新憲法はどのようにして生まれたか?(その3)
1946年4月17日に公表された「憲法改正草案」は、枢密院(天皇の最高諮問機関)による審議を経た後、6月25日に衆議院本会議に上程された。この第九十回帝国議会は日本国憲法の審議をする事実上の憲法制定議会だった。この議会では幣原に代わって吉田茂が内閣総理大臣、金森徳次郎が憲法担当大臣であった。14名の委員からなる「憲法改正案委員小委員会」が政府草案を逐条検討、修正して衆議院の共同修正案を決定することになった。
GHQの憲法草案の本文が全92条であるのに対し成案となった日本国憲法は103条あるから前文と基本原則に変更はないものの、文言の変改は多少なりともあったことが認められる。そこで今日にいたるまで多くの注目を浴び、また議論の対象ともなってきた憲法第9条をめぐっての討議を取り上げなければならない。
憲法9条の規定は以下のようになっている。
第九条〔戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認〕日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
これに相当するGHQ草案の第八条は以下のようである。「国民の一主権としての戦争はこれを廃止す他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久にこれを廃棄す 陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるへし」。
GHQ草案で「平和」への言及があるのは前文だけでここ本文には平和への言及は全くない。つまりGHQ憲法には「平和憲法」として知られる日本国憲法の「平和条項」はなかった。第九条の「国際平和を誠実に希求し」までは日本の国会審議で付け加えられたものである。
それではこの「平和条項」は誰がいつ加えたのであろうか。古閑はその著書『平和憲法の深層』で従来の研究者が気づかなかったこの問題を詮索して苦心の末にそれを(第九十)帝国議会議事録の中に見出した。同書にはその経緯が詳述してあるがそれを要約すれば、社会党の片山哲が「社会党修正案」を念頭において発言し、文言の作成には鈴木義男、森戸辰男の粘り強い努力が大きかった。自由党総裁の吉田茂はあえて修正の必要を認めず金森徳次郎も同様であった。金森は少し好意的に「御趣旨に付きましては全く同感」としながらも「規定これ自体は是でその趣旨が現れて居る」と述べていた。
この本会議の後6月28日に衆議院に「帝国憲法改正特別委員会」が設置され委員長に芦田均が就任した。金森はこの委員会でそれまでの態度を一変した発言をし、芦田委員長は委員長として最後に以下のような政府への要望を行った。「真の世界平和の理想に向かって、民衆の思想感情を要請することは、非常に困難を伴う仕事であります。私は政府がこの点にいっそう注意を払われんことを要望致するものであります。」(7月24日)
7月25日からは特別委員会の中に懇談形式で修正案を作る小委員会が作られる。古閑は鈴木義男がここで積極的な発言をしたことを伝えている。
「強いて固執は致しませぬが、皆さんのご意見を伺います。唯戦争をしない、軍備を皆棄てるというは一寸泣き言のような消極的な印象を与えるから、まず平和を愛好するのだと云うことをまず宣言しておいて、其の次に此の条文を入れようじゃないか、そう云うことを申出た趣旨なのであります。」
古閑は、芦田がこれに続けて、外務省から「国際信義を重んじて条約を守る」という文言がどこかに欲しいという意向のあることを汲んで、さらにいくらかの字句の修正を加えたものが芦田委員会の結論となったという。古関は、このいきさつを敷衍してさらに「社会党が努力し、芦田を通じて外務省の意向が反映されたとみることもできる」といささか曖昧な言葉を加えている。しかしその後に書かれた仁昌寺正一の著書の書評で古閑は、「鈴木の活躍は何と言っても憲法九条一項の『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』という部分を追加したことである。憲法九条で平和が書かれていることで『平和憲法』と言われているが、そもそもはGHQ案にも、政府案にも「平和」は書かれていなかった」と明言しています。
古関は同じ書評の中で、さらにGHQ案にも、政府案にもなかった生存権規定といわれる憲法二五条一項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文も「鈴木は1920年代にドイツに留学し、世界で最初の『生存権』を 生み出したワイマール憲法を学んでいて、日本国憲法を作る際にこれを活かしたのだった」と付け加えています。
