00050 2025.7.31
長い間英語の学習をして英語の本も幾つか読み、次はドイツ語に磨きをかけたいと思ったのは就職をして間もなくのことだった。東西ドイツを挟んで激化した冷戦の最中であった。東ベルリンから西ベルリンへ逃れる人々を批判的に描いたアンナ・ぜガースの小説「決断」を読んで感心したばかりであったので彼女の短編集(Bienenstock)3冊を買って読むことにしたばかりであった。そんなところへ、イギリスへ留学する機会がめぐって来て私はロンドンへ渡った。
そのようにして始まった私の英国生活は前後2回にわたって12年に及んだ。しかし、光陰矢の如しである。英国を引き揚げてからすでに45年になる。英国で生活し英語の学習を続けた結果でもあるが私の英国への関心はその後も持続し、質的にも深められた。これが同じ英語圏でもアメリカであったらそうはいかなかったろう。英国で生活し英国で学んだことは多い。それは英国に限らず世界に向けられた目でもあった。「アメリカは大きな島国です」と言ったアメリカ人がいた。イギリスは小さな小世界であった。
当然ながら、日本に戻ってからも英国への関心は持続した。帰国後まもなく私は講談社が創刊した「日本」という総合雑誌の懸賞論文に応募して三席に入賞した。それは論題に惹かれたからではなく英国で学んだことを文章にまとめてみたかったからだった。まだワープロが出回る前で自分の文章を活字にしてみたいという気持が強かった。
「これからの日本に何が必要か」という大上段に振りかぶった課題に対して私は実感した英国の民主主義について幾つかの具体的な逸話を紹介しながら全編を纏め上げた。一席はなく、二席に2篇が選ばれた。一つは日本人のモラル、一つは科学技術を問題にしたものであった。講評を読むと私の論文は私が頼りにしていた左翼評論家の長洲一二横浜国大教授(後に神奈川県知事)に酷評され、意外にも文芸評論家の江藤淳が激賞してくれた。結局は京大名誉教授の田中美知太郎が江藤説に同調し「ぼくは80点つけている」と言ってくれて、かろうじて三席に残ったのだった。
長洲の酷評は私が英国を褒めたことが気に食わなかったかららしい。私はそんな幼稚なことは一つも言っていないが「なんでも英国はよくて日本は悪い」と言っているというのであった。私はこれを長洲の身に沁み込んでいる一種の愛国心と受け取っている。明治の開国以来、英国は日本人の関心の的であり続けた。最初は学生として、2度目は職業人、家庭人として英国で生活をした私には、いろいろな人が試みる多様な英国論に引き付けられるものはなかった。
経済成長にうつつを抜かしている日本人の英国評論は新味がなく、分析を欠いていた。唯一の例外は当時LSE(London School of Economics and Political Science)で経済学を講じていた森嶋通夫教授が展開する英国論であった。それはまず『イギリスと日本 ―その国民性と社会』(77年11月)、『続イギリスと日本 ―その教育と経済』』(78年12月)、『サッチヤー時代のイギリス ーその政治、経済、教育』(1988年12月)の3冊である。
私がイギリスを離れたのは、スカーギル(Arthur Scargill)に率いられる炭鉱労働者の蜂起で労働党政権が袋小路に追い込まれ、サッチャー女史が1979年5月に首相に就任して間もなく80年3月のことだった。北アイルランドの宗教対立も収拾がつかない状態にあった。エスタブリッシュメントの一部と言われるシティに日々通勤する者にとっては実感が乏しかったが2009年に出版された『灯火の消えた時』(”When the Lights Went Out” by Andy Beckett)は1970年代を労働争議によって色取られた暗黒の10年として描いている。私はこの本によって70年代のイギリスのもう一つの面を想起させられたのであった。
森嶋通夫教授のイギリス
