2020年4月2日東京新聞 朝刊(転載)
赤い三角屋根がシンボルの「旧国立駅舎」が駅前に戻ってきた。
2006年にJR中央線の高架化のため解体されたが、国立市が再築して復活し、新たな機能を備えた「まちの魅力発信拠点」として6日に開業する予定。高架化事業の浮上から数えると27年。保存を訴え続けた市民の「駅舎愛」が結実した。
「国立は、駅舎があってこそ街の良さがあるんです」
旧駅舎の保存を目指してきた市民団体「赤い三角屋根の会(国立駅舎を活かす会)」の中町仁治さんは力説する。
旧駅舎の完成は1926(大正15)年。南側を学園都市として開発した箱根土地株式会社がモダンな洋風建築に仕上げ、立川、国分寺間の新駅舎として鉄道省に寄付した。三千坪の駅前広場から一直線に延びる道路の先に一橋大学が開学。駅舎は市民や通勤・通学者に親しまれ、街の発展を見守ってきた。
◆「開かずの踏切」解消で撤去へ
◆街の発展を80年見守ってきた駅舎
☜大正15年ごろに撮影された国立駅前(くにたち郷土文化館提供)
解体が現実問題になったのは93年。三鷹駅以西の「開かずの踏切」を解消するため、都の高架化事業が持ち上がったのだ。そのまま進めば、駅舎は撤去されて消える。保存を望む市民の声は強く、市は都とJRに要望書を提出したり、有識者会議で歴史的価値を強調する見解をまとめたりと、息の長い活動を始めた。
「赤い三角屋根の会」は初の市民団体として2001年に発足した。代表に就いた伊藤孜さん(81)は市内で育ち「絶対に駅舎はなければならないという強い思いがあった」と振り返る。
☜旧駅舎の保存運動を続けた伊藤さん(左)と中町さん
◆「なんとしても残したい」
会は署名集めをはじめ、機運を盛り上げる駅舎での結婚式やコンサート開催などに奔走。別の市民団体も次々と誕生し、市と市民が一体となった運動は盛り上がった。市の担当職員として、01~07年に団体設立の後押しやイベントの調整を担った吉本静三さん(72)は「市民と活動する中で熱い思いに押され『何としても残したい』と思うようになった」と話す。
しかし、実現までは苦難が続いた。駅舎を維持したまま高架化する構想や、建物を解体せず別の場所へ移動させる「引き家」案が浮かんだが、技術的な問題などから断念した。06年の撤去が迫る中、市が考えたのは解体して部材を保存し、再築する方法。古い建物の再築には、防火問題など法令上の壁もあったが、市が有形文化財に指定すればクリアできると分かった。手続きを完了させ、ついに保存の道筋がついた。
☜旧国立駅舎の柱などが保管されていた保管庫内。国立駅名標や飾り窓枠なども保管され、開放時には見ることができた=2011年1月12日、国立市で
◆当時の材料も使って駅前に再築 観光案内所も
駅があった場所のすぐ近くにJRから用地を取得でき、高架化後の一八年に着工。部材の約七割は建築当時のものを再利用し、腐食した木材は取り換えて、できる限り忠実に建てた。建物内には往時の切符売り場と改札も再現され、観光案内所や展示室が設けられる。
☜再現された切符売り場
「オープンしたら、一緒に頑張った人たちと再会したい」と吉本さん。伊藤さんは、駅舎復活を見届けることなく亡くなった仲間に思いを寄せ「長い長い日々だった。駅舎のファンは全国にいる。本当によかった」と喜んだ。