八丈島戸松感想への返信と人脈コメント

Q坂本幸雄:2017.3.31

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八丈島戸松感想への返信と人脈コメント

戸松さん 3/31

・素晴しい感想文に感謝。貴兄の八丈島への50年も前の、学生時代の旅行記を面白く拝見しました。20歳代の貴兄の旅と80歳を超えての小生の旅。当然に両者体験の時代背景、置かれたその境遇の違いを比較しながら大変興味深く読みました。

・もしも今回、小生の替わりに貴兄がこの八丈島に50年ぶりに再度の旅行を試みたと仮想してみると、貴兄は、多分、「不変と変化」その双方から新たな感動と驚きを禁じ得なかったであろうと思惟する。その不変の最たるものは、島で接する人々の、今も変わらぬ人情こまやかな温かさと、その変わらざる素晴らしい気候・風土とその景観であろう。その一方に於て、島の諸々のインフラの整備・充実ぶりには大いなる驚きを覚えたであろうと思いました。以下貴兄の感想文に対する拙文を送信します。

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・この島は、伝統的に半農半漁の寒村であった状況から、多分今や、観光産業がこの島最大の生業へと大きく変化しているのであろう。その施策によって道路や観光客誘致のための“植物公園ビジネスセンター”や“歴史記念館”なども大いに整備され、島を訪れる観光客も島の素晴らしい自然や豊かな動植物だけでなく、この島の稀特な歴史にも触れて、他の島にはないその歴史的特異性にも大いに感動を覚える仕組みになっているのである。

・貴兄の回想では、島中泥だらけの道でそのぬかるみに大いに辟易した経験が語られているが、今回3日間、“町営の観光バス”で島中の主要道路は何回ともなくぐるぐると廻ったが、当然にすべての道路は舗装され、驚くことに、島の高みからの眺望を観光客にご披露すべく、空高く島の峰々を結ぶような空中道路の如き道路も整備され、観光客は、“名古の展望台”や“大坂トンネル展望台”から島全体の壮大な景観とコバルトブルーに輝く太平洋の眺望を満喫できるのである。また空港からのメインストリートは、道路の左右に7,8mもあろう高さのフエニックスの綺麗な並木道となっており、宮崎の青島に見るような南国らしい情緒を醸し出している。

・幸いなことに、この島は、江戸時代の幕府の直轄地であった縁(えにし)を引き継いで明治政府は伊豆諸島を東京都の所轄とした。そのため、只今の島の財政は、財政豊かな都に大いに助けられている状況が一観光客にも伺えるのである。東京直轄だからこそ、観光立地のための上記の素晴らしいインフラ整備も可能なのであろう。最近の3月の報道に、小池知事が八丈島を視察し、伝統工芸の担い手育成に意欲を示したとの報道もあり、東京都はこの島を含む島嶼地域の振興には更に引く続き大きな力を入れようとの姿勢も伺える。(因みに島の車は全て“品川ナンバー)

・ところで、今回の「八丈島旅行記」は、 “P&Qネット”だけでなく、いつもの如く小生の“メル友拾数名”(大学・高校・会社・異業種交流会など先輩・同僚・後輩などで長年のメール交信を通じて相互に打てば響く“やまびこの如きメールの送受信仲間”を続けている仲間)にも送信した。話題の内容のせいもあってか、今回も送信後2.3日で10通程度の返信を戴いた。そのうちの幾つか、皆さんの興味も惹きそうな返信内容を参考までに紹介したい。

1.八丈島旅行記、楽しく読ませていただきました。江戸城奥女中“ジュリアンおたぁ”の流刑処罰は、朝鮮征伐、小西行長、キリシタン信仰など数奇な運命の物語として感動を覚えました。朝鮮貴族かもしれない出自、異郷での転変、小西行長のキリシタン信仰の強さなどを想像すると、ロマンが広がります。

2.関ケ原合戦で西軍最強の軍団を率いた宇喜多秀家は、多くの豊臣恩顧の諸大名が徳川家康に寝返るなかで奮戦し、八丈島での晩年でも徳川に一徹な対抗心を持っていたことには、興味をそそられます。たしか父親の宇喜多直家は裏切り当たり前の権謀術数を駆使してのし上がった人物でしたから。

3.流刑地の孤島には感動を掻き立てられます。平家物語で鬼界島に流され只一人取り残された僧俊寛の故事が私の子供のころの強い思い出です。私より上の世代では後醍醐天皇の隠岐配流が有名でしょうか。ナポレオンの流刑地セントヘレナ島は現在でも観光地化に向きそうもない僻遠地、地球の最果てにあることを最近知りました。(以上1,2,3は会社のかつての部下)

4.小生は昔オーストラリアで会社の駐在員として生活したことがあります。ご既承の通り、オーストラリアも流刑の地としてスタートしました。勿論地理も背景もちがう西洋の流刑地を八丈島と比べるのはあまり意味がありませんが、今のオーストラリアにはあまりかつての流刑地であったと言う面影や雰囲気がなく、人々もそのことはしばしば口にしながらも(自分はその後の移住者の子孫だからという意識もあってか)何のコンプレックスも持っていないようでした。当時流刑者の監獄があったメルボルンは、いまでは世界一住みよい町ということになっていますが、小生が住んでいた頃はまだ英国気風の強い街で、シドニーのアメリカ風のオープンな雰囲気とは違った伝統的な雰囲気の強い街でした。いまから思えばそれはそれでよかったという感じです。(大学時代のオーケストラの同期仲間)

