33年ネット諸兄姉どの
(2024.11.10)
新プロジェクトX~挑戦者たち~ オウムVS科捜研 ~地下鉄サリン事件 世紀の逮捕劇~2024.10.26放送とその時期、オウム真理教が起こした事件をあらまし振り返る。この事件では、オウム真理教の教祖、麻原彰晃が国家転覆を狙ったとされる。一体彼の狙った国家転覆とは何だったのか。
つい最近WOWOWで見た原題One More Shot,日本タイトル「ネイビーシールズ空港占拠」、米国Navy SEALs(ネイビーシールズ、アメリカ海軍特殊部隊)テロリストの容疑者を移送する任務を帯びた大尉が活躍するドラマであるが。舞台となるのはアメリカの首都ワシントンD.C.の空港。テロの容疑者が持つ最大8キロに放射能が降下する「放射性のダーライ・ボムを狙って謎の傭兵部隊が空港を占拠。大統領と国家安全保障省の閣僚を隔離して「国家戦略防衛情報」を入手して米国を支配すると思いきや、それを売却してカネにすることが目的であるという極めて資本主義的な結果であった。ついでながらこの傭兵部隊、海軍の特殊部隊出身がオーナーになっている、中東にも派遣しているという民間軍事組織と国家安全保障省の特別管理官が手を握っての犯罪。ついで民間の軍事会社はロシヤのワグネルが有名であるが、米国にもと五会社あるようだ。そのうちATACという会社は、戦闘機の代行会社という。わが国では、信じられないはなしだ。
★1995年、国家転覆をたくらむ化学者集団でもあったオウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」。教祖の麻原彰晃(本名;松本智津夫)は当初、犯行を否定。逮捕までには57日間に及ぶ攻防戦があった。その陰にいたのが科捜研の若手研究員で緊急結成された「科学班」。今回、オウムの実験ノートや化学工場の映像などテレビ初公開の新資料を発掘。研究者たちは、科学の力を駆使し、どのように麻原たちを追い詰めていったのか、頭脳と執念のドラマ。(NHKオンデマンドで見ることができる。)
1995.3.20,わたしは、中野富士見町駅始発7:50頃の電車にのり、8:00頃霞が関駅を通過した。そのあとに惨劇はおきた。むろん知る由もない。あと淡路町駅でおり、都営地下鉄に乗り、馬喰町駅で降り、会社についた。NEWSでは、日比谷線小伝馬町駅でも起きてるとつたえていた。現場に行くと、地下からタンカーで次々と運ばれてくる。
遡って主なオウム真理教の起こした事件を拾ってみると、
★1989(平成元)年11.04,坂本弁護士一家3人が殺害された。
この件は1989年(平成元年)10月26日 、TBSのテレビ番組「3時にあいましょう」の取材班は反オウム真理教派の弁護士・坂本堤のインタビューを収録した後、オウム真理教の修行を取材。その際のインタビューで紛糾し、沈静化のため、曜日担当プロデューサー・武市功は坂本弁護士のビデオを見せることを提案。10月26日深夜、オウム真理教の早川紀代秀らが科学技術館(TBSの分室)に来訪、総合プロデューサー・多良寛則の命令により早川らに坂本のビデオを視聴させ、企画自体の放送を取りやめる約束をする。
このことが坂本弁護士一家3人殺害事件発生の根源とされる。
(TBS側の処分;TBSがジャーナリズムの鉄則である「情報源の秘匿」および報道倫理を遵守しなかったため。プロデューサーの多良および武市の懲戒解雇。磯崎洋三社長ら経営陣の引責辞任。謝罪 1996年4月30日19時から19時20分まで磯崎洋三社長による特別番組「視聴者の皆さまへ」、19時20分から22時54分まで「ビデオ問題検証特番『証言・坂本弁護士テープ問題から6年半』」(司会:杉尾秀哉)を放送。5月20日に特別番組「視聴者の皆さまへ」で当時の砂原幸雄社長より経過報告と今後の対策および謝罪放送を行う。)
★1994.6.27、松本サリン事件
長野県松本市北深志で事件が起きた。死者8人、重軽傷者600人
教団松本支部立ち退きを担当する判事殺害、サリンの実験。松本市内における毒物使用多数殺人事件。オウム真理教教徒らにより、神経ガスのサリンが散布されたもので、被害者は死者8人に及んだ。戦争状態にない国において、サリンのような化学兵器クラスの毒物が一般市民に対して無差別に使用された世界初の事例であり、同じくオウム真理教による地下鉄サリン事件を除けばその後も例が無いという。
★1995.3.20、この地下鉄サリン事件では、死者14人、重軽傷者約6300人という大惨事になった。要約以下
1881年、一人の若者、服藤恵三(はらふじ けいぞう)が製薬会社を辞めて科捜研に入所した。当時は「難しい案件は外注しろ!」なんていう先輩もおり、警視庁の組織の一端ありながら捜査権もなかった存在感のないセクションだった。また、「証拠の王様は、自白だ」とい言い切る捜査員もいた。セクションは捜査に立ち会うこともないぬるま湯的存在だった。服藤恵三は、昇進試験に2回も落ちたが、大学院に行き、8年かけて35才の時、毒物の博士号をとった(東京理科大学、大学院)。
この事件-なんと警視庁の直ぐそばで起きているのだ-の1時間後、科捜研での検査結果はSarinとでた。サリンは、1936年ナチス・ドイツで発見され、猛毒の化学兵器になった。服藤恵三は云う「こんなこと考える人間がいるのかと。」警視庁に対策本部が設置された。
当時の捜査幹部、広畑史朗は「わたしならず居並ぶ幹部はオウムにやられたな」と思った。理由は
★1995.1.4公証人役場事務長逮捕禁致死事件;1995.1.4日、財産の寄付を迫られ逃げ出した信者だった妹を救いだした仮谷事務長が拉致される瞬間を複数の民間人が目撃していたことを受けて捜査を開始し、拉致に使用したレンタカーの書類から松本剛の指紋が採取され、さらにレンタカーから松本の指紋と被害者の指紋と血痕が確認されたことにより、警視庁がオウム真理教が凶悪事件に関与していたことを確定的に認識する初の事件となった。
警視庁は拉致監禁の容疑で教団本部を3月22日に強制捜査すると決定したが、オウム真理教はそれよりも早く動き、3月20日に地下鉄サリン事件を起こしたのであった。
3月22日、全国の教団施設を2500人を動員して強制捜査に入った。
①オウム真理教がサリンをつくったのか?