サッチャー女史の率いる保守党が政権に就いたのはこのような変革期であった。サッチャーは「LABOUR ISN’T WORKING(労働党は労働/機能していない)」というスローガンを編み出し、私は「貧すれば鈍する」という言葉を自分に繰り返しながら帰国の途についた。サッチャー、メイジャーと18年続いた保守党の長期政権の後、1997年に政権に復帰した労働党のブレア―首相の「第三の道」もサッチャー女史の経済政策を引き継いだものに他ならなかった。このように振り返ってみればその後に来るブレグジット(2016年6月国民投票、2020年1月正式離脱)はキャメロン首相の意図に反したものであったがその種はサッチャーが播いたものであったといえる。
私は帰国後も何度もイギリスを訪れてはいたがサッチャー首相以後のイギリスは生活に即してみてはいない。森嶋教授の『サッチヤー時代のイギリス』はその欠を埋めてくれるものとしてだけでも貴重なものであった。森嶋は2004年7月に死去しているからブレグジットを知らない。存命であったらどのような発言をされたであろうか。
森嶋教授の啓蒙的な著作は他にも多い。英国論とは別のもう一つの系列は、イギリスに視点をおいた日本論である。『なぜ日本は成功したか 先進技術と日本的心情』(84年9月)という本があるかと思えば『なぜ日本は没落するか』(99年3月)という本もある。英文で出版された”Japan at a Deadlock” 2000年の邦訳『なぜ日本は行き詰まったか』(04年04年3月もある。再軍備論や日本の国際協力に関しては『自分流に考える 新・新軍備計画論』(81年10月)や『日本の選択』『日本に出来ることは何か 東アジア共同体を提案する』(01年10月)がある。
森嶋教授はまた自分の来し方を振り返った自伝も残している。それは生誕からではなく旧制浪速高校時代から始まり「ある人生の記録」という通し題を持っている。刊行及び成長の順に『血にコクリコの花咲けば』(97年4月) 、『智にはたらけば角が立つ』(99年3月)、『終わりよければすべてよし』(2001年2月)の3冊である。私はここに列挙した森嶋の本をすべて読んでいたと思い込んでいた。ところが今回取り出してみると『血にコクリコの…』を読んでいなかったことに気がついた。
そこで今回これを読んでみたのだがその「はしがき」には「ある人生の記録」について次のように書いてある。「この巻では、私の学生時代と海軍時代について書く。そのあと第二、第三巻で京都大学と大阪大学で働いた期間とロンドン大学のLSEに来てからの期間について書くつもりである。残念なことに、私は京大でも阪大でも結果はよくなく、自分の方から辞表を提出した。しかしイギリスに来てからは、大きい喧嘩は少なくとも同僚とは一度もしなかった。それはなぜだろう。この問題は(…)一般の日本人にとっても両国での人間関係の比較研究の問題として興味があるはずである。」
『血にコクリコの花咲けば』は題名を浪速高校の寮歌の一節から取られたものでコクリコとは第一次大戦の激戦地ベルダンの野に乱れ咲いていたポピーのことという。(言葉だけの類似点を見れば、与謝野晶子に「ああ皐月(さつき)仏蘭西の野は火の色す 君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」という歌がある。)
同書は「学生時代—人生を選ぶ」、「大村海軍航空隊時代—消えゆく栄光の中で」、「第二二海軍航空隊司令部以後―傲慢と退廃に抗して」の3部より成り、戦雲急を告げる時代から敗戦までが回顧されている。森嶋はこの本を書くにあたって担当者から「なぜ反戦運動が起らなかったか」をぜひ書いて欲しいと依頼されたという。第一部の末節にそれがある。
反戦運動はなぜ起らなかったか
森嶋はまず丸山真男が『日本の思想』(岩波新書)で描いた近代日本社会の成り立ちをおよそ次のように説明する。「明治体制はまず第一に、国家秩序の中核となるべき支配階級(諸侯、士)を根本的に改築し直さなければならなかった。維新の功労者たちは、日本は『万世一系の天皇が君臨し統治する国であるとなし、日本の国体をそのように定めた。しかし他方被支配階級(農、工、商)は、ほぼ江戸時代のままに放置され、そこでは伝統的な共同体の生活様式が温存された。
