鎌倉時代の感染症との闘い

Q森正之:2020.12.3

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〈危機の時代を生きる――創価学会学術部編〉第4回

 鎌倉時代の感染症との闘い

2020年12月3日

創価大学法学部教授 小島信泰さん

 感染症は、鎌倉時代にも流行していたことが知られている。その中で、日蓮大聖人やその門下たちは、いかに立ち向かっていったのか。「危機の時代を生きる――創価学会学術部編」の第4回のテーマは、「鎌倉時代の感染症との闘い」。創価大学法学部教授で、日本法制史・仏教史が専門の小島信泰さんの寄稿を紹介する。

歴史を学ぶことは将来の糧に

 人類を何度も脅かしてきた感染症。日本も例外ではなく、古代から今日に至るまで、感染症との格闘の連続であった。しかし、学校教育で学ぶ歴史は、政治史が中心で、いかに多くの尊い命が感染症によって奪われてきたのかに目を向けることは少ない。 

 そもそも、私たちは日頃、過去の歴史と、どう向き合っているのか。つらい過去は早く忘れて、未来を向いて生きたいと思うのが常ではないだろうか。しかし、過去を変えられなくとも、過去に学ぶことの中から私たちが今直面している現実の本質を知り、新しい未来を創造していくことができる。 

 日蓮大聖人は、仏法の教えによって人々の幸福、社会の平和、国家の繁栄を説かれたが、大聖人御在世当時にも、疫病の流行という現実が立ちはだかっていた。その苦境の中での大聖人と弟子たちの奮闘を振り返ることは、これからの私たちの将来の糧となる。 

 その意味から、ここでは、鎌倉時代の感染症との闘いに焦点を当てて考察したい。

「道理」を重んじた武家社会

 鎌倉時代は、武家社会が確立した時代であった。当時の書状や古文書には、「道理」という言葉が頻出する。道理とは、主従関係を中心とする武家社会の秩序を貫く生活規範でもあり、鎌倉時代の武家法である「御成敗式目」も道理を成文化したものとされている。しかし、道理の根本を何に求めるべきかについては確たる基準がなかったと考えることができる。 

 鎌倉時代初期の天台僧・慈円は史論書「愚管抄」を著し、歴史上の出来事も道理によってもたらされているとした。乱れ始めた現世のありさまを、「末の世の道理」の現れとしており、いわゆる末法思想の端緒の一つとしている。

疫病で人々の苦悩が充満

 平安時代末から鎌倉時代にかけて飢饉や疫病のほか地震などの自然災害も頻発し、末法思想が現実味を帯びていった。そのことは、鴨長明の「方丈記」などにも記されている。人々の苦悩が充満する中、鎌倉幕府は疫病に対してなすすべがなく、仏教諸宗や神道による救済に頼るしかなかった。幕府は経典の書写供養、密教による祈とうや神社への奉幣を進めていったが、人々の苦悩は一向に収まる気配がなかった。 

 この時代の疫病は、天然痘や麻疹、近代以降に命名されたインフルエンザなどであったと考えられているが、当時は疫鬼・鬼霊・邪気といったものが原因と考えられており、そのため神仏への祈願が盛んに行われたのである。 

 また、鎌倉時代は改元が多かったことが知られている。そこには現在と同じく、天皇の即位に伴うものも含まれるが、当時は“元号を変えることで穢れが払われ、災難がやむ”と考えられており、天変地異や疫病などの理由で改元されることがあった。

大聖人が訴えた法華経の重要性

 当時の諸宗も、それぞれの立場で疫病対策をしたが、今世を否定的に見て死後の世界に救いを求めたり、他者を顧みずに自己中心的な教えに終始したり、呪術的な祈とうによってその場限りの結果を求めたり、はたまた厳しい戒律一辺倒で非日常的な解決を図ったりといった内容で、このような対策では、個々の人間に平等に内在する尊極の生命を開花させることはできず、困難に立ち向かう勇気や決意を湧き立たせることもできず、ついには人々を混乱させ、かえって疫病を蔓延させることになってしまったのである。 

 これに対し、大聖人は法華経に説かれた「仏法の道理」にのっとった御教示をされている。 

 具体的に言うと、あらゆる仏教経典を読破された大聖人は、法華経こそが一切衆生の久遠の生命を説いた尊極の経典であることを明らかにされ、諸宗の迷妄は全て法華経を第一にしていないことに起因していると破折された。 

 諸宗の権威と幕府の権力は、互いに依存し合い、仏法の道理を探究することもなく混迷していた。それはまさに「末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふ」(御書1056ページ)ような状況であった。そこで大聖人は、幕府の最高権力者・北条時頼に対し、その誤りを諫めるため、「立正安国論」を上呈されたのである。 

