P大島昌二:新憲法はどのようにして生まれたか?(その2) 2023.8.20   Home

新憲法はどのようにして生まれたか?(その2) 

 

日米交渉の内容は長い間秘密にされてきましたが戦後まもなくベストセラーになったマーク・ゲインの『日本日記』(英文初版1948年)の46年3月6日の項がかなり具体的にそれを伝えていました。松本案の「憲法改正要綱」は、天皇の「神聖不可侵」を「至高不可侵」とするなど明治憲法の文字を僅かに手直しした程度のものでGHQの予想を大きく裏切るものでした。そのためにマッカーサーは松本案を拒否してGHQの草案を作ることにして2月13日を迎えたのでした。 

マッカーサーはその際、松本案の拒否を日本側に最も効果的に訓示する方法としてGHQの草案を作成することを指示し、その際に、ホイットニーの問いに答えて以下の3点を必ず入れることを指示しています。新憲法の根本原則とされるこの3原則とは以下のようなものです。 

1)戦争を永遠に放棄し、軍隊を廃止して復活させないこと。 

2)国民主権を規定するが天皇は国家の象徴とすべきこと。 

3)貴族制度は廃止し皇室財産は国家に返還すべきこと。 

GHQが急遽作成し、2月13日に日本側に提示した米国案についてマーク・ゲインの日記には以下のように書いてあります。 

草案の作成チームは早急にアメリカおよびヨーロッパの憲法の研究に取りかかったが手分けをして書き上げた草案の構成は廃止される明治憲法を踏襲したものだった。しかしこれでは足りないと思ったものか、最後にケーディスとハッセイ民生局員が憲法前文(Preamble)を加えて草案作成の全作業は2週間で完成した。青木の著書はこの草案全92条を英和の両文をともに掲載しています。 

古関彰一の著書は万全を期するためか、諸説の紹介と吟味が多く論旨をたどりにくいところがあります。そこでこの件に関しては長谷川正安著『日本の憲法』(1994年刊)の記述を採用して結論としたい。 

GHQが最初に提案した「マッカーサー草案が同年(1946年)11月3日に公布された日本国憲法の事実上の最初の草案であり」、幣原内閣の要求によって若干の修正を加えたものが公式には最初の草案となった。この場合も議会で審議の対象とされた時にも「個々の制度や条文については、かなりの修正増補がなされているが、GHQ代表のいうベーシック・プリンシプル(前述の根本原則)には変化がなかった。正確にいえば、根本原則の修正は許されなかった。」(17頁) 

 

2月22日に閣議決定(GHQ案にもとづいて日本案を作成すること)をした午後、2月13日と同じメンバーの日本側代表がGHQ本部(日比谷の第一生命館)を訪れます。GHQ側の出席者も前回と同様です。ここで松本丞治国務相は最後の抵抗を試みますがあえなく敗退します。(前回に引き続いて出席した吉田外相の発言の記録がまったくないのは不思議です。松本と意思統一をしていたものと見えます。)松本の論点の1つはなぜ明治憲法を基礎に出来ないのか(改憲の発議権は天皇にある)、GHQ草案(第92条)では改憲を天皇が発議することはできず国会の承認の後に天皇が宣布することになっているという法律論です。 

1時間40分に及んだというこの日の会談で興味深いのは憲法前文に関する論議です。松本は「この前文(Preamble)は憲法の一部か?」と問います。明治憲法に前文はありません。これに対してホイットニーは「もちろんだ。その目的はこの憲法作成の基本原則を明らかにすることだ」と述べます。この基本原則とは上にあげたマッカーサーの3原則です。ホイットニーは、前文が憲法の一部であるべき理由についてさらに次のように言います。「憲法の条文を読まない人でも前文を読む人は多いだろう。われわれはこの憲法を世界に向けて、最も直接的で理解しやすい形で示したいのだ。」 

 

日米の息詰まる交渉の陰の立役者というべきものは連合国が組織する極東委員会です。古閑は従来の憲法制定過程の研究は「底流をなした天皇制、中でも東京裁判との関係を視野の外に置いてきた」と指摘する。 