丸山によれば、これら異質の二階級は、分離されたまま並存したのではない。支配階級の原理は下降して共同体的生活原理に影響を与え、また逆に後者は上昇して、前者にも影響を及ぼす(丸山著47頁)。こうして国家秩序の中枢である『国体』の論理と、家父長的な『閥』・『情実』的人間関係との『複合』が、日本の各階層で見いだされるようになった。こうして丸山は『天皇制社会(丸山の下線)の円滑な再生産は右の両契機が――むろん時代の変化や組織の性格で比重を異にするが――微妙に相依存して、一方だけに傾かないことによって可能となった(同書48頁)』と結論する。
森嶋は、しかし事実はそうではなかったと指摘し、大正末期に昭和天皇が摂政の地位についた頃からこのバランスは崩れ天皇制は凶暴化しだした、丸山はこの丸山モデルがカタストロフィー現象に対して免疫を持たなかったことを説明すべきだという。「その説明がなければなぜ日本に反戦運動がなかったかを説明することもできないのである。」
森嶋の説明はこうである。「明治体制の天皇中心の『国体』観念は日本の近代化のためのものであった。したがってそれは徴兵制度、義務教育と不離一体になっておりこれらの個人に向けられた施策は共同体の実情と矛盾するものでもあった。」当時の若者や子供は生存のために必要な労働力であったからこれらの制度は共同体組織に対する挑戦であった。国軍の最高統帥権を持つ天皇は国民を兵卒として自由に動かすことができ、また外交大権によって国民も政府も自分(とその取り巻き)の意思によって戦争をさせることができた。明治中期までにはこういう条件が成立しており天皇は絶対君主としていつでも凶暴化する可能性を持っていた。他方、東洋の盟主という思想も古くからあったので欧州大戦の虚をついて東南アジアに攻め入る「大東亜戦争」をおこす思想的準備はできており、大東亜侵略のイデオロギーも準備されていた。このように、日本の国体はカタストロフィーを許す体制であり、丸山のいうように上部の支配者と下部の共同体の運動が均衡を維持することはほぼ不可能であった。
明治維新の功労者たちが日本の皇室をイギリスの皇室に近いものにしたいと思っていたことも事実である。しかし明治中期以降には天皇を日本古代の絶対君主に先祖返りさせる動きが生じた。その動きは昭和初期に激変し、ついには天皇を神に祭り上げ、それに疑問を呈するものは非国民であるとののしられるようになった。「日本は20世紀を通じての超一級の原理主義国になったのである。」
なぜこのようになったのか。それを知るには(丸山が無視した)徴兵制度と義務教育制度という、ともに1972年(明治5年)に確立された、共同体の個人メンバーに働きかける二つのルートに注目する必要がある。政府はこの二つの制度を利用して被支配階級の意識改革を行い、共同体の体質変換を成し遂げ、それをある時は従順な、ある時は熱狂的な政府派にしようとした。それには時間がかかったがこの二つの制度を導入した約60年後の昭和初期には日本全体が挙国一致で行動することが可能となった。
明治大正期の青年将校や右翼の思想家はこの傾向をさらに一層進めて「昭和維新」の必要を説き、それに呼応して政府も教育体制を右傾させた。小学校は国民学校に編成替えされ、青年学校の創設は義務教育を実質的に延長した。これらにさらに加えて、軍事教練も導入されて教育は軍隊制度に結びつけられた。支配階級のイデオロギーである「国体」も再検討された。いわゆる「国体明徴運動」であり、新しい「国体」思想にそぐわない者は徹底的に攻撃され排除された。
「こうして昭和初期に教育を受けた人間には、反戦運動をするという意思は毛頭なかった。」このことは彼らが好戦的であったことを意味しない。かれらの多くは自らの意思を表明する前に国家への兵役義務を果たさねばならないと教えられていたのである。日本古来の共同体をこのような「洗脳」(indoctrination)によってステレオタイプ化した個人の集団に改変したことが凶暴化した天皇制を成り立たせたのであった。
