダム宣言の実現にあたりては」として憲法の「自由主義化(を包含すべし)」を要請(日本側議事録)。この間、近衛案を始め各党派などの私案が作成される。
〇憲法問題調査委員会(松本丞治国務相)(10月25日)GHQの要請によって発足。
〇極東委員会(FEC)の発足(12月27日GHQの上部機構。FEAC(顧問)の権限を政策決定に拡大。
モスクワ宣言:改憲にかかわる指令は同委員会との協議を必要とし、その同意を得なければならない。
民生局長コートニー・ホイットニーは、FECが政策決定を行わない限り、マ元帥は、改憲に関しても、日本統治に関する他の重要事項と同様の権限を有すると解釈した。なぜならば連合軍の最高司令官であるマ元帥は連合国によって「降伏条件(ポツダム宣言)を実現する上で必要と考える政策を実施する権限を与えられており」改憲もそれに含まれるからであるとした。
1946年
〇昭和天皇詔書(「人間宣言」と呼ばれる(1月1日)
マ元帥は歓迎 対ソ、対豪の思惑?
〇国務省・陸海軍連絡委員会(SWANCC)指令228号 1月11日
国民の自由意思を尊重した憲法の改正を求め、現行の天皇主権は受け入れ難いとするなどを主体とする。最高司令官が日本政府に対してこれらの改革を命令するのは最後の手段としてのみ認められる。
1946年 日米交渉 日本側草案提示の後に
2月1日(金)、改憲草案の毎日新聞のスクープ
政府の改正草案が公開される。当初はスクープ説がもっぱらだったが後に意図的なリーク説が浮上した。政府案の乙案(宮沢案)で改正の要素の少ない松本案ではないことが判明している。スクープは政治部記者西山柳造によるもので出所は「枢密院筋らしい」と推測されるにとどまっている。民生局のサイラス・ピークは松本に近い政治顧問部の友人から「今日松本が(憲法草案の)文書をリークする」と告げられたとリークを示唆する。吉田、松本が代表する日本側は世論の反応を見たかったのではないかと思われる。
2月2日(土)改憲原則についてのマッカーサー・ホイットニー会談。
2月3日(日)改憲作業の命令。ケーディスは作業チームの選定を行う。
翌2月4日(月)25名の作業メンバーに草案の作成を命じ、マ元帥は日本政府に対し「口頭による、さもなければ実力による力を行使する」権限を与えたと伝えた。この日から13日に向けて草案作成のため「密室の9日間」と呼ばれる大車輪の作業が開始された。
1946年2月13日 外相官邸会談の衝撃
「あなた方が先日提出した改憲案は、自由と民主主義を主旨とする文書として、最高司令官が決して受け入れられるものではない。」(“The draft constitutional revision which you submitted to us the other day is wholly unacceptable to the Supreme Commander as a document of freedom and democracy.”)
正に晴天の霹靂とはこのこと。GHQ民生局長ホイットニーは、机上に用意された日本側草案に目もくれずに、こう述べた上で、最高司令官の考える「現在日本の置かれた状況が求める憲法の原則を体現する草案」を日本側に手渡し、その場で検討することを求めた。日本側を驚嘆させたのは「天皇の地位」と「軍備の放棄」であった。(これに「封建制度の廃止」を含めてマッか―サーの三大原則という。)この日から日米双方は交渉の内容を極秘とすることに同意した。
ホイットニー談の日本側の受け止め方を松本メモによってみると以下のようである。GHQ案は米本国およびFECのいずれの意見にもかなったものである。GHQはこれを強制するものではないが、ここに示された基本的な原則を盛り込んだ改正案を速やかに提示して欲しい。日本政府がこのような意図に沿った憲法改正を行うのでなければ天皇の身の安全は保障のかぎりではない。白洲次郎は、日本側に独自案を作成する余地があるとは受け取れなかったという。いずれにせよホイットニーは天皇の訴追回避と引き換えにマッカーサー三原則の受け入れを迫ったことになる。
日本国憲法の成り立ち
日本国憲法 ←マッカーサー草案←合衆国憲法1788←アメリカ独立宣言1776
↑ ↑ ↑
⓵ ② ③
⓵憲法研究会案1945 ②自由民権運動憲法草案 ③フランス人権宣言1789/1793
⓵,②はまたそれぞれ③フランス人権宣言の影響を受けている。
「アメリカ独立宣言・フランス人権宣言から日本国憲法へ」辻村みよ子著15頁の図より
2月15日 白洲次郎による返信(ジープウエイ・レターと呼ばれる)
2月16日 ホイットニーの返書
2月18日 GHQ、2月13日案の回答期限を提示
2月19日 初めて閣議でこれまでの経緯を報告
2月21日 幣原・マッカーサー会談(閣議紛糾で生じた疑義の闡明)
いわゆるジープウエイ・レター以後の展開は4幕の舞台劇となって展開する。第1幕は白洲の読み通り、ホイットニーは日本の自主改憲はみとめられないとする返書である。言外に「外部」(FEC)によるより厳しい憲法の提示を匂わせる。第2幕は松本の抵抗。「欧米のバラを日本に植えても香気を放たない」。激怒したホイットニーは48時間以内の回答を要求。第3幕で幣原は腹をくくってこれまでの交渉のいきさつを閣議に報告、回答期限の延長を求めた上でマッカーサーとの会談にこぎつける。マッカーサーから「天皇の地位と戦争の放棄」を受け入れればその他は交渉が可能との回答を取り付ける。
2月22日 閣議「2月13日案」をもとに日本案作成を決定
2月22日 幣原、参内して天皇の裁可を得る
2月22日の閣議了承以後の推移
2月25/26日の閣議 22日の会談の結果が報告され「2月13日案」の翻案作成を決定
2月27日 閣議決定に基づき草案作成を開始
