P大島昌二:憲法改正と昭和天皇(拝謁記3)2019.10.15

諸兄

「拝謁記をめぐって」の第3部です。内容は「拝謁記」を離れて豊下楢彦氏の著書の冒頭部分(憲法改正の経緯)の紹介です。

今では既成事実として当たり前のように受け取られていますが、天皇制が維持されるかどうかは想像以上に切迫した問題だったことがわかります。

末尾の「押しつけ憲法か自主憲法か」は未だに論争が繰り返されているもので興味あるテーマかと思います。

大島昌二

憲法改正と昭和天皇(拝謁記3)

NHKはその番組で戦争への悔恨に次いで、昭和天皇の新時代の日本への思いと並べて「昭和天皇が戦争の時代を踏まえて象徴としてどのような一歩を踏み出そうとしたのか」という問いを発している。豊下楢彦教授の回答は驚くべきものである。

戦後日本が直面した最初の課題は新憲法の制定である。1947年5月3日に施行された現行憲法はマッカーサーの指示の下で前年の46年2月4日からの「密室の九日間」を経てGHQによって生み出されたというのが歴史的経緯である。この「密室の九日間」に至るまでには憲法制定をめぐる複雑な政治的要因が絡んでいる。それは第一に、1945年末にモスクワで行われた英米ソの三国外相会談で日本占領の最高政策決定機関として「極東委員会」の設置が決議されたことである。この委員会の権限には「憲政機構の根本的変更」、つまり憲法改正問題もふくまれていた。同委員会は連合諸国11か国で構成され、昭和天皇の戦争責任を問う、あるいは天皇制の存続に否定的な国々が含まれていた。

極東委員会設置の決定をうけて、天皇制の維持を至上命題にしていたマッカーサーも「憲法改正問題は私の手を離れてしまった」と慨嘆するところまで追い詰められた。しかしそのマッカーサーを救ったのが、極東委員会の発足以前であればマッカーサーは最高司令官として「いかなる措置もとりうる」とするホイットニー民政局長の入れ知恵であった。ここから極東委員会が正式に発足する2月26日に向けて、日本政府が自らの手で憲法改正案をまとめ上げたかのような体裁を作り上げることが必須の課題となった。「密室の九日間」にはこのような背景があった。

他方では、日本側においても独自に早々に憲法改正への動きを見せていた。日本の降伏文書調印(1945年9月2日)後間もない1945年9月21日の『実録』はすでに憲法改正に向けての準備作業を天皇が直接指示したことを記録している。(「内大臣木戸幸一をお召しになり、1時間余にわたり謁を賜う。内大臣は拝謁後、内大臣秘書官長松平康昌に憲法改正問題につき調査を依頼する。」)天皇の命によってこの作業に取り組んだのが東久邇宮内閣の国務相(副総理格)であった近衛文麿である。

マッカーサーもこの時点では近衛に好意的であり、10月4日に近衛と会見した時は憲法改正作業を近衛が主導して進めるように促した。近衛はその場に同席したGHQ政治顧問のジョージ・アチソンをその4日後に訪ねて憲法改正に関するアチソンの「非公式見解」を聴取した。その後、ニューヨーク・タイムズの記事を契機として近衛批判が高まる最中にマッカーサーが手の平を返して近衛を見放した(11月1日、GHQの声明)いきさつは以前に述べてある(「小林忍日記『昨日のこと』と『開戦神話』など」)。

マッカーサー司令部のこのような発表にも関わらず『実録』の11月19日の項に天皇は「内大臣府御用掛近衛文麿による憲法改正調査会の奉答の有無につき、内大臣木戸幸一に確認するようご下命になる」ばかりでなく「その後も、近衛の参内につきしばしば木下(侍従次長)にご下問あり」と記してある。『側近日誌』の記載は以下のようになっている。「近衛の奉答は20日頃との事なりしが如何になりしや、木戸に尋ねよ。(19日)」、「聖上は、近衛公の奉答をお待ち遊ばさるること切なる様拝せらる。しばしば御下問あれども昨夜迄は何等確報を得ず。(20日)」

このようにして3日後の11月22日に奉答された近衛の憲法改正要綱は天皇の統治権が「万民ノ翼賛ニ依ル」こと、軍部が内閣と国会という「国民の意思」に従属すること、国民の自由は法に優先することなどを含むアチソンの見解が色濃く反映されていた。(この「要綱」の全文は同日の『実録』に記載されている。)近衛の作成した「要綱」は11月26日に幣原首相に下げ渡され「首相の考える如くしかるべく取り計らうよう」命じられた。しかし、近衛の自死(巣鴨拘置所への出頭期限12月16日の前夜)によってこの「要綱」は宙に浮くことになった。

