日本の小説は懐かしい。
この機会に鴎外、漱石についてのゴシップ的小論に続けてもう少し日本の小説を検討してみました。
大島昌二
日本の近代小説の国際的評価
日本の近代の文芸作品は世界の読者の目にどう映るだろうか。川端康成、大江健三郎がノーベル賞を受賞したことはよく知られているが、この2人がなぜ選ばれたのか、またその作品がどのように評価されたからなのか私には未だによくわからない。谷崎潤一郎と三島由紀夫も有力な候補に上ったということも耳にしている。川端の受賞は1968年(11月25日)だが谷崎はそれ以前の1965年に物故している。三島の自決は1970年である。
英国、アメリカ、あるいはフランスなどの文学については学者や文芸評論家が文学史を著しているからそれぞれの評価を読むことができる。ところが世界文学となると、サマセット・モームの『世界の十大小説』のようなすぐれた解説があるがわずか十冊の大作家に限られている。アメリカから一冊、近年とみに声価の高いメルヴィルの『モウビー・ディック』(「白鯨」)があるのはさすがだと思うが、同様に声価の高いセルバンテスの『ドン・キホーテ』は漏れている。
外国の研究者による近代日本文学の評価は、辛口の批評は避けられる傾向があるが、ドナルド・キーンの著作をはじめとして多くのものが日本人によっても好意的に迎えられている。
世界文学となると、モームのように国際的に評価が定着した偉大な作家を少数選ぶのなら別であるが、言葉の壁があって、それ以上はおいそれと取り組む人は出るはずがない。ところがそれを一人でやってのけたMartin Seymour-Smithという人物(詩人、評論家、学者)がいる。彼には『近代世界文学案内』(Guide to Modern World Literature)という四巻にわたる大著があり、そこで実に文字通り世界の文学について論じている。国・地域数は37、総ページ数1,451である。対象となる作品は20世紀以降のものとされ、従って19世紀末に生を受けた作家で20世紀まで生き延びた作家の作品から本書の発行された1975年以前の作品ということになる。初版は1973年に「独学双書」(Teach Yourself Books)というつつましい一冊の書物であったがその後の2年間で四巻本へと様相を一変させている。
著者は多言語に精通した、いわゆるポリグロットで、そこに述べられた意見はすべて自分が読んだ上での見解であり、まれには他の評者の見解を紹介することもある。文章は晦渋などとは程遠く、明晰そのものである。
日本についての章は47ページであるが私が意図した、「国際的な視野に置いた日本文学の評価」という関心は十分に満たしてくれるものであった。結論だけをかいつまんで言うと著者は日本の近代小説を十分以上に高く評価している。なかんずく多くのページを割いているのは島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎で、この3人について以下のように述べている。
「この2人の小説家(藤村と漱石)は彼らの時代の卓越した存在であった。散文の作者としてすべての面で彼らに並ぶのは谷崎潤一郎ただ一人であろう。」三人のそれぞれの評価を訳すと以下のようである。
谷崎(1886~1965)―「谷崎は常にそのように評価されたわけではないが、1868年以降の日本文学における偉大な作家である。彼はまた、どのような尺度をもってしても、今世紀のもっとも重要な作家の一人であることにいささかの疑いもない。幸いなことに彼のほとんどの作品にはすぐれた英訳がある。」
漱石(1867~1916)―「漱石は世界文学の観点から見ても主要な作家であることは疑いない。彼は藤村同様、近代という背景の下に、今では当たり前となった「アンチ・ヒーロー」に似た人物を描くことに成功したのである。」
藤村(1872~1943)藤村は最後の作品『夜明け前』においても他の作品同様、「真の自然主義作家と呼ぶには十分な哲学的な洞察を持ち得ていない。」「彼は繊細なテクニックを駆使し、説明や抽象化を避けた抒情的、現実主義的作家である。もし、より多くの藤村の作品が翻訳され、西洋でも出版されていたならば偉大な作家の作品として歓迎されたであろうことは間違いない。」
評者の言うように、漱石、藤村、谷崎に対する日本の読書界の評価は藤村の名声が次第に後退し、谷崎の評価が上昇したという相互関係が認められるのではないかと思う。これに比すれば漱石の地歩は安定した上昇線をたどっていると言えるのではないだろうか。
Seymour-Smith(以下MSSとする) の所論については、これらの三人の個々の作品評をふくめて、なお幾つか言及,紹介したい点があるが、とりあえずは、彼が日本を特殊な文化の国とは見ずに、つまり何等の偏見なしに、その作品を世界文学と同等の領域で論じていることに満足し、敬意を表したいと思う。