3月2日 「3月2日案」が完成
3月4/5日 上記案をめぐりGHQとの徹夜の「30時間ミーティング」後「3月5日案」完成
幣原首相、勅語案を持って皇居に参内
3月6日 「憲法改正案要綱を公表(5日案を微調整したもの)
天皇の詔勅を発表
3月20日 極東委員会から米国務省に抗議の手紙
4月17日 「憲法改正草案」を公表
46年4月10日に新選挙法によって衆議院議員の選挙が行われ、17日には「憲法改正草案」が公表された。新憲法の成立、公布、施行までの日程を下に時系列で示す。
5月13日 極東委員会、新憲法の採択に関する三原則を発表
6月20日 総選挙後初の議会開催
6月21日 マッカーサー声明
6月25日 憲法改正草案が衆議院本会議に上程
枢密院による11回の審議を経た後、内閣総理大臣吉田茂が改正案の大要を説明し、その後各党から代表質問が行われた。鈴木義男(社会党司法部長兼憲法主査委員)は6月26日に総括質問を行い、主権の所在、戦争の放棄、国民の権利義務など複数の項目に関する社会党の立場を主張した。
6月28日 帝国憲法改正案委員会設置 衆議院議員72名からなる特別委員会
7月22日 同上小委員会(芦田小委員会)の設置
芦田均を委員長とする14名の委員内訳は日本自由党(芦田以下5名)、日本進歩党3名、日本社会党(森戸辰男、鈴木義男、西尾末広の3名)、共同民主党、新政会、無所属倶楽部(各1名)である。
憲法小委員会の議事録は秘密扱いであったが戦後50年に当たる1995年に初めて公開された。日本国憲法成立の最終段階はこの時を待ってようやく明らかにされた。それによれば日本社会党は憲法第9条の前に1条を設けて「日本国は平和を愛好し国際信義を重んずることを国是とする」旨の規定を挿入することを提案した。それによって第9条に、GHQ草案にも政府草案にもなかった「平和」の文字が定着した。
8月24日 憲法草案 衆議院を通過
10月6日 憲法草案 貴族院を通過
11月3日 新憲法の公布
1947年5月3日 新憲法の施行
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新憲法の施行以降
施行後の改正の可能性:1946年10月17日、極東委員会は憲法が施行されてから1年以後、2年未満の期限内に新憲法に関する事情が再検討されねばならないという政策決定を行った。この決定は翌年1月3日にマッカーサー書簡で吉田首相にも伝えられた。さらに3月末には新聞によって国内外に公表され、1948年には日本政府に重ねて示唆されたが日本側としては何らの措置もとらなかった。
憲法施行後1年を経た1948年6月20日には当時の芦田内閣から衆議院議長に「憲法改正の要否の審査」を依頼したがその実施は見送られた。施行2年の期限が近付いた1949年には東大憲法研究会や公法研究会などから「民主主義原理を深化させる方向」での改正意見が出されたが保守政権の内部では改正を求める声はほとんどなかった。1949年4月28日吉田首相は衆議院外交委員会で「憲法改正の意思は今のところ持っておりません」と答弁して憲法改正問題を葬り去った。「押し付け憲法論」はここで合法性を失っている。
1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印
1952年4月28日 同条約発効(日本独立)
憲法とは何か?
長谷川正安 『日本の憲法』(岩波新書、1994年)は広辞苑第5版の以下の定義を紹介している。「国家の組織および作用を規定する基本法。すなわち、統治権の主体・客体および機関・作用の大原則を規定するもので、他の法律命令で変更することを許さない国家最高の基本的法規。」
大辞林第3版の定義は以下の通りである。「 国家の基本的事項を定め、他の法令や命令で変更することのできない、国家最高の法規範。」
参考までにOxford Dictionary of EnglishのConstitutionの定義を示しておく: A body of fundamental principles or established precedents according to which a state or other organization is acknowledged to be governed.
GHQ案(渡辺治による)
第一条 「天皇は日本国の象徴にして、その地位は主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何ものに基づくものでもない。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と同意を必要とし、内閣がその責任を負う。天皇は、この憲法の定める国の職務のみを行うものとする。天皇は政治に関する権限を持たないものとする。天皇は、政治に関する権限を手中に収めてはならない。また、このような権限を天皇に与えてはならない。天皇はその職務を法律の定めるところに従って委任することができる。
〈参考図書〉
仁昌寺正一『平和憲法をつくった男 鈴木義男』筑摩選書(2023年1月)
鈴木義男伝記刊行会『鈴木義男』(1964年12月)
古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書(2015年4月)
古関彰一『日本国憲法の誕生』増補改訂版岩波現代新書(2017年4月)
青木高夫『日本国憲法はどう生まれたか? 原典から読み解く 日米交渉の舞台裏』ディスカヴァー携書(2013年7月)
金子勝 『日本国憲法と鈴木安蔵』八朔社(2022年8月)
渡辺治 『戦後政治史の中の天皇制』青木書店(1999年1月)
辻村みよ子『比較のなかの改憲論―日本国憲法の位置』岩波新書(2014年1月)