憲法改正があたかも「天皇の事業」であるかのような事態の推移に対してはこれ以前にも内外から批判が高まっていた。幣原内閣や学界からは立憲主義の原則からして、改正権限は内閣に与えられるべきものであるという主張がなされ、幣原内閣は10月13日の閣議の決定により、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が10月25日に発足した。またこのような改正権限の問題とは別に内外の世論、GHQの周辺からも近衛批判が噴出していた。ニューヨーク・タイムズの「近衛のように侵略戦争中に何度も首相を務めた」戦争犯罪人に等しい人物が憲法改正に携わるとは何事かという痛烈な批判記事(10月26日)は国内の新聞にも転載されて論議を呼んでいた。

年を越えた1946年1月7日、松本の「憲法改正私案」が昭和天皇に奏上されたがそれは「天皇が統治権を総攬する」という大原則を含むなど明治憲法を基本とするものでしかなかった。「私案」はさらに煮詰められて「試案」となったが2月1日の毎日新聞にその全文が掲載された。この毎日のスクープは実はGHQのリークによるものではないかという観測があるが、GHQはあたかもこの「スクープを待っていたかのように、直ちに自らの手で憲法改正案の草案に動き出した。」これが「密室の九日間」の始まりである。

豊下氏は古関彰一の研究(『日本国憲法の誕生』)にもとづいて以下のように述べる。「近衛側がアチソンから引き出した改憲構想には、後にGHQが作成したGHQ案に通底する条文がいくつかあったのである。」したがって松本らが近衛案に反発せずにそれを参酌して草案を起草しておれば「GHQの憲法構想に近づく可能性はあった」。その可能性が閉ざされたのは「松本を中心とする憲法問題調査会のメンバーがポツダム宣言を受諾したことの意味、敗戦の意味、民主化の意味を全く理解していなかった」からに他ならない。

松本の「憲法改正要綱」は2月8日にGHQに提出されたが2月13日になってホイットニー民政局長は吉田外相や松本委員長などに対し「日本案は全然受諾し難きに付自分の方にて草案を作成せり」と述べて、GHQが作成した憲法草案を提示した。ホイットニーはさらに「最高司令官は天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの強い圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうという決意を固く保持しています」「この新しい憲法の諸規定がうけいれられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています」とGHQ案の核心を説明した(古関前掲書)。

このホイットニーの言葉と表裏一体となる次のような事実がある。マッカーサーは天皇制の維持と戦争放棄をセットにして新憲法をまとめあげていくという基本線に立った上で、1月25日に昭和天皇の不起訴に重大な影響を及ぼす書簡をワシントンのアイゼンハワー参謀総長あてに送って天皇の訴追の断念を迫っていた。それは昭和天皇の戦争犯罪行為の有無についての情報収集を依頼する前年11月29日の指示に対する返書で、そこには「過去10年間の日本の政治決定と昭和天皇を結びつける具体的で重要な証拠は何一つ発見されていないこと、仮に天皇を訴追すれば日本人の間に激しい動揺を引き起こし、最小限100万もの軍隊を無期限に駐屯させねばならない事態も想定される」という訴追の動きにたいする重大な警告があった(古関前掲書)。

「幣原内閣は2月22日の閣議でGHQ案を基に日本政府案を作成する方向に進むことになり、幣原首相は直ちに以上の経緯を昭和天皇に奏上、GHQ案全文の日本語訳が配布された同26日にいたって、ようやく正式の閣議決定がなされた。」『実録』には幣原が2月25日に昭和天皇に拝謁し、前日にマッカーサーと会見したこと、そこにおいて「天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき談話した旨の奏上を受けられる」と記している。3月6日に「憲法改正草案要綱」がまとまるとマッカーサーは「直ちに飛行機でアメリカの極東委員会に送り、関係国に交付」した。翌7日には「要綱」が公表された新聞には昭和天皇の「勅語」が同時に掲載された。『実録』は3月5日に幣原と松本が奏上したことに付記して、背景を次のように説明している。

「閣議においては、改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部(GHQ)から求められたことを踏まえ、改正案を要綱の形で発表することとし、(中略)勅語を仰いで同案を天皇の御意志による改正案とすることを決定する。」勅語は新憲法の精神を支持し、日本政府が「朕の意を体して」この目的を必ず達成するべきというものであった。

以上が豊下楢彦氏による新憲法制定の経緯の大筋である。これでマッカーサーが強引に事を急いだ決定的な理由は天皇制の維持にあったことは疑えない。近衛文麿に対する内外の批判が高まるまではマッカーサーは昭和天皇と同様に近衛の憲法改正作業に期待を表明していた。天皇は「大局的な判断」において新憲法を歓迎したのである。

『実録』によれば4月15日、幣原首相は「新憲法草案」を天皇に奏上した。その翌日天皇は御用掛の寺崎英成に対して前年9月27日に続くマッカーサーとの「第2回目の御会見の手続きを進めるよう」に命じた。5月31日、マッカーサーとの第2回目の会見で天皇は「新憲法作成への助力に対する謝意」を表明した。