最後に、時代は下るが欧米の読者にほとんど例外なしに称賛される三島由紀夫についての評価に触れておきたい。三島についてはその同性愛について語ることは日本ではタブーとされているがMSSはそれを避けて三島を論じることは不可能と考えている。ほぼ2ページの三島論は同性愛の指摘に始まり、三島のボデービルや武術への執着、「盾の会」を中心とする極右的言動、果ては70年11月24日の自衛隊本部での切腹までを説明する。その上で三島の作品もその政治的発言も精神分析学の用語を用いなくしては解明不能であるとしている。45歳の生涯であった。
MSSがこの時期に三島の性的嗜好を明白に指摘していることには注意を引かれる。出版の時期から考えて後に紹介する三島の二冊の伝記、とりわけジョーン・ネイサンの“Mishima”,を読む機会はなかったはずだからである。MSSは自信を持って三島の作品や行動からそれを読み取っていたのだろう。
同氏は漱石の『心』の評で「先生」と語り手である私との間にも漠然とした同性愛的傾向を読み取っている。私は高校時代に『心』を息を詰めるようにして読んだが、後年になってMSSのこの指摘に驚きつつも半信半疑であったことを記憶している。
MSSによれば、作家としての三島の価値は、「その才能を否定することはできないが、心理描写の浅薄さとセンセーショナリズムは受け入れがたい」というものである。ただ初期の作品『仮面の告白』(1949年)、『禁色』(1952年)については「同性愛を解明してこの上なく巧みで興味深い」と称賛している。また『金閣寺』(1956年)『午後の曳航』(1963年)の二作品で三島の才能は、一時は開花するかに見えたが期待は裏切られたという。
彼の名声は消え去る運命にある。遺作として用意された『豊穣の海』四部作については「この上もなく退屈で貧弱」(crashingly dull and poor)とにべもない。
私はこの長大な遺作をとにかく読んだ。第一巻の『春の雪』は注意の行き届いた丁寧な作品であった。しかしそれはやがて破綻を見せはじめ、最終巻の『天人五衰』では収拾がつかなくなっていた。三島はこの最終巻を予定した死の直前に書き終えたと言われるが、ドナルド・キーン氏はもっと以前に見せられたと証言している。
今の世であればスキャンダルとして逃げ隠れするほどのことはないだろうが、より古くはイギリスのオスカー・ワイルドの例もある。三島の同性愛は厳密なタブーとして守られた。1974年にアメリカで出版されたジョーン・ネイサンによる三島の伝記は日本語では出版できなかった。三島の同性愛を徹底して否定する親族や出版社の忌諱に触れたからである。その少し前、同じく1974年に英語で出版されたヘンリー・スコット=ストークス(以下、ストークス)氏の『三島由紀夫 死と真実』は1985年に邦訳が出版され、私は著者から直接頂戴している。ストークスさんは英米紙の駐日特派員として長年日本に滞在し三島の信頼が厚く、おそらく他の誰にもまして親交があったと言えそうである。彼はその頃、作家として二足の草鞋を履いていた実業家、堤清二(筆名辻井喬)の伝記を書くつもりで堤氏に会ったりしていたがその意図は放棄したらしい。
東大法学部の教官として三島を指導した団藤重光氏は、「三島は私の考え方を一番よく理解した学生でした」とした上で『仮面の告白』は、「私の刑事訴訟法の理論を文学化したものだと思っています。そこから形式美の世界に行ったんでしょう」と述べている。また「後年、ご母堂にお会いしましたが、『息子はかわいそうな人間だった。父親が大蔵省の役人として育てたかったのに小説ばかり書くものだから父親と対立して会うたびにケンカをした』と悲しんでおられました。かれはいつも古典的な美を追求していました。だから、日本の古式にのっとって切腹する道を選んだのでしょう。今思い出しても本当に哀れに思います」(日経09年3月25日)という。幸せな一生を送ることは難しい。作家としてばかりではなく、一人の人間としてみた場合、団藤氏の「哀れ」という言葉はひとしお身にしみる。
『豊穣の海』ばかりでなく、その他幾つかの作品を読んだ私の記憶では、三島の表現の現実離れしたきらびやかさには違和感を禁じえなかった。三島の幾つもの作品が西洋の読者をひきつけたのは、英語への転換に際してそのような羽飾りが切り落とされて、視界から消えているからではないかとすら思うのである。
三島由紀夫はMSSの扱う日本の小説家の最後の登場人物である。その結びの言葉は以下のようになっている。
「彼は西洋のすべての文物に対して日本人が持つ、果てしない好奇心に、とめどもなく進行し惑乱する同性愛を合わせ持っていた。それが日本的な形式をとって最後に暴発したのである。しかしそこには彼の作品同様、真の感情が欠落していた。」「この上なく退屈で貧弱」という『豊穣の海』に対する判定はこの後に続く。三島の辞世の句と伝えられる句を下に示しておく。
益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ堪へて今日の初霜