33年ネット諸兄姉どの(2024.12.29)
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英雄たちの選択(NHK2024.11.25)フェートン号事件
NHKのあらすじ;ヨーロッパでのフランス革命とナポレオン戦争が、思わぬかたちで日本に飛び火した「フェートン号事件」。イギリス海軍のペリュー艦長率いるフェートン号が、突如、長崎に来航!出島のオランダ人を人質に取り、長崎湾内に居座った!イギリスの目的は何なのか?無事に人質を救出し、異国船を追い払うことはできるのか?対応に迫られた長崎奉行・松平康英の選択は?ペリー黒船来航の50年前に日本を襲った衝撃の事件の真相に迫る!
★松平康秀(やすひで、ヤスフサともいう。1768.3.23~1808.10.6);高家旗本前田清長の三男、松井舎人に入婿,2000石の家督を相続する。幕府への届け出では病死となっている(website)。
司会;磯田道史(1970.12.24~慶応大文学部卒、歴史家、 、浅田春奈(アナウンサー)
出演;岩下哲典 (1962.9~東洋大学卒、幕末維新史)、鈴木康子(1976.6.29~法政大社会学部卒、花園大学教授、長崎奉行所研究者) 、島田久仁彦(1975年生、同志社大卒、アマースト大卒、ジョンズ・ホプキンス大学院卒、元国連紛争調整官、環境・エネルギーや交渉プログラムのコンサルタント)語り;松重豊
2024年11月25日放送(C)NHK、NHKオンデマンドで見ることができる。
劈頭、磯田は「ナポレオンのせいで長崎奉行が腹を切った―これは見てのお楽しみ」といい、
「薩長がイギリス、幕府がフランス」という構図は、その選択をめぐって大きくその後の歴史を動かした」という。(確かに、ドイツ(ヒットラー)でなく、イギリスと組んでいたら世界史は変わっただろう)。
英雄たちの選択(NHK2024.11.25)
フェートン号事件、ペリー来航の50年前、文化5年(1808年)
遠島奉行(おんとう)の長崎奉行が管轄する出島、言わずと知れたオランダ商館があった4000坪の埋め立て島である。そこにオランダ人15人ほどが駐在している。
中心部から15k離れて遠見岳(120m)に香焼遠見番所がある。1808.8.15日、6:30分複数の番所から一隻のオランダ国旗を掲げた異国船が見つけられ、午前10時、長崎奉行松平康秀(41歳、2000石の譜代旗本、ただし本人は公家の婿養子)に伝えられた。
オランダ商館長、ヘンドリック・ドゥーフは、オランダ船は季節風にのり、5月~7月に来るのが通例であったのでやや不審を感じていた。とにかく臨検のために小舟を出し、オランダ船に近づいた、オランダ船からもボートが下ろされた。両者が出会ったときに、ボートからサーベルを抜いた乗組員が乗り込み、オランダ商館員二人を拉致して引き上げてしまった。驚いた長崎奉行所の役人(日本人)は海に飛び込み逃げ帰ったという話であった。その時、オランダ国旗はなく、イギリス国旗に代えられていた。その後、大砲を積んだ三艘のボートが湾内を回り偵察した。翌日も湾内をウロウロしていた。
このフェートン号は全長48m、大砲38門を装備、乗員350名のイギリス巡洋艦で、艦長はフリートウッド・ペリュー、若干20歳であり、オランダ船の拿捕を求めて意気揚々と東洋にやってきたというわけだ。(父親初代エクスマス子爵エドワード・ペリュー、当時は海軍少将、東インド諸島方面の司令長官であった。)
ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff、1777年12月2日 - 1835年10月19日)は、オランダがフランス革命軍に占領され、オランダ東インド会社が解散した後の主にナポレオン戦争中の1803年-1817年に、出島のオランダ商館長(カピタン)に就き、米国船などを雇い貿易を行ったオランダ人。単にヅーフとも呼ばれる。(website)
長崎の町ではオロシアが襲ってきたと大混乱になった。これは文化元年(1804年)、ロシア船が通商を求めて入港したが、幕府は半年もまたして通商拒否をした。怒った艦長のレザノフは部下に命じ、樺太・択捉を襲撃した事件である。
★当時の欧州の状況;1789年7月14日に始まるフランス革命、ヨーロッパを一変させたフランス革命(ルイ16世を・マリーアントワネット(若き時代、ツヴァィクの本を読んだ)をギロチンにかけて)王制を打倒したフランスの市民革命の波及を恐れた欧州各国に包囲され、孤立した。その時、ナポレオン・ポナパルドが立ち上がり、包囲網を破った。1795年、1780年英・オランダ戦争で敗れている弱体化しているオランダを征服し属国とした。
1799年オランダの東インド会社は倒産する。
イギリスはトラフルガーで1805年ホーレショ・ネルソン提督率いる艦隊とフランス&スペイン連合艦隊と激突、勝利する。イギリスは、制海権を握り、イギリス軍艦は、オランダ船の拿捕を求めてアジアにまで出てきたというわけだ。
(ロンドンのトラフルガー広場には海戦で戦死したネルソンの銅像が屹立しているし、君主以外では初となる国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。中将からの昇進は行われずに、王として葬られたという。むろんロンドン時代に見学している。ついでだが、1815.6ワーテルローで3月にエルバ島を脱出したナポレオンと戦ったウエリントンの墓もここにある。鉄製の葬儀車はワーテルローの戦利品を溶かし、三日間でつくられたと書いてあった)。
