新憲法はどのようにして生まれたか?
しばらく前に私は当33pc-ネットで仁昌寺正一著『平和憲法を作った男 鈴木義男』について寄稿していました(23/04/14)。森正之君が古関彰一による同書の書評を紹介されたのがきっかけでした。次いで山田朗の書評も目にしたのでこれもあわせてご紹介してあります。
その時に説明したことですが私は鈴木義男に特別の関心を持っていたので、すでにその本は手にしていましたがまだ読むには至っていませんでした。それでも私はそこで次のように書いていました。「日本国憲 法について、それが占領軍によるお仕着せの憲法であるか自主的な日本国憲法である かについての論議は依然として尽きません。私は占領軍が発意し、骨組みを提示した ことを否定することは難しいと思っています。しかし日本の議会や法曹人がそれを俎 板の上に載せて吟味修正に務めたことを否定することもこれまた難しいことです。鈴 木義男がそこで果たした大きな役割がここに描かれているように思われます。」
その後同書を読み、合わせて古関彰一著『平和憲法の深層』(2015年4月、ちくま新書、269頁)と青木高夫著『日本国憲法はどう生まれたか』(2013年7月、ディスカヴァー携書、278頁)の2著を読んで理解を深めてここに述べたことが間違っていなかったことを確認しました。さらに収穫と言えることは、日本の憲法について、その生誕の背後にあった国際的な政治の潮流が浮かび上がってきたことです。また国民の大多数が敗戦の虚脱感に沈んでいる最中に戦後の日本再建の構想とも言うべき新憲法の制定にどのような人々がどのような構想を提示したか、そして結果としてどのような思想が新憲法に盛り込まれたかを理解することができました。
古関彰一の著書は新憲法成立の歴史を総括的、かつ詳細に記述したもので私の多くの疑問に答えてくれるものでした。これに対して青木高夫の本は副題に「原典から読み解く日米交渉の舞台裏」とあるように戦後の日米交渉の出発点を示すものでした。GHQの英文憲法草案に対して日本政府がどのように対応したかを一つ一つ英文の原典で示し、それを英文解釈の手法で著者が読み解いて見せるという独特の手法を用いています。新憲法の成立過程への関心に英語の学習を結び付ける発想はユニークで興味を引きたててくれます。
ここで早速翻訳の問題を指摘する必要があります。交渉のGHQ側の当事者はマッカーサー元帥を後ろ盾としたホイットニー民生局長官とケーディス民生局次長です。民生局とは“Government Section”ですから言葉としては民生よりは政府に近く「統治局」とでも訳した方が良さそうに思われます。軍政に関しては人事、諜報、作戦、補給の4部がありますからそれに対応させたものかもしれませんが、日本統治が軍政による直接統治ではなく日本政府を通じての間接統治であることを示すことに日米双方の意見が一致した上での訳語かもしれません。このほかにも英文のままであることによって息詰まるような交渉の経過が隅々まで伝わってくるようです。
民生局の2人の高官に対する日本側は吉田茂外相、松本蒸治国務相(改憲担当)、さらにこの2人の下で米側との連絡役としての白洲次郎(GHQ記録では補佐役)の3人です。古関氏はこのGHQ に主導された政府案のほかに日本側の自主的な改憲案として自由民権運動の研究家、鈴木安蔵の案がありますがGHQは正面からは取り上げていません。青木氏の解説はGHQ案をベースにした日本政府案がGHQの同意を得て成案となるところで終りますが、そこから国会審議が始まり古関氏の著書は上述の経過に加えてそれを引き続いて詳細に検討しています。
この古関氏の著書にはその国会審議で新憲法9条の「平和条項」が挿入されその過程で鈴木義男社会党議員の果たした貢献が書かれています。仁昌寺氏によれば、新憲法制定過程の研究は2010年代になって本格化したとのことで、この古関氏の指摘は「大きな反響を呼んだ」と言います。それまで埋もれかけていた鈴木義男の存在がようやく日の目を見るようになったのでした。
改憲に向かうGHQの動きの素早さは驚嘆すべきものがあります。8月15日にポツダム宣言の受諾が国民に知らされ、9月2日にはミズーリー号上での降伏文書への調印が行われました。マッカーサーの改憲示唆は10月11日のことで、それ以前にも不発に終りましたがマッカーサーは10月4日に近衛文麿に対して改憲の打診を行っています。青木氏の著書では改憲に関する日米交渉は翌1946年2月13日の旧外務大臣公邸で行われた日米会談に始まります。アメリカ側は上述したホイットニー、ケーディスのほかに民生局員2名、日本側は吉田、松本、白洲のほかに外務省の長谷川通訳のそれぞれ4名、計8名です。
ここで冒頭から驚くべきことが起ります。(以下はGHQの記録、日本側は松本国務相の手書きメモによります。)庭に面した陽当たりのよい部屋のテーブルに日本側が用意した憲法草案が並べてあります。ところが米側は松本が説明を始めるのを遮って「ゆっくりと一言一言を噛みしめるようにして」松本の発言を遮って日本案がとうてい受け入れ難いものであることを告げます。英文では以下のようになっています。
“The draft constitutional revision which you submitted to us the other day is wholly unacceptable to the Supreme Commander as a document of freedom and democracy.”