御書「仏法と申すは道理なり」

 大聖人は国家権力に対して勇敢に挑む一方、門下の一人一人に対しては個々の状況に応じたこまやかな指導・激励に徹された。

 「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(同1169ページ)とは、弟子の四条金吾が主君の勘気(とがめ)を受けた苦境の際に送られた言葉である。 

 「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ」(同1295ページ)との仰せにもある通り、「主に勝つ」とは、主君の信頼を勝ち得ることを意味する。今日の私たちにとっては職場や地域の信頼を得て社会に貢献することが仏法の道理であり、それは勇気ある祈りを通して勝ち取っていくものである。 

 厄年の不安を訴えた金吾の妻に対しては、「弓よはければ絃ゆるし・風ゆるければ波ちゐさきは自然の道理なり」(同1135ページ)と、確信の祈りの中にこそ仏界の生命が涌現すると、仏法の道理をもって激励されている。 

 娘の病気を報告した門下に対しては、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや(中略)法華経の剣は信心のけな(勇)げなる人こそ用る事なれ」(同1124ページ)と激励された。何者をも恐れぬ師子のように、病に勇敢に立ち向かっていく勇気ある信心を勧められている。

自らの健康を守り、民衆に同苦する

 法華経の祈りは世間法の道理にも通じ、あらゆる智慧を生かしていく力を持っている。大聖人は、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」(同254ページ)と仰せである。 

 大聖人の身延入山後の生活は、厳しい寒さに加え、長雨や降雪があれば、山中への食糧の運搬も滞り、窮乏生活を余儀なくされた。また老齢のためか、健康を損なわれることもあったようだ。そのような状況下で、大聖人の治療に献身したのが、医術の心得があった四条金吾であった。大聖人は、金吾が処方した良薬によって病状が改善したことを、たびたび書状に記されており、「教主釈尊の入りかわり・まいらせて日蓮をたすけ給うか、地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり」(同1179ページ)、「日蓮が死生をば・まかせまいらせて候」(同1182ページ)と心温まる謝辞を送られている。また病に悩む門下には、金吾は「善医」(同985ページ)であると紹介されている。 

 金吾は薬の処方だけではなく、秋の旬の時期には新鮮な柿を、月日のたった頃には、より滋養のある「串柿(干し柿)」を供養するこまやかさであった。柿に感染症の予防効果があることは本連載の第3回(11月6日付)でも紹介された。まさに師弟一体となって、当時の医学と生活法を生かし切る智慧の闘いをされたのである。 

 現代の私たちも、健康を勝ち取るために食事や睡眠、運動など、それぞれの置かれた環境で、最善の努力を地道に積み重ねていくことこそが、道理に貫かれた法華経の実践となる。

 大聖人が「立正安国論」を上呈された思いは、「安国論御勘由来」に「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」(同35ページ)と記された通り、苦しむ民衆を救済せんがためであった。 

 大聖人の祈りの根底には、常に民衆への同苦があった。その思いを「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」(同721ページ)とも表現されている。 

 大聖人の慈悲の祈りと行動は、後世の日本人にも大きな影響を与えた。生涯、法華経信仰を貫いた宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『宮澤賢治全集12』所収「農民芸術概論綱要」筑摩書房)との言葉も切実に響いてくる。コロナ禍の中に置かれた私たちもまた、自身の健康だけでなく、感染者の平癒と医療従事者の安全を真剣に祈っていきたい。これも、仏法の道理からの自然の発露なのである。

希望を開く力は日々の祈りに

 今、私たちが置かれている状況がいかに厳しくとも、大聖人の行動や思想からは、人の命を支える内発的な力は全ての人に備わっていて、その力を信じ、涌現させていくことが真の信仰であるという真実を学ぶことができる。 

 大聖人にとって、仏法とは「道理」である。ここで注目すべきは、道理とは私たちの信仰に根差しており、信仰とは日々の祈りにある。祈りとは、現実を見据えていかなる困難をも乗り越えていく力であり、未来を切り開いていく希望である。

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〈プロフィル〉

 こじま・のぶやす 1957年生まれ。創価大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(法学、東北大学)。専門は日本法制史・仏教史。創価大学法学部専任講師、同助教授を経て現職。その間、駒澤大学法科大学院非常勤講師、都留文科大学非常勤講師、英国ロンドン大学SOAS客員研究員を歴任。東洋哲学研究所委嘱研究員。創価学会学術部員。副支部長。

冬の保存食・干し柿が軒先に(徳島・つるぎ町)。四条金吾も大聖人に供養した