★1610年、オランダは神君家康公からご朱印状(渡航許可証)をもらっている。しかも、1637年(寛永14年)10月25日から始まる島原の乱(島原・天草の一揆)でオランダから支援を得たこともある。何があっても、二人のオランダ人人質は救出しなければならない。
出島のオランダ商館は、この時代、イギリスに制海権を奪われ、自国の船を使えなかったので、中立国の船をチャータして使っていた。
寛政9(1797年)年;アメリカ船
寛政10年;アメリカ船
寛政11年;アメリカ船
寛政12年;アメリカ船
享和1年;アメリカ船
同2年;アメリカ船
同3年;アメリカ船
文化3年;アメリカ船・ブレーメン船
同4(1807年)年;アメリカ船・デンマーク船
アメリカ船をチャータしてオランダflagを掲げ出島に入港させいる。イギリスは制海権確保のために、オランダ船の拿捕、オランダ東洋植民地、ジャワ島などの攻撃を行っている。
鈴木教授によれば、当時のオランダは、ガタガタであったという。1780年に英蘭戦争に敗れ,1799年、オランダ西インド会社が破産。
岩下教授は、1812年とらえたロシア人からナポレオンのことを聞き知ったのは、この事件から4年後であった。ロシア語の新聞を翻訳して、アムステルダムがナポレオン帝国の第三の都市であることを知った。
・幕府は、この状況を、特にオランダが消滅したことを知らなかった。
・幕府がオランダ船が来航するたびに聴取した風説書によれば、1789年のフランス革命を知ったのは発生から5年後であった。
岩下教授に言わせれば、長崎のオランダ人に詰問しても「そういうことがあるかもしれませんが、わたしは知りません」と言を左右にしていたのであろうという。
また、岩下教授は、幕府はカトリック国とは絶対に貿易をしないという祖法をとってきている。オランダがカトリックのフランス領になったことがはっきりすれば、オランダの特権は失われるだろうという。(幕府がカソリックを危険視していたのだ。島原の乱以後、ポルトガルとも外交断絶をしている。)
このころ、異国船がしばしば現れる。
鈴木教授は、正徳の改革(1709年から1716年の間、6代将軍家宣、新井白石)の時、オランダの貿易額を減らした。イギリスもフランスも日本に入る余地があると見たのだろうと推測する。
(正徳の改革で特に有名なのが海舶互市新例という制度。これは海外貿易によって流出する金や銀の量を抑えるために年間の取引価格は銀3000貫に制限し、さらに貿易船の来航数を30隻までに減らし、さらに制限した銀の代わりとして国内製品の輸出量を増やすという方針がとられた。)
松平康秀は、使者をおくる。結局水と食料を要求していることが分かった。無論、松平康秀は江戸早飛脚で報告した。しかし、二週間はかかる。松平康秀が決めるしかなかった。
二日目の催促の手紙の最後に今夜までに返事がないときには、明日朝、湾内の日本や中国の船をすべて焼き撃ちすると書いてあった。松平康秀は激怒する。彼はすぐ兵をだして攻撃しようとしたが、兵力がない。規定では1500人の守備兵とされているが、佐賀藩、福岡藩も財政がひっ迫、兵を引き上げて140人~150人ぐらいしかいなかった。
松平康秀は、水と食料を渡すことを選択する(松平康秀は攻撃を考えていたが、前記のオランダ商館長ドゥーフの説得によるものだったらしいーwebsite)。ただし、午後9:00一回目は水については少なくして兵が到着するまでの時間を稼いだ。とにかく、オランダ人の人質は取り返した。
翌朝、7:00水を運ぶ。後は援軍到着をまつばかりだった。矢の催促に各藩はご猶予くださいというばかりであった。しかし、12:00フェートン号の姿はなかった。
★緊迫の53時間は幕切れを迎えた。松平康秀は奉行所で切腹した、享年41歳であった。
長崎奉行の切腹が幕閣に与えた衝撃は大きかったと云う(website)。
鈴木教授は、高家の出身だから、武士以上に武士にこだわったのだろうと云う。
磯田は、生きていてもお役御免、閉門ぐらいであったと思われると言っている。
担当藩であった佐賀藩は番所頭切腹、藩主は100日間蟄居となった。
黒田藩、佐賀藩は「捨足軽」―体に火薬を巻き敵艦に乗船して自爆するという戦闘員を作った。両藩それぞれ80名いたという。
島田久仁彦は、そこまでするか。なんでそこへ行くかね、そこまで切羽詰まっていたのか、これは究極の選択だという。かれはアラブでは、女性・子供に自爆させているのを見ている。(太平洋戦争末期のカミカゼに連なることには間違いない)。
屈辱の佐賀藩では嘉永5年(1852年)9月、反射炉をつくり、200年遅れていた大砲をつくれるようになった。薩摩・長州藩に次ぐ雄藩になったという。
この事件は、太平の世に衝撃をあたえた。幕府は長崎で大演習を実施した。
幕府は通詞にフランス語、英語、ロシア語まで勉強させた。事件から6年後、6000語を収録した英和辞典が作成された。通詞が使った英語のアンチョコも残っている。
磯田は、この事件があったからペリー来航の際、十分とは言えないが、江戸台場に砲台をつくり、武士人口を多く、植民地化は困難とみて貿易取引国になったという。もし、フェートン号を撃沈させ、ペリュー艦長も死んだときは、父親の提督が怒り、アヘン戦争(1840年)になったかもしれないという。磯田は、人質も取り返し、長崎の街も焼かれず、究極のソフト・ランデングだったという。
イチハタ