公明新聞書評欄2023.4.10
平和憲法をつくった男 鈴木義男 仁昌寺正一著
誕生に関わった先人の奮闘ぶり
本書は鈴木義男の生涯を描いた評伝である。といっても鈴木義男自身、をさらには鈴木と平和憲法との関係を耳にしたこともなかったという読者が多いのではなかろうか。
鈴木は福島県白河の出身で、東北帝国大学の行政法学者になるが、軍事教練に反対したことで、大学を追われ東京に出て弁護士として活躍した。
敗戦と共に「明朗な民主国」の実現を目指して衆議院議員になる。 折しも日本国憲法が作られることになるが、憲法はGHQが起草し、それをもとに政府が作成した憲法の政府案が国会に上程された。 鈴木は法律家として数々の政府案の修正に成功している。
本書は鈴木の誕生(1894年)から死去(1963年)に至るまで、膨大な書物を渉猟して書き上げた質の高い評伝となっている。中でも鈴木の活躍した衆議院 憲法改正案特別委員会の小委員会は、 懇談形式で条文ごとに議論をしたので政府の憲法案の条文がどう修正されたのかを知る上で極めて重要な意味をもっている。
ところが小委員会は秘密会で、議事録を作成するが「当分の間」公開しないことになっていたため、公開されたのは、なんと戦後50年を目前にした 1995年のことであった。
つまり鈴木の活躍した時期は、議事録が非公開で誰も知ることのできない時期であった。加えて憲法制定過程が世間から注目されたのは、1950年代だったから、鈴木の活躍は世間から知らないままになった。
鈴木の活躍は何と言っても憲法九条一項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という部分を 追加したことである。憲法九条で平和が書かれていることで「平和憲法」と言われているが、そもそもはGHQ案にも、政府案にも「平和」は書かれていなかった。
つぎに憲法二五条一項である。生存権規定と言われるが、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれている。 この条文もGHQ案にも、政府案にもなかった。鈴木は1920年代にドイツに留学し、世界で最初の「生存権」を 生み出したワイマール憲法を学んでいて、日本国憲法を作る際にこれを活かしたのだった。
さらに、鈴木を自ら弁護士を経験したことから、冤罪を受けた際の刑事補償(40条)、公務員の不法行為に対する国家賠償(17条)なども提案している。 GHQは、憲法を「押しつけた」とよく言われるが、それは天皇条項など明治憲法が民主主義と矛盾していた場合であって、鈴木が提案したような民主的な条項は自由に受け入れていた。
本書は、憲法が曲がり角にある中で、未だ多くの人に知られていない、憲法の誕生と、それに関わった先人の健闘ぶりを教えてくれる。
にしょうじ・しょういち
1950年、 岩手県生まれ。 東北学院大学名誉教授。専門は東北経済論、地域経済史。『大正デモクラシーと東北学院―杉山元治郎と鈴木義男―』 (東北学院)で「鈴木義男」の項を執筆。
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上記テキストはワード音声入力で作成しました。森 正之