コロナの季節の拾い読み(付録6)
(1)文化大革命以来の中国の権力闘争を再検討した余韻を確かめるために松本重治の『上海時代』を紐解いて大いに得るところがあった。北京や天津が日本軍の影響下に置かれ、国民党政府が南京に集結した時代に上海は中国の外交上の首都であった。中公文庫で上下2巻950ページに及ぶ松本氏の大著は日中両国の政治家、外交官が群れをなし、それぞれが人間味豊かに描かれていて、外交の舞台裏が理解できたように思えた。日本政府は外交上、今では考えられないような無理難題を蒋介石に押し付け、蒋介石はその都度譲歩を余儀なくされています。つまり日本は何度も外交的に矛を収めるチャンスがあったのですが蒋介石をギリギリの線まで追い込んで抵抗を呼び込んだことがよくわかります。
このように同書からは詳細に検討されながら、なお粗削りのまま推し進められた日本の軍事・外交政策が浮かび上がり、なお改めて検討したいと思いますがここでは思いがけなく3人のそれぞれ尊敬すべき大先輩に出会うことができたのでそれをご紹介したいと思います。その3人とは、有吉明、浦松佐美太郎、佐藤尚武の三氏です。
登場するあまたの日本人の中で著者は最も尊敬した日本人外交官として日中和平のために力を尽くした有吉明大使を上げています。「丹後の宮津出身(父は宮津藩士)、東京高商(現一橋大学)の専攻部で経済学を学んだ」人と紹介され、その働きや人となりについて数ページにわたって書いている中に次のような文章があります。
「今にして当時を回想すれば、彼に対する評価は、ひとしお高くならざるを得ない。陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎などと、日本外交史上の優れた外交官を上げてみると有吉さんは、十指を屈するなかに、当然入るべき人物だったと信ぜられる。」松本氏は後に、志を達せずに帰国して単身病を養っている有吉大使を見舞っています。
思いがけなく、浦松佐美太郎の名に太平洋会議(Pan Pacific Conference)との関連でお目にかかった。1929年に京都で開かれた第3回の会議(最大の問題は満州問題であった)は新渡戸稲造が議長を務めたが日本代表団のセクレタリー3人の一人として松方三郎、松本重治とともに名を連ねている。この会議の後で満州をめぐる戦争を回避したいという観点から東京政治経済研究所を虎ノ門に設立したがそれを語り合った同志の中にも浦松の名が出てくるが、わが師、「山中篤太郎君」の名前もある。浦松氏は後に中国問題をめぐって松本氏の協力者としても登場します。
浦松氏は言うまでもなく『たった一人の山』という往年のベストセラー・リストで見てはいたがそれ以外に何をした人かはまったく知るところがなかった。『たった一人の山』を読むと「ウェッターホルンの西山稜をやった日本人」として世界の山岳会に知られたこともあったようだ。山歩きの会で山岳部OBに聞いたところでは、山岳部に所属してはいたが独立独行型であまり知られていないということだった。だから浦松氏の心情をこの本の「あとがき」にある彼自身の文章によってお伝えしておく価値があると思う。
「スポーツには、遠いギリシャの昔からそうであったように、英雄的な要素がある。古典音楽にしばしば現れる英雄賛歌のような高調したリズムは、青年の胸に波打つリズムと似かよっている。この本の文章を書いた若い著者は、そのような交響曲に耳を傾けつつ山を想い、山を仰ぐときには、彼の胸の中に、そのような音楽のリズムが音高く鳴り響いていたのであった。彼の想像の中では彼自身が英雄であったのだ。そうでなくして、どうして雪と岩との非情の山の世界に、命をかけての登山ができたであろうか。」
佐藤尚武氏は終戦当時の駐ソ連大使としてソ連に和平の仲介を求める政府の指令に心ならずも従ってモロトフ、スターリンの術中に陥った悲劇の外交官として知られるが戦後は参議院議長として活躍の舞台を与えられた。佐藤はわずか4か月の短命で終わった林銑十郎内閣の外相として中国政策に新機軸を打ち出した。松本の著書も佐藤の新方針を称賛しているが、大杉一雄の『日中十五年戦争史』は従来の広田(弘毅)・有田(八郎)の主流派外交と著しく異なる佐藤の見解をより詳細に伝えている。
衆議院の演説で佐藤は「一九三五、六年危機」について以下のように述べている。「戦争の勃発という意味の危機、日本がそれに直面するのも、しないのも私は日本自体の考え如何によって決まるものであるという風に考えるのであります。もし自分がその意味での危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して日本は、危機を欲しない、そういう危機は全然避けていきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで其の危機はいつでも避け得ると確信いたします。」
