(一橋33ネット投稿)
写真部門のピューリッツアー賞
2023.11.08/Q羽島 賢一
複数の新聞社を経営し新聞王といわれたジョセフ・ピューリッツアーはジャーナリストの質の向上を願って、1917年にピューリッツアー賞を設け、その運営をコロンビア大学に委ねた。受賞対象は報道・文学・音楽など多岐にわたっている。ただし、対象となるのは米国内での諸活動(含む発表)に限定される。写真の分野では1942年に「報道写真部門」が設立された。時代を写し取った記事や写真が対象となるジャーナリストのノーベル賞とも言われる。
3人の日本人が受賞の栄に浴している。
1960年「浅沼稲次郎刺殺事件」を写した毎日新聞社記者長尾靖である。日比谷公会堂で開催された「三党首大演説会」は満員の政党関係者などで溢れていた。社会党委員長浅沼稲次郎が演説中、突然舞台右手から壇上に上がった学生服を着た小柄な少年が、人間機関車と呼ばれていた大柄な浅沼に体当たりした。この狂信的な右翼学生山口二矢(やまぐち・おとや)は刃物で浅沼の心臓を刺した。この一瞬の出来事を同じ角度から写し取った写真記者が二人いた。
東京新聞の吉武敬能と毎日新聞の長尾靖である。ピューリーッツアー賞は長尾に行った。長尾が選ばれたのには、二つの理由がある。一つは、毎日新聞社に米国の通信社UPIが同居していて、いち早く米国に配信されたこと、二つ目は、二人は、同じス4×5インチの大判カメラで報道カメラマンに広く使われていた通称スピグラ「スピード・グラフィック」を使用していたのだが、吉武はシャッターの同調速度の低いフラッシュ・バルブ(閃光電球)を発光させて撮影した。おそらく1/100秒以下のシャッターであっただろう。それに対して長尾は最新のストロボ・フラッシュを使った。ストロボはシャッター速度よりも極めて短い発光時間であり、おそらく1/1000秒より短かっただろう。これが画像の尖鋭度の差を生んだ。
スピグラは連動距離計を使ってピントを合わせるが、この時は演台あたりの置きピンだったと思われる。スピグラは当時パック・フィルムを使用していた。12コマ分のフィルムが繋がってホルダーに装填されていて、撮影するごとにホルダーから飛び出しているリーディング・ペーパーを引き出すと次のコマが準備されるものである。長尾が撮影したのは幸運にも最後の12コマ目だったといわれている。この写真は「世界報道写真大賞」をも受賞している。長尾はピューリッツー賞だが、吉武は「特ダネ賞金2,000円」だったそうだ。明暗が分かれたが長尾は「他人の不幸で特ダネをとったことが心苦しく、そのご40年間ずっと心の負担になっていた」とのメモを残している。新聞カメラマンも辛いものだ。
(日比谷公会堂といえば、1957年ころ西宮正明元日本広告写真協会会長ともども大同毛織から衣装提供されたシャンソン歌手石井好子の撮影を日比谷公会堂で撮影した。白バックを求めて、便所のタイル壁を使ったことがあった。東京校歌祭でも数回舞台に上がったことがある。その時は高校&大学の掛け持ちだった。)
長尾 靖 浅沼 稲次郎刺殺事件
澤田 教一 安全への逃避
右上の写真は澤田教一が1966年に受賞した有名な作品である。澤田はローライ・フレックスとライカM2を使っていた。この時期になると速写性能の高いカメラが使えた。澤田は毎日新聞社にあった「UPI通信社東京支社」に勤めていたのも奇縁である。
澤田の受賞の二年後の1968年に酒井淑夫が「静かな雨、静かな時」で受賞している。酒井は澤田の受賞の前年にUPI通信社に入社した。作品には、ずぶ濡れの黒人兵が土嚢の上に横たわり、しばしの休息をとっている、同僚の白人兵は大雨の中、敵の襲撃を警戒して、ライフルを手にしている。静けさの中にも緊張が続く。酒井は1970年10月カンボジアで殉職した澤田の遺骨をサタ夫人に届けたそうだ。
酒井 淑夫 静かな雨、静かな時 1945年受賞作品
続いていくつかの受賞作品を転載します。
最初に受賞決定後に物議をかもした2点を取り上げます。
1972年 ニック・ウト ナパーム弾の少女
1994年 ケビン・カーター ハゲワシと少女
