日米開戦80周年
U市畑進:2021.12.26 12:21 Home

33年net諸兄姉どの

昭和16年12月8日、今年で日米開戦80周年を迎える。我々の人生で忘れることのできない日である。NHK昭和の選択スペシャル2021.12.04では2時間にわたり、16年1年間の苦闘が語られる。多大の犠牲を払ったが、幻影の神国日本から脱皮したことはよかったのか? 最後の真山の言葉は痛い。

★1933.03.03日本は国際連盟を脱退する。リットン報告によって満州国が認められなかったからである。これも歴史の大きな分岐点であった。余談になるがこの時、松岡外相は、1932.12.08ジュネーブにおける国際連盟総会において「十字架上の日本」という英文演説を1時間20分やった。拍手喝采を受けた名演説と云われる。余談になりますが、誰かぜひ解説してもらいたい(websiteより引用)。

★1937.07.07数発の銃声で始まった盧溝橋事件、満州事件以来紛争を続けていた日中両国はは全面戦争に入った。陸軍は「三カ月」で終わると云った。

オスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使による中日戦の斡旋が行われた。1938.01.16に、第二次近衛内閣の近衛が「国民政府(蒋介石)を相手にせず」と述べて打ち切ってしまった。日中戦争の大きな分岐点である(「日本の戦争責任」若槻泰雄より引用)。

以下の話は、太平洋戦争の昭和16年での6つの分岐点の荒筋である。

永井荷風の断腸亭日記に感想を時々の引用し、藪中五十二(外交官)に、真山仁(経済小説家)、中野信子(脳科学者)、小谷賢(軍事史専門家),一ノ瀬俊也(近代史専門家)などが解説している。

★最初の分岐点

日本、中国との4年亘る戦争は、中国が英国・米国の支援を受け、泥沼化していた。

16.04.17アメリカからの日米了解事項の文書が届いた。「米国が蔣介石との和平を取り持つことと、満州国の承認という」案であった。

但しそれにはすべての国の領土保全と主権尊重、他国の内政不干渉、商業機会を含む平等原則、太平洋地域の現状維持 という4つの原則がついていた。野村吉三郎大使は、但し書き以下を本国に送らなかった。近衛も軍部もこの日米了解事項好意的に受けとった。その二日後外務大臣、三国同盟を締結し、ソ連と中立条約を締結して、意気揚々の松岡洋右が帰国した。

松岡の考え方は、三国同盟+ソ連=四国同盟として米国と対抗するということであった。松岡は米国からの文章を見て、これは悪意7分、善意3分だと云った。16.05.03松岡は三国同盟を堅持するとOral statementを発した。16.05.12日本政府は、大幅な修正案を米国に提示した。第1回目のチャンスは消えた。

★二度目の分岐点

16.06.22ヒットラーは豊かな農業と資源を狙いソ連に侵攻する。松岡は北進論を唱える。ドイツと日本で共産主義ソ連を挟み撃ちにしようというのである。一方東条は南進論を唱えた。南進なら海軍の出番がある。牧野内大臣は、北に進んでも得るもの何一つないと云った。 16.7.02近衛は総辞職をし再組閣をして、松岡を排除した。新外務大臣には豊田貞次郎が就任した。

16.07.02天皇臨席の御前会議で南進論に決まった。南進がアジアに植民地を持つフランス、英国、米国、オランダを刺激して、英米の参戦リスクはかねがね指摘されてきたことだが、「海軍はアメリカ、イギリスとの戦争も辞さぬ」という発言をしてしまった。しかしドイツ/ソ連戦の展開では、北進の余地も残している。東条は80万の軍隊を満州に派遣した。戦略は二兎を追っていた。

16.07.28日本軍部は南部仏印へ派兵した。米国は在米金融資産の凍結、石油の禁輸で対抗した。石油の八割が米国からの輸入であった。南方はフランスがドイツに敗れ、イギリスが苦戦を強いられているため空白同然であった。矛先が仏領インドシナになるわけである。永井荷風は「火事場のドロボーなりと書いている」

・秋丸次朗主計中佐の秋丸機関が総力戦に関して調査レポートを提出した。秋山は米国が生産をフル活動にするには1年乃至1年半はかかるとみ、戦後には米国:日本は20:1の戦力でしたかねと語っている。

戦後、米国のB29の爆撃効果を調査した「戦略爆撃機調査団」は、要するに日本という国は本質的に小国で、輸入原科に依存する産業構造をもった貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対し無防備だった。手から口への、全くその日暮らしの日本経済には余力というものがなく。緊急事態に対処する術がなかった。原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、彼等の家を破壊された場合、住む家がなかった。日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期戦を支え得たに過ぎぎなかった。蓄積された武器や石油、船舶を投じて、まだ動員の完了していない敵に対し痛打を浴せることはできる。ただそれは一回限りの痛打でありえたのである。このユニークなな攻撃がが平和ををもたらさないとき、日本の運命は既に決まっていた。その経済は合衆国の半分の強さをもつ敵(ソ連を指している)との長期戦であっても、支えることはできなかったのである