5.八丈島の住民の生い立ちや、大きな人口減の現状、車の台数が人口より多いなどのお話は大変興味をひかれました。特に流刑者の中でも、初期のころは、政治犯や思想犯が多かったとのことで、島の文化の向上に大きな影響をもたらした方々が歴史に残っているなどのことは、なるほどとうなずかされました。こんなに遠い島まで流された人にとっては、島に到着した日から、すでに自分の残りの一生はこの地で過ごさざるを得ないことを覚悟して、前向きに、島の住民のために、自分の知識と経験を存分にふるって、子孫のためや後世のためにも頑張ったのでしょうね。

6.宇喜多秀家の生涯については、特別大きな感動を受けました。波乱万丈の前半生と、それよりも倍以上の長い人生を生き抜いた生命力には感嘆しました。島の生活では、全くの凡俗に徹したとありましたが、この生き方にも驚きました。前半生の、一国を預かる戦国時代の武将としての日常は、もちろん毎日が生きるか死ぬかの危険きわまりない生活の連続であり、自国の人民の命と生活を守るという大きな責任もあり、最後には、天下分け目の大戦に、自分の責任ではない原因で敗北を喫して、徹底的に逃亡して、ついに島流しの運命にさらされて、八丈島に落ち着いた彼は、前田家からの取り計らいがあっても動かなかったのは、私は、なんとなくわかるような気がします。武将としての一徹さもあるとは思いますが、平和な現代に生きる私の平凡な感覚では、徳川により、天下は平定されたとはいえ、長く続いてきた戦国の時代が、いつまた元に戻って戦国の世にならないとも限らないのではないか。それよりも、貧しい生活を余儀なくされているとはいえ、何年かを過ごしている八丈島の、何物にも脅かされることのない、誰をも脅かすことのない、平和な日常がいつまでも続くことが信じられるこの世界こそが、人間の幸福であることを悟った、または、悟らされた秀家だったのでは、と、私は、ふと考えました。

7.伊豆諸島特産の「あしたば」を、おいしく頂いたとありましたが、私も「あしたば」が大好きですが、関東では八百屋さんで売っていますが、関西ではスーパーでもあまり見かけません。東京で住んでいるときは、独特の香りと味が好きで、大好物でした。漢字で「明日葉」と書くそうで、葉を摘んで帰って明日見に行くと、もう摘んだあとから新芽が出てきているので、そういう名がついたと聞いたことがあります。私は好きなので、畑で栽培しましたが、種子を取って次の年に播いてもなかなかうまく育ちません。やはり伊豆諸島の気候風土があっているのでしょうね。(以上5,6,7は日本監査役協会研究会での異業種の仲間)

8.八丈島旅行感想記を楽しく読ませていただきました。何よりも場所も人も事柄も知らないことばかりなので、ずいぶんウィキペディアを頼りにしました。八丈島の地理的条件ではまるで日本の中の外国のような話。自然現象でも乗客負担での足止めを食らうなどその状況に驚き同時に無事戻ってこられたのだと結果はわかっていてもヒヤヒヤするものです。次いで八丈島の人の面では受刑者だけが心に残っていましたのでガツンと頭を殴られた気がしました。

・島流しになった受刑者、彼らはそれぞれの人生を流人として生きたことはいうまでもないでしょうが、黒潮に乗って九州・四国・本州から漂着した漁師などこの島の現在の生活とその文化を育む上で大きな歴史的影響を与えているという事実です。この人たちのことが頭から飛んでいました。

この漁師たちに加え島流しになった受刑者の中にも、政治犯、思想犯、技術者や医師・学者などが背負う歴史について述べられた紀行文だと感じています。

・重いテーマの中でガイドの女性が自分自身の出自について語ったことはホットしました。「彼女自身も自分の七代前のご先祖は、仙台藩の刀を預かる役目であったが、その刀の管理上の不手際で江戸時代にこの島へ島流しになった」との言葉を読み、ご先祖が流罪を背負っていたとはいえ、島では誇りを持って生きてこられたのだろうと推察できました。

・何も知らないということでは、八丈島といえば流刑地、佐渡と並んで受刑者が島流しになった地としか考えていませんでした。歴史の答えが出た後になっていえば、宇喜多秀家は倒れることが分かっているような豊臣政権を支えて奮闘した英傑だったのですね。

・歴史は一人の英傑によって動くものではないというものの、その時の社会が英傑を呼び出し、産み出すことは違いありません。この英傑も八丈島では穏やかだったと勝手に思います。そのことを知って、私たちも気分が穏やかになっていくようです。

・最後に坂本さんが呟くように書かれた「中でもこの島には、その極めて奇特な歴史が齎す特異な息遣いが今もいろいろと聴こえてくるように感じたのである」に私たちもこの紀行文からその気分を感じ取るようにしたいものです。(会社のかつての部下)

9.八丈島旅行記、興味深く読ませていただきました。父島母島と同じくらい遠い所にあるような気がしていましたが(何と無知な!)お天気さえ許せば、飛行機で手軽に行けるのですね。いつぞやTVでみて、海の美しさ、植生の豊かさに魅せられましたが・・・坂本さんの活動性には今更のように感服です。

・流人の島とは聞いていましたが、宇喜多秀家も関ヶ原後の生涯をここでまっとうしたとは存じませんでした。硫黄島の俊寬の生き方とつい比べてしまいました。(高校時代のクラスメートの才媛)

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坂本幸雄:qskmt33@spice.ocn.ne.jp

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