「密室の九日間」の作業は具体的にどのようなものであったろうか。アメリカ側の資料から明らかにし得ることと思われるが、豊下氏の著書には、松本委員会の限界は明らかであり「むしろ在野の憲法研究会による『新憲法制定の根本要綱』をはじめとした『民間草案』などを踏まえ(た)」ものであるという記述に限られている。

新憲法の制定を昭和天皇が安閑として待っていたのではないことはこれで明らかである。新憲法は天皇自らの運命を左右しかねない問題であった。天皇が深い関心を寄せたのは憲法ばかりではない。講和条約(したがって安保条約、行政協定)、防衛問題、共産主義などについても強い関心を持ち続けマッカーサーに飽き足らなくなれば一転してワシントンとの直接的な交渉ルートを開拓した。豊下氏は戦後史の形成に「天皇ファクター」の果たした役割という空白の領域に踏み込んだ研究で知られてきた。同氏は『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008年)の中でそれを「同時代史の特異な”空白“」と名付けて、このような”空白“が長く残されてきたのは単に資料上の制約によるものではなく、少なからぬ研究者や言論人の、この”空白“に対する認識それ自体にあるのではないだろうかと指摘している。それは旧憲法下でも「立憲君主」であった天皇が「象徴天皇」となった新憲法下で政治主体として行動することはあり得ない、仮に重要な政治的行為がなされていてもそれは”タブー“として分析の対象から外されるべきであるという認識が働いているのではないだろうかと述べている。

押しつけ憲法論 憲法第九条をめぐる論議

ここに示した「毎日新聞のスクープ」から3月6日の政府による「憲法改正草案要綱」の発表までの時間的推移には通説と比して別段の問題はないだろう。豊下氏がその著書『昭和天皇の戦後日本〈憲法・安保体制〉にいたる道』で強調しているのはそれが天皇の戦争責任の免責とセットで進められたという点であり、それは国内ばかりでなく国際的な政治情勢を反映していたという点である。

ここで注意されることは、豊下氏は新憲法がGHQから押し付けられたものか、日本国民の平和的意思が自主的に作り上げたものかという論争に副次的に光を投げかけていることである。この問題は未だに国会の憲法改正論議で取り上げられるだけでなく、「新資料」の発見などを契機として折に触れて耳目を集めている。最近の1例をあげれば、2016年8月12日の東京新聞には「9条は幣原首相が提案」、「マッカーサー書簡に明記」、「『押しつけ憲法』否定 新史料」などの見出しがその一面に躍っていた。それだけではなく3ページにも「平和へのうねりが結実」、「9条提案は幣原首相」という見出しと並んで「史料発見の東大名誉教授堀尾輝久さんに聞く」として大きく出ている。

堀尾教授は憲法調査会会長の高柳健三が1958年12月10日、15日付のマッカーサーと交わした往復書簡を発見して「この書簡で(憲法9条の)幣原提案を否定する理由はなくなった」としている。堀尾氏の真意は「憲法は押し付けられたという言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」という点にあるが、マッカーサーの言明を以て結論とするのは早計にすぎる。本文でもすでに示したようにマッカーサーの虚言癖はよく知られており、また極東委員会の設立に先手を打つ形でGHQが憲法草案を提示したと認めることは得策ではない。

この堀尾氏の見解は豊下氏の著書の後で現れたものであるが豊下氏がこれを改めて問題にするとは思えない。豊下氏は古賀彰一氏の前掲書から、1946年1月24日に行われたマッカーサーとの会談内容を幣原が友人の枢密顧問官大平駒槌に語ったというメモを紹介している。それによれば、マッカーサーは「幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争をしないという決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとすることを憲法に明記すれば、列国はとやかく言わず天皇制へ踏み切れるだろう」と語った。豊下は「このメモがどこまで正確なものか否かは別として」としているがその内容はホイットニー民政局長が2月13日に吉田外相や松本委員長などに伝えたという「GHQ案の核心」そのものを示している。

東京新聞はその後8月29日にもこの問題を社説「平和のみちしるべたれ」で取り上げている。それは幣原首相の秘書官だった平野三郎(後に岐阜県知事)が残した「平野文書」を紹介して堀尾説を支持するものである。しかしそこにはほころびも散見する。「憲法は押し付けられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった」という幣原の言葉も紹介されている。

1月24日、幣原は「年末年始にかけ肺炎で伏せっていたが、米国から新薬のペニシリンをもらい全快した。そのお礼という口実をもって、一人で訪問したのである。」病み上がりの幣原がただ一人で、ついでの用件として、戦争放棄という大胆な提案を持ち込んだというのだろうか。会談は3時間に及んだ。翌日、さっそく天皇に奏上となったのはその時のマッカーサーの提案に驚いたからと考えられないだろうか。そしてもう一言「むろん、この幣原提案説を否定する見方もある。(2月8日に)GHQに示した当初の政府の改正案には『戦争放棄』などひと言もなかったからだ。」