天皇制の凶暴化をなぜ阻止できなかったかについて森嶋は本書の末尾において以下のように敷衍している。そもそもの明治の体制の中のプリンシプルが平等対等ではなく一つのプリンシプル(皇国思想)が他の思想を制圧しうる体制であった。このような動きを阻止しうる最大のチャンスは「天皇機関説」問題が生じた時であったが、その機を逸した後は、天皇制は個人主義、自由主義、民主主義という近代社会の基本原則の何れとも両立し得ない体制に退化してしまったのである。「明治期に形成された国体観念が、個人のプリンシプルの尊厳と不可侵を明言したものでなかったことが、日本においてイデオロギーの独走を許し、天皇制の凶暴化をもたらしたのである。」
日本の知識人たちの振舞い
「なぜ反戦運動が起らなかったかったか」に対する森嶋の回答は以上で終るがこれに続く日本の知識人についての森嶋の分析も興味深いものがある。
「天皇制がこのような凶暴段階に達してから国民は、軍部に追従するか、あるいは逆に進んで右翼思想をあおりたてて軍部を先導するかした。」森嶋は数多いそれらの学者や思想家を「便乗の徒」と呼んでいるがその代表的な論者として著名であった難波田春夫(東大教授)の世界観を紹介している。それはまさに大東亜共栄圏史観そのものであるが、近衛が政権を投げ出して東條英機が政権に就く1カ月前のものである。森嶋の近辺にも偽装マルクス主義者の右翼教授や「日本経済論理」という奇怪な理論を唱導する柴田敬教授などがいた。
このような学問的荒廃と戦ったのは高田保馬(京大教授)ただ1人であった。高田はその著『民族論』の序文で次のように述べている。
「私は本書において民族を全体社会と見ず、国家を全体社会と見ざることを述べている。私の眼にはこれが英国の有力なる学者の見解であるにせよ、ないにせよ……一定の論理を前提にする限り何人も承認すべき学説である。」高田はこのように当時学界を支配していた全体主義を否定したが同じころに出版した『第二経済学概論』の序文で「願(は)くば余生を挙げ残れる精魂を傾けて真理の鉱夫となろう。今や硝煙洋の東西を暗くするとはいえ、私の祖国に報い得る道は之をおいて求むべくもない。」
当時の学会はイデオロギー優先で学問の推進力である理性を国体イデオロギーに奉仕させた。だから森嶋にとっては学者や学生が理性によってイデオロギーを打ち破ることが「反戦運動」であった。
大村海軍航空隊入隊から敗戦まで
先に引用した高田保馬を畏敬する森嶋自身も、京大、阪大で同僚と衝突したことを述べているように、論理を突き進めて論争を挑む学者であった。残念ながらそれに反感を持つ学者は少なくないが反論を試みる学者にはあまりお目にかからない。その森嶋に軍隊ではどう映りまた森嶋はどう行動したであろうか。
通信科士官として戦線には向かわない軍隊生活ではあったが、通信兵としての限りにおいて1943年12月から敗戦までの2年間に森嶋が体験した軍隊生活とはどのようなものであったか、機械ではない兵士たちの一挙手一投足が写し出されていて興味深い。
鹿屋基地で終戦の詔勅を手にして最後の任地、垂水に帰ると、どの兵舎からも酒の勢いで歌う「予科練の歌」や「ラバウル航空隊」の蛮声が聞こえてきた。森嶋はたまりかねてある横穴兵舎に飛び込んで「お前らはそんなに戦争に負けたのが嬉しいのか。今日ぐらいは静かに出来んのか」と大声で叫んだ。下士官が1人走って来て「口惜しいです」といいながら、森嶋にすがりついて泣いた。戦争は壕内戦を戦う寸前に終った。「…あの時、私が『そんなに戦争に負けたのが嬉しいのか』と怒鳴ったのに対して彼はどうして『嬉しいです』と言い返さなかったのだろう。また私も『生き延べたのだ。喜べ』とどうして率直に言えなかったのだろう。彼も私も愛国者の仮面をかぶってペイトリオティズム・ヒポクリット(偽善的愛国者)として戦争時代を生き抜いたのであろうか。そして最低限のヒポクリシーを保たせる役割をしていたのが軍紀であり軍律であったのか。」(11/4/25)