s-ichihata@pa2.so-net.ne.jp 2021.3.7 16:19
33年ネット諸兄姉どの(2021.03.07)
コロナ禍、徒然なるままにドキュメンタリ―を再見している。ミャンマーの状況は、元国家元首で引退したタン・シィエ総司令官、現総司令官ミン・アウン・フライン将軍の二人がどう出るかにかかっている。フラインは6月に定年になるそうだ。どうなるか?
皆さんもNHKデマンドですぐ見られます。なお、筋立てをわかりやすくするために変えてあります。
◎BS世界のドキュメンタリー「ミャンマー民主化の内側でアウンサンスーチーの真実」(On the inside of Myanmar Dictatorship)
ノーベル平和芸に輝く「民主化の星」として世界の希望を集めながらも、今では少取民族への迫害を黙認し、世界から非難を浴びるアウンサンスチー国家顧問。彼女が現在のポストに就くまでの舞台裏では軍部とどのような駆け引きが行われていたのか?また、少数民族ロヒンギヤをめぐる問題で、なぜ確女は有効な手立てを講じられないのかデンマークの取材班が、首都ネピドーの奥の院で締り広げられる権力闘争を追う、2021年2月23日放送(2019.12に放送したもののアンコール)2019年デンマーク・フランスBullitt Film,Liltle Big Story, ArteFrance制作 の要旨である。
★歴史をさかのぼれば、1940年代、アウン・サン・スチーの父、アウン・サン将軍は、第二次大戦中は、英軍と一緒に日本軍とたたかった。その後ビルマの山岳地帯に住む少数民族、しかも言語も宗教も違う少数民族を糾合してビルマ独立のためユニオン・ジャック(英国)ーこの言葉も久しぶりに聞くーとたたかった。その時にロヒンギャ族は、英軍側についた。このことからビルマ人とロヒンギャ族との亀裂は決定的になった。アウン・サン将軍は政敵に暗殺されたが二つのものを残した、一つは軍、もう一つは娘のスーチーだった。軍とスーチーとは、もともと同根だったのだ。
軍事政権はEUはじめ各国から厳しい経済制裁を受けていて、民主化をすすめなければいけないことは分かっていた。約20年の自宅軟禁から解放されたスーチーは創設したNDLの党首として、議会にいくつかの空席ができたので立候補して議員になった。(補足;2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー率いるNLDが45議席中43議席を獲得した。)しかし、議席の8%に過ぎなかった。軍系列の与党のUSDPにとって許容できる数であった。スーチーは憲法尊重を宣誓した。
総選挙が実施されることになった。軍は、重要なことは占星術師の占いで決めていた。最高の地位の占い師によってこの日なら与党のUSDPが勝利するという占いで決められたという。(平安時代の陰陽師の世界に戻ったような感じですね。)
当時のタン・シィエ総司令官(1992-2011年まで国家元首)は、民主化を受け入れる前に、新憲法を作り、軍を①軍政(国防省、国境省、総務省)と内務の二つに分けた、軍政は軍の支配下意においた。②将軍は退任した後も訴追されない、さらに③この憲法の改正ができないように議会の1/4を軍人として、さらに④憲法59条のF項を設け、外国人の親族がいるものは大統領になれない規定を設けた。スーチーの息子は英国籍であった、従って大統領にはなれない。軍は明らかにスーチーを敵とみなしていたのだ。2015年11月8日、総選挙開催 結果はスーチーを議長とするNDLの大勝であった。彼女は憲法第59条の規定で大統領になれなかったので、かっての同級生の側近ティン・チョーが大統領に就任した。(補足;ティン・チョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治は終わった。然し、憲法の制約で大統領にはなれなかった。スーチーは大統領への道を模索続けた。当時、与党USDP党首で下院議長になった軍のNo3であった40年間軍にいた、与党党首シエマンが、自分が大統領になるべく、スーチーと手を組み、スーチーも20年も軟禁生活で政治に疎かったのでこれに乗った。憲法改正は75%+一人で可決できるはずであった。然し、結果は388票で否決された。突如、与党党首シエマンは自宅軟禁になった。これは前国家元首だったタン・シィエの指示だったといわれる。相変わらずの軍の長老政治が行われていた。