これまでの本筋を少し離れますが、私はここで以上の条文に加えて、戦後の日本女性にとって最大の福音となった憲法一四条(法の下の平等)と二四条(両性の平等)をもたらしたベアテ・シロタ・ゴードン(1923~2012)の働きを記憶しておきたい。彼女はウクライナ人の両親のもとに生れ、5歳から約10年間東京で暮らした経験を持ち、その後アメリカに移住します。22歳の時に民生局員として再来日し、憲法草案作成者の1人となった。。彼女はそれを好機として男女平等の思想を、行き届いた、紛いようのない文言で日本の憲法に盛り込んだ。ジェンダー・ギャップの解消が国際的な課題となっている今日、忘れてはならない功績と言うべきです。アメリカ政府も「日米友好を深め、女性の権利を守った」功績を記念して2021年に東京のアメリカ大使館住居の1つをシロタ・ゴードン・タワーと命名しています。
前回、東大法学部教授陣の動向と対比して鈴木安蔵に触れましたが、鈴木安蔵(1904年3月~1983年8月)を中心とする「憲法研究会」のメンバーは、松本案の制作者たちが旧帝大の憲法学教授および法制局幹部の体制派であったのに対して、学者、評論家、ジャーナリストなど多様な経歴を背景とする7人のリベラル左派ないしは中道派からなっていた。自由民権運動の研究家としての鈴木は吉野作造を師と仰ぎ、戦時中も自由民権運動家たちの「私擬憲法」案を研究していた。この研究会の戦後の憲法案は新憲法になんらの痕跡も残さなかったと見られていたが古閑は、憲法学者原秀成の研究によって、鈴木の戦前の著作はGHQによって英訳もされており、また研究会のメンバーであった森戸辰男を通じて新憲法に反映されているとする。
GHQ側から見ても、近衛文麿が憲法作成を主導する可能性を阻止する役割を果たしたE.H,ノーマンはGHQ対敵諜報部員として占領開始後1カ月もたたない9月22日に鈴木の自宅を訪ねている。また民生局のマイロ・ラウエルは「私的グループによる憲法改正案に対する所見」をホイットニー民生局長に命じられて作成し「ハッシーやケーディス — またこの分野にいっそうの関心を寄せていた ― 行政に関心のあるものはみな、おそらくそれを目にしていたはずです」と証言している。
このようにして古閑は鈴木等の憲法研究会の活動を憲法改正の「地下水脈」であったと表現している。ただし鈴木は「憲法はついに、その国家におかれた客観条件の枠を超えることのできぬは、冷酷な現実である」と現実的な判断を述べており、彼の憲法草案には、平和、軍備についての規定はない。古閑はまた「憲法研究会の最大の功績は、国民主権にもとづく天皇制と自然法を基礎にすえた人権思想をいち早く公表したことではなかろうか」と要約している。
古閑とは別に愛知大学で鈴木の教えを受けた金子勝立正大学教授(慶大の金子勝教授とは別人)は憲法研究会とGHQの関係をより具体的に伝えている。憲法改正要綱第二案は45年12月1日付で研究会から鈴木義男、大内兵衛、金森徳次郎など24名に送付され、大内兵衛から速達で届けられた意見によって財政、会計の項を中心に再度検討を加え正文(第三案)が作られた。正文の作成は12月26日であり、即日幣原総理とGHQに届けられ新聞記者に発表された。GHQへは英語に堪能な会員の杉森孝次郎が赴いて日本文のものを提出した。記事として発表されたのは検閲の為の1日を置いた28日。新聞各紙に大きく報じられて議論を呼んだ。
金子勝の『日本国憲法と鈴木安蔵 日本国憲法の間接起草者の肖像』(2022年8月刊)と題する著書は憲法研究会案の全文をGHQ案と対比させた上で鈴木をGHQ案の「間接起草者」であるとする。これは古閑のいう「地下水脈」と対比される。まだ議論は尽きないが平和憲法誕生のいきさつもようやくここまで明らかにされたことを喜びたい。
鈴木たちの憲法研究会がその後表面から退いて行った理由として、日本占領は間接統治によって行われるという原則が考えられる。日本政府はポツダム宣言を受託する最後の段階で、統治者としての天皇の特権について問い合わせていた。これに対する連合国側の回答は以下のようなものであった。
“From the moment of surrender the authority of the Emperor …shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers …”
この太線で示された箇所を日本の外務省は「(連合国の最高司令官の)制限の下に」置かれる、という苦心の翻訳に逃げて抗戦派を抑え、苦境を脱します。実際にはもっと厳しい「従属する」の方が原文である英語の意味に近い。
この翻訳はかろうじて本土決戦を回避して終戦にこぎつけた苦心の結晶として記憶されるが新憲法の誕生過程にも影響を残していた。この連合国の回答は、日本統治はGHQによって、天皇及び政府を占領軍に従属させた形で、天皇と政府を通じて間接的に行われるという「間接統治」の原則を打ち立てた。従って憲法を制定するにあたって、「GHQは日本政府のみを相手にすることになり、憲法研究会のような民間組織が起草した草案を法的に取り上げる立場にはなかった。
「憲法研究会案は当時大きく報道され、鈴木も多くのメディアに論評を掲載し、GHQにも草案を提出したがGHQは見解を公表していないし、研究会に見解を伝えてもいない。政府案の制作者がすでに公表されていた憲法研究会案の制作者の意見を徴することは可能であり、また望ましいことでもあったに違いないがそのようなことはなかった。