16.08.28近衛は、ルーズベルトとのハワイ首脳会談を提案した。だがハルは三国同盟からの離脱の条件を付けた。近衛は追い詰められた。

★三度目の分岐点

16年9月に入っても日米交渉は進展しなかった。この時期、海軍は対米戦力七割に達していた。対米戦争は海軍の戦争である。こののち、備蓄された石油は日ごと少なくなっていく。戦うなら今しかないということだったろう。16.09.06 二度目の御前会議で提出されたのは、10月上旬までに合意できなければ開戦するということであった、12月以降海が荒れて戦闘に向かないという海軍の一方的思考である。統帥部と政治家の意見が割れた。天皇は「祖父の明治天皇が平和を願って詠んだ「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(四方の海はみな同胞と思う世なのになぜ波風が立ち騒ぐのだろう)の歌を読み上げ、戦争準備より外交を優先するよう軍部に求めた。

★四度目の分岐点

16.10.16近衛内閣は総辞職した。翌日、東条内閣が誕生する。内大臣木戸幸一が陸軍を抑えることができるのは東条のみだと奏上したことによる。確かに非戦派の東郷茂則を外務大臣に、同じく非戦派の賀屋興宣を大蔵大臣に任命した。しかし、既に、国民の中には反米感情が高まっていく、英米は東洋を植民地化した張本人ではないか。この過激はもともと東条達があおったものである。

★五度目の分岐点

16.10.23大本営政府連絡会議、一週間も続いたという。一つの案が出された。

①臥薪嘗胆でいくか。

②開戦するか。

③開戦の準備をしつつ、交渉をつづけるか。

交渉期限は16年11月1日午前9時

①案に賛成したのは外務大臣・東郷茂徳と大蔵大臣・賀屋興宣だけだった。

②案は陸海軍統帥部であった。

③案は天皇の意向を受けて東条であった。

無論、結果では③開戦の準備をしつつ、交渉をつづけるかになった。

★六度目の分岐点

国内では米国との戦争回避の中心は吉田茂であった。、吉田は篠原喜重郎の内意を得て元&前首相などの重臣を会議に参加させるという奇策を打ち出した。東条は責任をとれないものを参加させるのはいかがかと反対したが、天皇は引き下がらず、重臣を入れた会議開催を主張した。天皇の意図はこの開戦を否決させることにあった。

16.11.27米国からハルノートが届き、大陸からの全面撤退、三国同盟から離脱をを要求した内容だった。東条はこれを最後通牒と考えた。

16.11.29ハルノートが届いた2日後、重臣会議が開かれた。

(市畑注;出席した重臣は、若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、近衛文麿、林銑十郎、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政の8名であり、原嘉道枢密院議長がこれに加わった。政府側からは東条首相兼陸相、嶋田繁太郎海相、東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相および鈴木貞一企画院総裁が出席。陸海の統帥部からはだれも姿をみせていない。会議は午前9時半からはじまり、途中で昼食休憩の一時間をはさんで午後4時までつづけられました。開戦の正式決議(12月1日の御前会議)を前にして、大日本帝国の運命をきめる重要会議の一つがこの懇談会であった。)東条は一時間を超える交渉経緯を説明し、東郷外相も50分演説した。終わって、天皇は質問を促した。岡田啓介が「物資の補給能力について十分成算ありや」近衛文麿は「外交交渉が決裂するも、直ちに戦争に訴える必要ありや」米内光正は「ジリ貧を避けんとして、ドカ貧にならぬことを十分にご注意願いたい」といい、東条はことごとく反駁した。誰一人強硬に戦争回避を主張する者がいなかった。

16.12.01に御前会議を開き、対米開戦を決定した。

16.12.08真珠湾攻撃、宣戦布告。

・永井荷風曰く「ついに始まったか!始めてしまったか! なにが「屠れ!英米われらの敵だ、すすめ1億火の玉だ」 「通り抜けられなかったか!」「むかし英米我らの師、困る億兆火の車」と書き記した。

★開戦は避けられなかったか?

・真山仁は、重臣会議を開く前に天皇の本音はこうだったという根回しが十分でなかった。ものすごい勢いで転がる石を止められなかった。

・小谷賢は、ハルノートが決定打になった。日本もアメリカの立場を理解していなかったし、アメリカも日本の立場を理解していなかった。

・一ノ瀬俊也は、改めて永井荷風の断腸亭日記を読み直してみた。「米国と戦争したとてなにも得るところなし。あるとすればデモクラシーの真の意義を理解する機会に遭遇することであるべし」と云っている。事実敗戦でその通りになった。荷風は先の見える人であった。ただものではない。

★どんな選択をすれば避けられたか?

・中野信子は、英米が敵ではなく、本当の敵は貧困である、(五度目の分岐点で)臥薪嘗胆のその先を見る人がいれば避けられたかもしれない。

・一ノ瀬俊也、昭和初期の長引く不況、ものすごい貧困を中国への進出と資源獲得で解決しようとしていた。

・藪中三十二は、平和をつくるという日本、そのために防衛力もいいが、同時に外交をしっかりやってもらわなければならない。

・小谷賢は、キメラレナイ、キメナイなど問題の先送りや世論に影響を受けるなど戦前から引きずって今なおある。

・一ノ瀬俊也、国力の差以前に、アメリカの原則に対して対抗する日本の原理、原則がなかった。先ほどの平和、さらには言論の自由などである

・真山仁は、デリケートな問題ですが、今日の平和へのこだわりは、日本が大敗したからうまれたものだろう。もし、途中で終戦を迎えたら、全然違った日本になっただろう。30年代に生まれたが、戦争で負けてよかったとは言わないが、親の世代は負けてよかったという。

(了)