これは松本の著書を読んで「日本は何度も外交的に矛を収めるチャンスがあったのですが蒋介石をギリギリの線まで追い込んで抵抗を呼び込んだ」という私の感想そのものを言い表しています。林内閣の後に来たのが近衛内閣で、外相は広田弘毅である。「事実、佐藤は蘆溝橋事件が起こるや、日本軍の長城までの撤退と華北返還を中心とする和平案を湯浅内大臣と広田に献策したが広田の態度はまったく消極的であった。」城山三郎は『落日燃ゆ』で戦犯に指名された唯一の文官である広田の弁護に努めているが、大杉はもちろん、概して批判的な表現は抑える傾向のある松本も一様に広田の無為無策を嘆いている。
(2)前回イギリスの新聞の特徴について書いた際には日本の新聞ジャーナリズムの中枢を担っている記者クラブについて私の持論を展開する結果になりました。嬉しいことに、この私の見解を完全に支持するフランス人記者の発言をヤフー・ニュースで目にしたので、それを引き写して以下にご紹介したい。記者会見の現場に出没するベテラン記者だけにムダがなく要所をついています。また私が英国の例を述べたのに加えてフランスのジャーナリズムの主張が重ねられることによってわたしの見解に重みを加えています。(以下、下線は大島)
菅政権発足から100日超。(12月)25日には3回目の首相会見を実施したが、これまでの会見は海外メディアには、どう映っているのか。日本駐在歴23年、仏リベラシオン紙のカリン西村記者(50)に聞いた。
――首相会見をどう見ていますか。 8年近くの官房長官時代、菅氏は文書を読み上げ、即答できない質問には官僚がメモを渡していた。総理になっても同じ。本当の記者会見をしたことがないのだなと思います。
――会見と呼べるものではない、と。 自分の言葉で語っていません。記者が事前に質問を伝えて、官僚が作った回答の原稿を読み上げているだけです。それを記者は一生懸命、カチャカチャとタイピングする。ならば、原稿を配ればいい。厳しい質問には少し自分の言葉で切り出すが、後はメモを読むのみ。安倍前首相よりひどいと思う。
――フランスのトップの会見はどうなのですか。 大統領は数多く会見をしているわけではありません。一方的に話をすることも時々あります。しかし、大統領の会見は多いときには200人超の記者が参加し、事前の質問通告はなく、メモを読み上げることもない。挙手する記者全員の質問が尽きるまで、自分の言葉で答えます。それは、政治家の仕事の一部なのです。
――首相会見では、不十分な回答に対しての再質問ができない。25日の会見でも、記者の再質問を司会が止めていた。 本当にうんざりしています。真正面から答えない側の逃げ得を許すことになる。記者の「知る権利」を閉ざすもので、再質問禁止は報道の自由を侵害しています。ただ、記者側にも問題があります。
――といいますと。 首相の答えが不十分だった場合、次の記者が突っ込めばいい。ちゃんと答えるまで、記者が繰り返し問えば、逃げられない。記者も準備通りの質問に終始し、アドリブがない。首相も記者も台本通りという印象です。
――報じ方にも問題がありますか。 一番印象に残っているのは、私が別室で音声のみ傍聴した2回目のグループインタビューです。日本学術会議問題が主題でしたが、菅首相は10回以上、繰り返し事前に用意したメモを読みました。質問に窮して、答えられなかったのです。異様な光景でした。この場面が最大のハイライトなのに、ほとんどのメディアは、発言内容を伝えるだけで、首相の困惑ぶりを報じなかった。
――まっとうな会見にするためには何が必要ですか。 棒読みで済ませられる菅首相は楽ですよ。首相に自分の言葉で語らせる会見にするには、メディアが不満を持ち、もっと求めないといけません。事前に質問を伝えることをやめ、再質問も要求する。メディア次第で仏大統領のような会見は日本でもできるはずです。 (聞き手=生田修平/日刊ゲンダイ)
(3)以前、代表的な英紙をご紹介し、アメリカの政権交代後の先行きについての論調の一例としてコラムニストのサイモン・クーパー氏をご紹介した。そのFTの次号(12月19日号)にそのクーパー氏の「2020年の報道問題(“The challenges of covering 2020”)」と題する新聞論があり、告白的で考えさせる論点を含んでいるのでこれも私流に要約したものをご紹介することにする。クーパー氏(以下SKとする)はコラムニストであるから以下はコラムニストとしての立場からの発言である。