スーチーは怯まなかった。憲法の抜け穴を探し、国家顧問法をつくった。弁護士のコー・ニーの発案だった。国家顧問法は大統領にもアドバイスできることになった。当然軍は反対だった。大統領のティン・チョーはスーチーの言いなりになった。軍は民主的独裁者と揶揄した。然し、弁護士コー・ニーが暗殺された。軍の権力を犯すものへの回答であることは明白である。なお、都合の悪いことにコー・ニーはイスラム教徒であった。スーチーは葬儀に参列しなかった。ロヒンギャ族がイスラム教徒であることからしてイスラム教徒の葬儀に出席することが問題を複雑にしかねないからであった。
ロヒンギャ族とは、2016年10月、150人ほどの武装過激派組織が、ミャンマーの警察署を襲った。軍は抜本的改革と称して大軍団を派遣、いわゆるジェノサイドと言われ、12日間で 15万人がバングラ脱出した。ミヤンマー民衆は喝采を送った。スーチーは、票を失うことを怖れ、非難することをしなかった。複数のノーベル賞受賞者からスーチーに対する非難が起き上がった。スーチーは次第に軍との関係、政治との関係など、表舞台から身を引いた。軍司令官のミン・アウン・フライン将軍「ベンガル人(ロヒンギャ族のこと)はミャマー人ではない」はっきり言っている。この間にロヒンギャ族の状況は、偵察衛星でもわかるようにひどい状況になっている。
これは、軍の罠だったという。ミン・アウン・フライン将軍は、この状況を楽しんでいるであろう。
2021.02.20 第8333国連安全保障理事会が開かれた。ミヤンマーのホウ・ビー・スアン国連大使は2016.10,2018.8のロヒャンギャのテロ攻撃がすべてを台無しにしたと語った。(以上)
★昨年、2020.11.8総選挙では、スーチー率いるNLDは476議席のうち議席の8割、396議席を獲得し、国軍系のUSDPはわずか33議席をとっただけであった。
2021.02.01 Coup d'etat発生、専門家によれば今年6月、定年を迎えるミン・アウン・フライン将軍が、大統領を希望したが、逆に引退を迫られていたという。或いは、憲法59条の改正、軍人割り当ての廃止などもあったのかもしれない。
201.02.26 国連総会 ミャンマーでクーデター前から国連大使を務めるチョー・モー・トゥン氏は26日、選挙で国民に選ばれた民主政権を代表する立場として国連総会の会合で演説した。ミャンマーの民主主義復活に向け、「ミャンマー軍に対し行動を起こすため、あらゆる手段を使うべきだ」と訴えた。
「われわれは、軍事クーデターを直ちに終わらせ、罪のない人々への弾圧を止め、国家権力を人々に返し、民主主義を回復するため、国際社会のさらなる強力な行動を必要としている」と強調した。政府当局者が、全権を掌握した国軍を非難するのは異例だ。大使は、合法的なミャンマー政府を代表する選挙で選ばれた人々の代わりに発言するとして声明を読み上げ、演説の最後には、国軍クーデターに抗議する人々が使う私はNLDを代表している」と強調し、昨年11月の総選挙で当選したNLDの議員らで組織する連邦議会代表委員会(CRPH)から託された声明を読み上げた。スーチー氏らの拘束を「人民の要望を完全に無視したもの」と批判し、抵抗を示す3本指を立てるポーズをとって、クーデターに抗議した。(ロイター、2021.3.6朝日新聞デジタル)
チョー・モー・トゥン国連大使は、軍事政権を上記のように非難したとして、いったん解任? 添付の記事のように、解任が取り消された。混乱は続くだろう。
イチハタ