正に晴天の霹靂とはこのこと。そしてその上で最高司令官の考える「現在日本の置かれた状況が求める憲法の原則を体現する草案」を日本側に手渡し、その場で検討することを求めます。日本側を驚嘆させたのは「天皇の地位」と「軍備の放棄」でした。この日から日米双方は交渉の内容を極秘とすることに同意します。憲法交渉の結果が閣議にかけられ、その了承を得るまでを時系列で示すと以下のようになります。
2月13日 外相官邸会談
2月15日 白洲次郎による返信(ジープウエイ・レターと呼ばれる)
2月15日 ホイットニーの返書
2月18日 GHQ、2月13日案の回答期限を提示
2月19日 初めて閣議でこれまでの経緯を報告
2月21日 幣原・マッカーサー会談(閣議紛糾で生じた疑義の闡明)
2月22日 閣議「2月13日案」をもとに日本案作成を決定
天皇の裁可
ここまでの間に国民ばかりでなく政府閣僚までもツンボ桟敷に置いたままで日米の交渉担当者がどのような応酬を交わし、どれだけの苦心を傾けたかが青木氏の「英文解釈」から伝わってきます。日本側は松本の法律論で抵抗し、またしばしば期限の延長を求めています。
青木氏の著書では2月13日にGHQが提示した英文の憲法草案は「天皇の地位」と「軍備の放棄」を除いた全体像がはっきりしません。しかしすでに2月1日に毎日新聞が「憲法問題調査会試案」の全文をスクープ記事として発表しており、また2月8日には日本側が「憲法改正要綱(松本案)」をGHQに提出していました。13日の会議はこの松本案を討議するためでした。
松本案の作成には憲法学者である宮沢俊義など東大法学部の教授陣が参加していましたが元々明治憲法を改正する必要はないという立場で、出来上がった草案は明治憲法を基本としてそれに多少の修正を加えた程度のものでした。GHQは松本案の限界を知って13日の会合に臨んだのでした。
2月21日のマッカーサーとの会談で幣原首相の最大の関心事は天皇の地位でした。マッカーサーは「GHQ草案を了解して、天皇の戦争犯罪を主張する極東委員会の批判を逸らすしかない」と説明して幣原を納得させます。ここに日米の合意点があったのです。青木著からは「天皇の地位」が強調して伝わりますが「軍備放棄」もそれとセットになっていることはもちろんです。
極東委員会はそれまでの極東諮問委員会を改組強化するもので2月26日に発足の予定でした。マッカーサーとしては極東委員会が憲法について具体的な発言をするより先に天皇の安全を確かなものにして日本の間接統治への道を開いておく必要があったのです。またこれまでのいきさつから自国の国務省を刺激することも避けたいと考えていました。しかしGHQの上部機関である極東委員会の存在こそがGHQを迅速な行動に駆り立てたのでした。米英中ソを含む11カ国で構成される極東委員会は米国主導の対日占領政策に不満であり、改憲に関してもマッカーサーの近衛文麿との接触以来猜疑の念を深めていたと考えられます。幣原首相はマッカーサーとの会見で動かしがたいのは「天皇の地位」と「戦争放棄」の条項であることを確認してその他の点では柔軟性があると判断したのでした。
明くる22日、閣議はなお紛糾しますが結局、幣原首相の意向を汲んでGHQ草案を基礎にして松本国務相が正式な草案を作成することに決定します。その日の午後、首相は天皇に拝謁して状況を報告、天皇はその内容を承認します。ここまでが新憲法作成の前段階ですが、条文をめぐるホイットニー民生局長官、ケーディス同次官を相手とするタフな交渉はなお続き、合意による成案を得た後に国会での審議へと進みます。
日米交渉とは言いながら、占領軍の司令官の権威を笠に着たGHQと被占領国の代表の力の差は歴然としていました。青木高夫はここまでのいきさつについて次のように述べています。「独自の統治政策で連合国のみならず、本国の意向さえ無視して突っ走るGHQ。結局、意図の違いこそあれ、天皇を守るという部分で利害が一致する日本政府とGHQが、俯瞰すれば「共謀」する形で新憲法を作り上げてしまった形になっています。」
日本側を代表しながら双方の間に立って苦渋をなめた白洲次郎は憲法が発効してから20年近くの1964年に憲法調査会の報告書を手にして次のように述べています。「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきものであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、(…)それは重大な罪悪であると考える。」
憲法改正の議論は早々にして起っている。9年目の憲法記念日に憲法学の佐藤功教授は朝日新聞の論壇で新憲法の為に次のように述べています。「人々はこの憲法の定めていることにいわば慣れっこになってしまい(…)簡単に改めることができると思う人も多いようである。しかしこの憲法の新しい内容のどの一つをとってみても、それは旧憲法の下では、かりに人々がどんなに努力をしたとしてもほとんど絶対にと言ってもよいほど実現不可能なものであったのである。」
押しつけにせよ何にせよ、日本国憲法の誕生には複雑なドラマがあり、それは長年にわたって国民ばかりでなく研究者の眼からも遮られてきました。ホイットニー、ケーディスとの交渉はなお続きます。ここまでは主として青木高夫氏の著書を中心に見てきましたがわれわれの憲法には「押し付けか自主か」だけにとどまらない「深層」を吟味すべきものがあることが見えてきました。