古閑はこれに加えて「鈴木安蔵自身の問題」を指摘している。鈴木は京都大学生時代に社会科学研究会(社研)の中心的存在として教授であった河上肇(1879~1946)に親近してその指導を仰いでいた。ところが『貧乏物語』の著者として当時並ぶもののない名声を博していた河上の死の翌月(46年2月)から公表され始めた『自叙伝』には一人の見知らぬ人からの長文の手紙をきっかけにして鈴木に不信を抱きやがて袂を分つに至る事情が詳述されている。「煙のないところに火は立たない」のかもしれないが河上自身も同じ個所で自身の性急、頑固な性格も自戒している。「当時私がも少し虚心平気に同君たちの議論を聴くことが出来たならば、私はもっと考え直す余地も有ったかもしれないが、一旦その心術を疑うようになると、議論そのものまで傾聴する気になれない私であったし、それは口先ばかりで勇敢に革命的言辞を弄するものはスパイの嫌疑があるなどという噂も立っていたので、私は遮二無二、同君を遠ざけてしまった。」
評論家として多方面で活躍をした立花隆は、民間随一の憲法問題専門家として健筆をふるい、大きな影響を及ぼした鈴木の評価は「実際に新憲法が制定、公布された47年以降は河上肇『自叙伝』の影響もあって…急速に忘れ去られた存在になって行った」と書いている。
戦争が激しくなるなかで、鈴木は文筆で生きる多くの知識人と同様に、民族の優越性や大東亜共栄圏を説くようにもなった。鈴木自身も厳しく反省し、誘いがあっても大学に戻ることも10年ほど控えていた。
新憲法の制定過程を調べる中で鈴木安蔵の業績を、官学の憲法学者との対比において、あらためて見直すことになったのは大きな収穫であった。そもそもこの問題を調べるきっかけになったのは鈴木安蔵ではなく、鈴木義男への関心からであった。それは仁昌寺正一の著書『平和憲法をつくった男 鈴木義男』を読了することによって鈴木義男の生涯の事績を深く知り、彼が新憲法の平和条項の制定に大きく貢献していたことを知り憲法制定の歴史全般に関心を持ったからにほかならない。
私はすでに同書を読む以前に、一橋大学の大塚金之助教授の弁護士としての鈴木義男を知り『大塚会会報』33号(06年5月)、後にも当33pcネットにも一文を寄せていた。そして今回は上掲書の副題にあるように新憲法が平和憲法と呼ばれるに至るまでの鈴木の輝かしい働きを紹介することができた。しかしそれですべてではなかった。鈴木はそこに至るまでは東北大学法文学部の有力教授であり、その後は新発足した社会党政権の一翼を担い、憲法制定議会では大車輪の働きをするのである。
鈴木は東北大学教授に就任する前に文部省在外研究員として1921年7月から2年間の欧米留学の途に上り、さらに私費で8カ月延長、合わせて2年8カ月の留学を果たしている。ところが順風満帆に見えた学究生活は一連の軍事教育批判を口実として「左傾教授」のレッテルを張られて大学を去ることを余儀なくされ(1930年5月)、弁護士として市井に出ることになったのであった。
このようにして鈴木は彼が弁護することになる河上肇を筆頭とし、大塚金之助をその1人とする、多数の著名な思想犯(治安維持法容疑者)の弁護をすることになるがその鈴木自身も思想弾圧の被害者であった。鈴木は大塚の2年後の1894年に生れ、留学の時期も大塚(1919~23)とほぼ重なっている。ともに大戦で荒れ果てた同じ欧州の空気に触れていた。
鈴木は、法律新聞三千六百三十号(昭和8年12月30日発行)」から三千六百五十七号(昭和9年2月13日発行)」の間に11回にわたって「治安維持法の改正について」と題する論説を連載している。私は「大塚会会報第45号(2018年)」にそれを紹介しながら「鈴木義男弁護人は自らもよく学び、その論調は明らかに被疑者らの立場に深い理解を示すものであるが中でも大塚先生の論述の紹介は最も詳しいもので連載の3回分にわたっている。」と書いていたが、それもそのはず、それには深い仔細があってのことだということになる。
9月2日(土) 22:33
大島兄、
労作有難うございました。アメリカに押し付けられた憲法とは言えないことが良く分かります。それから施行後僅か3年の1950年には内外情勢が様変わりして9条関係で憲法違反の抜け道が懸命に作られ始めたことを思うと、良くぞ制定してしまったものだと思います。安田
安田兄への返信
shoji oshima 9月3日(日) 10:55
安田兄
コメントを有難うございます。本稿をまとめながら貴兄が憲法を卒論のテーマにしたのではないかと想像していました。私にとって新憲法は身に沁みついているだけのもので条文を読むまでもなくほとんど白紙からのスタートでした。
マッカーサーはソ連、オーストラリアが天皇訴追を求めていることを口実に改憲を急いでいますが、この2国が日本の武力による報復を恐れていることも軍備放棄の口実にしています。誰も言いませんが私はアメリカこそが日本による報復を恐れていたのではないかという気がしています。軍備放棄がその後の安保協定、沖縄の米軍基地化と抱き合わせであることは周知のとおりです。
大島