SKは反トランプ、アンチ・ブレグジット(anti-Brexit)として偏向を指摘されることがある。それはその通りで、このいずれもがコスモポリタンとしてのSKには受け入れ難いからである。このような批判に対しては2つ反論を挙げることができる。一つは、ファイナンシャル・タイムズは専門家の見解を尊重する。(もちろん専門家だからといって盲信するのは望ましくない。)前回ブレグジットについて書いたときSKは元国家安全保障顧問、中国史専攻の教授、ヨーロッパ政治専門の教授と話している。
専門家の専門家たるゆえんは変転常なき現実に適切に対処する能力である。もしブレグジット後の貿易交渉の結果、主権が強化され単一市場へのアクセスが万全なものとなったのであったなら、ブレグジットは予想外にうまくいっているということになり、SKの判断は影響を受けるだろう。同様に、もしトランプがビジネスマンらしく政策を実行し、パンデミックに巧く対処していたら、私はそれを認めていただろう。
もう一つは、FTに入社して早々に叩き込まれるFTの基本的なイデオロギーは、不正確な記事は退屈な記事に劣るということであった(注)。SKは自分のコラムの事実関係のすべての根拠をサブ‐エディターに提出し、サブ‐エディターはまた改めて自分でそれをチェックする。読者の中にはSKはFTの方針に沿った記事を書くという人がいる。そうした方が見放されたと考える読者が救われてFTは喜ぶかもしれないがそんなことはない。コラムニストとは自分の考えを表白する者をいう。いずれにせよ、SKは2016年(この年トランプ政権成立)以来、自分が読者の考えを変えることができるなどという幻想は抱いていない。SKは誰かを説得するためではなく、重要な問題についてとことん考えを究めようとしているだけだ。
コロナウイルスを別とすれば、2020 年はアメリカの大統領が自らの民主主義の転覆を試みた年であった。それはほとんどが英語のおしゃべりではあったが、ハリウッド映画顔負けの暴力を潜在させているので目を離せなかった。お蔭でSKは人類の大多数が抱えている問題から注意をそらされてしまった。SKが触れずにしまったこと、そこにSKのもう一つの「偏見」があると言ってよいだろう。
SKは2011年に中国を訪れた時に中国語のできない自分は赤児に等しいと思わざるを得なかった。ウイグル人の強制キャンプについてこれまで一言も書いたことがないのは情けないとしか言えない。中国は中国語を理解する同僚に任せざるを得ない。しかし中国が世界で最も突出した国になるとすればSKの無知は今や救いようがない。(ここでコラムニストとレポーターの違いを知ることができよう。)豊かな西欧の首都(パリ)に住んでいるSKには足元の白人貧困層も盲点だがそれ以上に開発途上国一般について僅かしか触れていない。
記録上最も暑かった夏にSKは気候変動問題もほとんど無視していた。これはSKが十分にコスモポリタンでないからだと言えよう。北ヨーロッパの温暖な気候帯に住むSKはこの世界最大の問題に対しても免疫性がある。バングラデシュやナイジェリアとは言わなくとも、(森林原野の大火災に見舞われた)カリフォルニアやオーストラリアの記者であったならばもっと真剣に考えたことだろう。
マイケル・ルイスのような練達のノンフィクション作家でも「気候変動を劇的に表現するのは難しい。…手遅れになってからでなければ。私に気候変動の本は書けない。誰も見向きもしない」と話している。しかしこの弁明はお粗末だ。おそらく、私たちが気づかなかっただけで2019年12月は人類史にとって最高の時だったかもしれない。
SKの致命的な偏見は、精彩のある白人が主人公の英語の物語に引きつけられる点にあるのかもしれない。そこに自分の同類を見つけてSK自身の実存性(identity)を明らかにしたいのだ。この種の偏見はSKが多くの読者と分かち持つ偏見である。
(注)英国には一般紙とは別に発行部数の多い大衆紙がある。値段も安く、文章も短く読みやすい、センセーショナルな記事を売り物にするもので一括して「タブロイド紙」と呼ばれる。王室関連の記事はパパロッテイ的な取材で読者を引きつけている。ブレグジットを主導した1人、ボリス・ジョンソン現英首相はテレグラフ紙(タブロイドではない)の記者時代にセンセーショナリズムに走り、記事を捏造して首になったことが知られている。
管理人宛
このところステイ・ホームの日々が続き、旅行記、山歩記が途絶えてしまいました。
いつかそのような記事を書ける日々が戻ることを願っていますが今回はこれまでの「拾い読み」の落穂拾いをしました。
満州事変以降の日中関係を読む中で記憶さるべき事績を残した3人の大先輩に遭遇し心慰む思いをしたことからお伝えします。
大島昌二