2月13日のホイットニーの爆弾発言は前回引用しましたが古関彰一はさらに以下のような言葉を付け加えて紹介しています。「あなた方がご存知かどうか分かりませんが、最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国からの圧力、この圧力は次第に強くなりつつありますが、このような圧力から天皇を守ろうとする決意を固く保持しています。……しかしみなさん、最高司令官といえども万能ではありません。けれども最高司令官は、この新しい憲法の諸規定が受け入れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると考えています。」(「日本国憲法制定の過程」高柳賢三ほか1972年、327頁) 

細部は省略しますが白洲が作成したジープウエイ・レター(前メイルの時系列表参照)と呼ばれる、経路は違っても目標地は同じだという趣旨の手紙へのホイットニーの返信にある”the outside”と表現されるグループの中心も極東委員会です。その妙に捻った英文を下にご紹介しておきます。 

“It is quite possible that a constitution might be forced on Japan from the outside which would render the term “drastic”, as used by you to describe the document submitted by me on the 13th, far too moderate a term with which to describe such new constitution … 

「貴殿が『過激』と表現した13日の我々の憲法(案)は外野(the outside)が押し付けてくるだろう憲法に比べれば『穏健』そのものだ」ということを言っているだけで英文解釈の材料としてはお粗末なものです。       

ホイットニーは明言するのを避けて”the outside” と述べた中には極東委員会のメンバーであるソ連やオーストラリアなどが含まれます。彼らは天皇を戦犯として裁きたいだけでなく、ソ連に至っては日本領土に対する野心を抱いていました。「知らぬが仏」、ウクライナの現状を見る限り、事態は疑いなく恐ろしい可能性を秘めていました。 

極東委員会は3月20日付けで米国務省へ抗議の手紙を送りますがGHQは国務相に対してなお議会での審議が残されているとして難なく乗り切ります。 

 

GHQが時間と競争した隠密作戦は3月6日のGHQの(「マッカーサーの」ともいわれる)憲法改正案要綱に結実します。これは前のGHQ案の提示の後、2月22日の閣議決定案、3月2日の日本案に続くGHQとの論戦の後にようやく到達したゴールでした。政府はそれを公表するにあたり勅語案を作成して早速その日の夕刻に参内します。天皇はそれを認可するのですがこの勅語には「すでにポツダム宣言や降伏文書といった米国政府かGHQかが作成した文書がそのまま引用されている」(古閑8頁)。 

極東委員会は1月末にワシントンで設立されその内部の「憲法・法制委員会」などで占領政策全般を議論の対象とする可能性があった。その機先を制するためには英文の憲法の「要綱」とそれを支持する天皇の決意を連合国に伝える必要がありました。GHQとしてはこれで極東委員会を説得しうる体制が整ったことになります。そこでそれまでの性急さはなくなり、その後の日程は日本側にまかされ、4月17日の草案発表に至ったのでした。 

 

ここで2月22日の閣議了承以後の推移を時系列で示しておきます。 

 

2月25/26日の閣議 22日の会談の結果が報告され「2月13日案」の翻案作成を決定 

2月27日 閣議決定に基づき草案作成を開始 

3月2日 「3月2日案」が完成 

3月4/5日 上記案をめぐりGHQとの徹夜の「30時間ミーティング」後「3月5日案」完成 

      勅語案を持って皇居に参内 

3月6日 「憲法改正案要綱を公表(5日案を微調整したもの) 

     天皇の詔勅を発表  

3月20日 極東委員会から米国務省に抗議の手紙 

4月17日 「憲法改正草案」を公表 

 

古閑彰一が指摘するようにこれまでの新憲法の研究は「底流をなした天皇制、中でも東京裁判との関係を視野の外に置いてきた」。しかし極東委員会に対する強い警戒心から明らかなように、GHQの真意は昭和天皇を安全圏に置くことによって戦後日本の統治を円滑に推し進めることにあった。その年の年頭の天皇の人間宣言はその伏線であったが憲法第一条は天皇の地位を明文化することによって天皇の存在を確実なものとした。このようにした後でGHQによる日本の占領統治は平和・安保両条約の効力が発効(1952年4月28日)するまでの7年近くに及んだのであった。 

このように、人間宣言にもその後の一連の働きかけにも天皇は積極的に対応している。時系列表にカラーで示したように、天皇は幣原内閣の申し出にむしろ進んで協力している。この間にも後に『昭和天皇独白録』として知られることになる天皇の戦争関与に関する「聞き取り」が3月14日から4月9日までに計5回、時には病をおして行われていた。(寺崎英成が主導した独白録の作成がなぜであったかについても議論が戦わせられた。) 