多くの命を奪うナパーム弾攻撃から逃れる子どもたちを写したその恐ろしい写真は、ベトナム戦争だけでなく、20世紀の決定的写真となった。この写真はベトナム戦争終結の契機となったともいわれるように、この写真は反戦感情の象徴となった。ナパーム弾の恐怖の描写があまりに痛ましかったため、当時のニクソン米大統領は内密にその写真が「やらせ」か否かを問い合わせた。数十年後に公開された米政府の記録によると、ニクソン大統領はこの写真が仕組まれたヤラセのものではないかと疑っていた。AP通信社のニック・ウトはこの疑惑に憤慨した。
裸体の少女の尊厳を守るため、最近は腰回りにモザイクを付けるなどされている。
右上の写真はフリーランスの写真家、ケビン・カーターによって、1994年に撮影されたものである。。場所はアフリカのスーダンだ。長く続く内戦が大規模な飢饉などスーダンの惨状を世界中に知らしめた。しかし、作品は彼を有名にしたが、写真の中の子どもを助ける前にシャッターを押した彼は、“ハゲワシ”と同じだと非難され、彼は打ちのめされた。ピュリツァー賞に輝いた男は、1994年の夏、自殺した。1枚の写真が、少女の運命の冷酷を語り、スーダンの歴史に世界の目を集めさせ、そしてシャッターを切った男の人生を断ち切った。
国連が設営した食料難民センターの付近で撮影され、NYタイムスが紙面に掲載した。NYタイムスの記者は、倫理、感情、行動についてケビンとこんな問答を交わしている。「シャッターが先なのか、少女を助けるのが先だったのか」、ケビンは「シャッターを押した」「ハゲワシを追い払った」「目前の現実に圧倒された」「木の下に座り込み、煙草に火をつけた」「そして泣いた」「ヨハネスブルグに残してきた娘のミーガンを思い出したからだ」と答えた。
また、付近にいた人は、「この辺りはハゲワシの集まる場所で、ワシは人に懐いていた。母親は抱いていた娘を下ろし、何の不安もなく配給センターに向かった」とも言っている。
ケビンの自殺について、まったく別の見方も伝えられている。自殺の直前、ケビンはモザンピークで撮影していた。その際、撮影したフィルム16本を紛失するという事件に見舞われた。
ハゲワシの件で、精神的に崖っぷちまで追い詰められていたケビンにとって、フィルム紛失事件は最後の決定的な一撃だったというのだ。
ケビンは、車に残したフィルムが見当たらなかったとき、「 fuck big fuck up! compleatly Fuck up!(最悪、大失敗)」と繰り返し叫んだと言う。相次ぐ出来事で、ケビンは逃げ場がなくなったのだろう。
助けるべきか、撮るべきか、このテーマで記憶に残るのは「紫雲丸事故」である。紫雲丸は後に「死運丸」と言われたようにいくつかの事故を起こしている。なかでも有名なのは、1955年宇高連絡船の僚船「第3宇高丸」と衝突した海難事故である。紫雲丸は沈没した。修学旅行の生徒168名が死亡するという、前年の青函連絡船洞爺丸事故に続く大事故であった。
その時、カメラ・アングルから推定すると、第3宇高丸に乗船していたと思われる朝日新聞カメラマンが撮影した写真が公表された。撮影する暇があるなら救助しろとの非難が全国から殺到した。報道と人命救助についての論争に発展した。犠牲者の数でいうと、タイタニック号、洞爺丸に次ぐ3番目である。紫雲丸の船長は自ら責任を取って船と運命を共にした。また長崎惣之助国鉄総裁も辞任した。
紫雲丸 海難事故 紫雲丸 海難事故
続いて歴代のピューリッツアー賞受賞作品から抜粋して画像のみを転載する。
1969マーティン・ルーサー・キングの葬儀に出席した未亡人と家族 (モネタ・スリート・Jr)
1983 J。B。ディックマン エルサルバドル、殺戮の地
1985アメリカメキシコ国境不法滞在者 (スタン・グロスフェルド)
1995 AP ルワンダの死の村
エチオピアの飢餓
2004 カロリン・コール 包囲されたモンロビア
2008 プレストン・ガナウエイ 親の終末期の病と闘う家族
2018 ロイター 国境へ向かうロヒンギャ難民
2021エミリオ・モレナッティ コロナ禍のスペインの高齢者の生活