R森下一義:わが読書遍歴2 2023.12.29

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カウンタ 00025(2024.2.2 09:00) 

読書遍歴と題して変なことを書き始めたが、要するに読書環境になかったことを言いたいのである。


闇舟はあらゆる意味で闇舟だった。エンジンは無い。木造帆船である。船頭は得体が知れない。ソ連軍には秘さねばならない。旅券はない。そんな闇の船を、日本に帰りたい一心の日本人が金を出し合ってチャーターしたのであった。しかし出征軍人の留守家族や養成工には払う金が無い。そこをどう工夫したのか。難事業であっただろう。小学5年生と2年生の子供には幾ら払ったのか知るよしもない。

同乗の30人は一応知り合いである。しかしこんな修羅場で知り合いも何もなかった。乗ったその晩から兄弟二人はデッキに寝かされた。デッキに寝ると朝、夜露に濡れているのであった。

小生のヨット趣味はここに発する。


城津の港をそっと出て、約10日で南朝鮮の註文津という港に入った。ここに米軍のキャンプがあり、帰国の船を待った。キャンプでの生活は浮浪児そのものであった。

帰国の船はリバティ船という戦時貨物船であった。佐世保に入った。日本の山の緑が目に沁みた。朝鮮の山には樹の緑が無かった。


日本での行く先はリュックサックの後ろにしっかりと書かれた、愛知県渥美郡福江町小中山の祖父母の許である。佐世保から次々と先に向かう人に託された。

名古屋の駅地下で滞留したり、どこぞの農家に招かれたり。最後の人は福江のバス停で去った。いきなり電話を受けた祖父はさぞかし吃驚仰天したであろう。戦後何の音沙汰も無かった孫が突然福江に居るというのである。祖父は4キロ離れた小中山から走ってきた。まだどこにも自家用車などない時代であった。


9月22日に闇舟で出て、小中山に着いたのは10月の末になっていた。幸いすぐに中山小学校5年生に編入された。小中山は渥美半島先端の半農半漁の寒村である。兄弟は早速農作業を手伝った。稲を刈ったり、麦を踏んだり。祖父の小舟で刺網を入れて夜中待ったり。


幸い両親も1年半後無事に帰国し(顔を合わせるまで互いの安否を知らなかった)、新制中学に進学する直前に豊橋市に移った。この頃から戦後の不摂生が顔を出し始めた。身体中に吹出物はでるし、PTSDには悩まされるし(そんな言葉はまだ無かったが).中学の1学期を結核で休学した。

こうして私は年次は遅れていないが義務教育の2年近くを欠いている。その影響は確実にあり、時々考えが奇矯に走る。


はぐれまいと必死に小生の手を握って付いてきた弟は大学も付いてきて一橋を出た。



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