世間ではオウム真理教がサリンをつくったというが、その証拠が見つからない。押収した大量の薬品類も、麻原は農薬、肥料のためと、サリンが精製されたとかいうことについてわたしは理解できないと強く否定した。
強制捜査から4日、何らの進展もない。毒物に詳しい奴を呼べ、服藤に白羽の矢が立った。服藤は単に質問に答えるだけではと資料の分析をもし出た。相手は想定をこえる化学者集団だった。3月末に資料を分析する化学班が、服藤をリーダーとして大下敏隆(研究員)・太田博(研究員)で結成された。
服藤は、あるアイデアを思い付いた。サリンは、熱や空気に触れると分解して「メチルホスオン酸モノイソプロピレンー通称「モノイソ」になる。捜査一課長の寺尾に報告すると、思わぬ言葉、「すぐ上九一色に行ってくれ」となった。
1995.4.3、服藤は、第7サティアンに入る。化学工場は理路整然とつくられていた。奥に研究室があった。付着している物質から「モノイソ」を探す。見つける。服藤は、サリン製造のすべてを記載した40pegeに亘るレポートを作成する。このレポートは、裁判関係者には必読の書になった。
②オウム真理教の誰が、どの組織がサリンをつくったか?
事件から1ケ月、実行犯であると目される麻原の側近であり、化学班の責任者「土谷正実(筑波大学大学院化学研究科修士課程修了、博士課程中退。化学(物理化学と有機化学)」を専攻が取り調べを受けていたが、二日間、黙秘を続けている。服藤は、土谷の取り調べに同席を要請される。異例の事態だった。服藤は、紙と鉛筆で、サリン5工程の,工程式を書き始め、ひたすらに書き続けた。ふと、土谷の部下のノートにあった、印象的な式、四塩化ケイ素をだった。服藤は、サリンに関する100本以上の論文を読んだが、その中に四塩化ケイ素を原料として使ったものはなかった。四塩化ケイ素の化学式を紙に書き土谷に見せると、動揺がはしった。そのあと、土谷は自供した。1995年5月16日、麻原は逮捕された。57日の戦いは終わった。
その後、化学捜査官という官職を、捜査権のある官職を創設、無論、服藤が初代化学捜査官になった。現在67歳になるも高等検事局参与として民間と協力しつつ、化学捜査の研究にかかわっている。
ところで、平成16年2月27日 午前10時東京地裁判決文によれば、「Ⅳ 教団の武装化」として1.「麻原彰晃は,平成2(1990)年の衆議院議員総選挙に真理党として教団幹部ら24名と共に立候補したが惨敗したことから教団幹部ら二十数名を集め現代人は生きながらにして悪業を積むから,全世界にボツリヌス菌をまいてポアする。救済の計画のために私は君たちを選んだ。」などと言って無差別大量殺人の実行を宣言して以来,ボツリヌス菌の培養,ホスゲン爆弾の製造,プラズマ兵器の製造,核兵器の開発,炭疽菌の培養等を教団幹部らに指示して教団の武装化を強力に推進し,その一環として,サリンをプラントで大量に生成するとともに,多数の自動小銃を製造しようと考えた。(以下略)2.麻原彰晃は,自分の部屋で,石井や井上の前で「私の今生の目標は最終完全解脱と世界統一である。」という話をし,また,第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントを造ろうと考え,同年8月末か9月初めころ,上祐,村井,新實らの同席する被告人の部屋で,滝澤和義に対し,「70tのサリンプラントを造ってくれ。いきなり大きいのでいこう。」などと言って70tのサリンを生成できるプラントの設計をするよう指示したという。
結論的には、明の太祖・初代皇帝、朱元璋ー洪武帝(1368年~1398年)ように全国統一を達成したいと考えており、1994年2月22日より、麻原一行は孝陵(朱元璋の陵墓(南京にある。))などを訪問し、旅の途中、麻原は「1997年、私は日本の王になる。2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。真理に仇なす者はできるだけ早くポアしなければならない」「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない。」と世界征服を目指すことを説法した[判 1]。Wikipedia
★麻原彰晃は、サリン70トンを撒いて世界を征服し、王になると考えていたのだ。
この野心のために、多くの人が犠牲になった。被害者は勿論、加害者にも、きわめて悲惨な・憂鬱な事件であった。
上記の事件は、1994(H6).6.30~1998(H10).6までの自社・さきがけの連立政権下で起きた事件である。社会党の村山が総理を務める。1995.1.17阪神淡路大震災が起きている。政治が不安定で、国会に庶民の心や生活を思いやる時間が無くなることに関連しているかもしれない。
イチハタ