独白録作成の時期に並行して戦争犯罪被告人の選定が進められ、4月29日(天皇誕生日)には被告人の起訴が始まっている。 

 

2月13日の交渉開始冒頭の衝突から明らかなように日本側の案は改憲という言葉から程遠い、明治憲法に基礎を置いたままの旧態依然たるものでものだった。日米間の懸隔はたんに政治的な力の差ばかりでなく思想の近代性の差が明白でした。 

終戦の年の12月8日のマーク・ゲインの日記はその日の国会の様子を描写しています。 

カビ臭い寒い屋根裏のような委員会室で40人ほどの喪服を着て葬儀に参集したような人 たちが憲法案を討議していました。生気のない説明が続き出席者のほとんどは居眠りをしているように見えました。幣原首相は「民主主義とは世論にもとづき世論を反映する政治である。アメリカではそれは『人民の、人民による、人民のための政治』と言われます。日本では大衆の意思を反映した議会を中心として、天皇が統治すべきものです」と述べていた。ゲインは古色蒼然たる立法府に失望しますが議会を離れても同様だった。 

古関彰一の著書はこの憲法草案と無縁ではない日本を代表する憲法学者たちの動向を描いています。2月13日の会合から松本国務相らが持ち帰ったGHQの憲法案は幣原首相に報告されたほかは19日の閣議まで極秘扱いのはずでした。しかし、それが早々に一部の学者の眼に触れていたことを疑うことはできません。憲法学の権威、宮沢俊義東大教授はその1人でした。2月13日にGHQ側がはねつけた日本案(松本案)は宮沢がまとめて起草したものでしたから宮沢がそれを手にしたとしても不思議ではありません。 

指導的憲法学者であった宮沢は、前回も触れたように、美濃部達吉や金森徳次郎とともに憲法改正の必要を認めない立場である上に「女子参政権は反対なり」と主張していました。宮沢は早い機会から新憲法について発言を繰り返していますその内容は一貫性に乏しいばかりか日付などの記憶も曖昧です。しかしその後も憲法制定の過程、制定後の解説などを続け最後には新憲法を大いに称揚するに至っています。 

2月14日には早々と東大の南原繁総長は「関係諸教授と協議して、大学内に『憲法研究委員会』を設けた。委員長は宮沢俊義教授、委員は、法学部から高木、我妻、横田教授など…すべて20人』であった。日付が2月14日とわかるのは出席者の1人、民法学者の我妻栄の記録によるもので南原の記録には2月としか書いてない。 

「憲法研究委員会」の解散時期は明らかでないが3月6日の「憲法改正案要綱」の公表後まもなくであったと推定されます。我妻栄は、新憲法の問題を順次審議に入るところで突如として内閣草案が発表され、その3月6日の内閣草案の内容を知って研究会は「これほどまで新しい理念に徹底した改正を政府みずからが提唱するなら、われわれとしてはこれを支持して実現をはかるべきだ、修正を要する部分もないではない、しかしそれは枝葉末節ともいうべきものだ、要綱支持の態度を決定し実現に努力しようと衆議は一決した」と書いています。 

 

これは体制順応主義というべきか、法学者一般に見られる保守性というべきか。宮沢、美濃部、金森などの思想は戦後80年になろうとする年月の経過を勘案してもあまりにも古臭いが、それでも一概に批判することはできないという人もいるかもしれない。しかし、彼らとは対照的な正論を吐く人々もいたのである。自由民権運動の研究家、鈴木安蔵がその1人で、かれは上記のような法学者を痛烈に批判している。 

「いまなお日本の憲法(明治憲法)は民主主義的である、…悪政がなされたのは憲法の解釈、運用を誤ったからである、この解釈、運用さえ改め、悪法令さえ廃止するならば、現行憲法はそのままでも民主主義は実現できるといっている人々もいる。果たしてそうであろうか。かりに一歩ゆずって、日本憲法そのものは決して封建的専制主義のものではないとしても、そのような誤った解釈や運用を生じせしめる間隙、欠陥のある憲法は、…すでにそれだけで今日、根本的に改正されねばならないことは明白である。」(『民主憲法の構造』1946年) 

 

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