仁昌寺正一著「平和憲法を作った男 鈴木義男」の古関彰一氏の書評を森正之兄が転
載しているのを読んで嬉しかった。このような価値のある本こそ全国紙で広く紹介し
て欲しいと思うのだが公明新聞書評欄ということだからどれだけ多くの人の目に留
まって注意を引いたものかわからない。私は同書を偶然書店の店頭で目にして入手し
ていた。最近はあまり書店を訪れないので偶然というのは単なる修辞ではない。書店
に入ってもあまり目に留まる本ではないかもしれない。
鈴木義男は私の準郷里と呼んでも良い白河市出身の政治家で昭和22年の片山内閣、次
いで芦田内閣のそれぞれ司法大臣、法務総裁(現在の法務大臣)を勤めているが戦前
は弁護士としての活躍が目覚ましい。私は鈴木が戦後最初の普選で福島2区で当選し
た日のことを覚えている。女性に選挙権が与えられた最初の選挙から帰ってきた時の
母の表情である。父母の会話から2人ともどうやら鈴木義男という名は以前から知っ
ていたらしかった。もちろん私にとっては初めての名前である。地元では「ギナン、
ギナン」と呼ばれて絶大な人気があったがやがて得票が減少し始め落選の憂き目を見
た。当時耳にした話では大臣でありながら郷里に何ら利益を誘導しなかったからだと
いう。それどころか、司法改革が行われそれまで白河市にあった簡易裁判所が郡山市
の裁判所に併合されてしまったのである。「法務総裁でありながら何だ!」というわ
けである。
それから長い年月を経てギナン先生の名前に再びお目にかかったのは「大塚会」の重
鎮であった津田内匠さん(故人)から大塚金之助教授の裁判記録を手渡され、その内容を
会報に紹介するように依頼された時だった。そこでは大塚教授の釈放嘆願書の署名人
の一人に広津和郎(著書『風雨強かるべし』で大塚教授は大月博士として姿を見せ
る)が名を連ねていることを知ったが、多くのことはすでに先生の著作集に紹介され
ているもののように見えた。その時点でただ一つだけ発見したと思えたことは先生の
弁護人として鈴木義男の名を見つけたことであった。
早速、白河に住む友人に依頼して市や高校の図書館をあたってもらいましたが地元の
発意になる伝記らしいものは何もありません。ギナン先生はその後専修大学の学長に
推されています。図書館には専修大学関係を中心にした多くの人の原稿を取りまとめ
た伝記がただ一冊あるだけで「人民戦線事件」、「団規令違反事件」、「帝人事件」
の弁護活動の見出しはあるが大塚先生の事件に触れたものは見当たらないということ
でした。その時得たものは乏しかったけれど世の中が少し広がったような気がしたも
のでした。(その後、手に入れた『鈴木義男伝』を見ると幅広い知友からの味わい深い
文章が寄せられていることが分かります。)
さて「平和憲法を作った男 鈴木義男」の著者仁昌寺正一氏はギナン先生とゆかりの
深い東北学院大学名誉教授で長年の蘊蓄を傾けたと思われる本書は本格的な伝記の乏
しい日本への贈り物の名に値するというのがまだ読了する前の私の評です。日本国憲
法について、それが占領軍によるお仕着せの憲法であるか自主的な日本国憲法である
かについての論議は依然として尽きません。私は占領軍が発意し、骨組みを提示した
ことを否定することは難しいと思っています。しかし日本の議会や法曹人がそれを俎
板の上に載せて吟味修正に務めたことを否定することもこれまた難しいことです。鈴
木義男がそこで果たした大きな役割がここに描かれているように思われます。
以下には「大塚会会報第45号(2018年)」に掲載した「大塚金之助参考文献」を転記
します。同記事に続く、写真版による『法律新聞』の鈴木義男の論説は割愛しまし
た。
大塚金之助参考文献
大塚先生の裁判で主任弁護人を務めた鈴木義男氏は「法律新聞三千六百三十号(昭和8年12月30日発行)」から三千六百五十七号(昭和9年2月13日発行)」の間に11回にわたって「治安維持法の改正について」と題する論説を連載している。これは大正14年に公布実施され、昭和3年に一部の改正が行われた治安維持法に再度改正の論議が起った機会に「この際治安維持法違反事件を在野法曹として弁護人として取り扱った二、三の経験を有する立場から」としての見解をのべたものである。 鈴木氏はこの文中で「かつて大学の教授助教授専門学校の講師たりしもの及び文筆をもって立つインテリ等の事案を担当したもの十指を屈するに足る」と述べ、それらの人々の記録を読み法廷に座して抱いた感想に過半の紙数を割いている。
鈴木氏が引用詳述する被疑者あるいは被告人は5人ほどあり、内容はいずれも当時のインテリがそれぞれの心情を吐露するもので、彼らが何によって心を動かされ、どのような哲学、経済学の著作に真理を求めようとしたかを如実に伝えるものとしても興味深い。陳述とその内容はまだほとぼりの冷めぬ訴訟事件の性質上、発言者の氏名は伏せられており、多くの伏字(〇で示される)が用いられているがそのうちの1人は大塚金之助であることが明らかである。(他の陳述者の中にもその後、名を残し、氏名を判明し得る人がいても不思議ではない。)
ここには尋問に答える形ではあるが、大塚先生自身の言葉で、生い立ち、苦学時代、留学時代、そして帰国後のアルフレッド・マーシャルの『経済学原理』翻訳の完成を簡潔に述べた上で、マルクスの諸著作の研究に没頭した様子が述べられている。それは「自分の研究上の欠陥にめざめ、又社会的現実に率直に直面するようになった」からであるが、そこに至る過程で大塚先生は日本の経済学発展の動向を吟味し、いわゆる純粋理論経済学は「科学のための科学」を唱える経済静態学であって「経済動学の説明に役立たない」と結論している。先生の経済学がマーシャルからマルクスへと転換を遂げる経緯がここに明らかにされている。
鈴木義男弁護人は自らもよく学び、その論調は明らかに被疑者らの立場に深い理解を示すものであるが中でも大塚先生の論述の紹介は最も詳しいもので連載の3回分にわたっている。その最後には警察官との一問一答を摘録して、「警察聴取書はその重ねられた問答の全部を写して居るものとは思われない。この問いを発してこの答を得る迄には種々詳細な問答の交換が為されて居ることであろう」として質問があまりに「大乗的であり、概念的ではなかろうか」と批判している。たしかに概念的に過ぎる質問に対する答の「片言隻言が正当でないと云う印象を与えるために累が被疑者に及ぶようなことあらば、被疑者もまた安んずることができないであろう。」
引用された⒖の質問の中には以下のようなものがあり、質疑を展開する警察官自身が自ら抱く疑問を問いかけているのではないかと思わせる場面もある。
「共産主義は哲学的には何を基調としているや」
「生命は何によって生まれると思うか」
「人はモノによって支配されると思うか又は人は人によってのみ支配されると思うか」
「被疑者は唯物弁証法を社会現象に就て実験したことはないか」
これらが被疑者を陥れるための罠だとしても、またその座に置かれた先生の苦衷は偲ばざるを得ないとしても、大塚先生の返答は一言にして言えば、マルクス主義の心髄に拠って立つもので帰国後の先生の研鑽ぶりを示すものと言える。
鈴木義男氏は福島県白河市出身、戦後代議士に転じ福島県二区から選出された社会党代議士として片山、芦田両内閣で司法大臣、法務総裁を歴任した。鈴木茂三郎社会党委員長は『鈴木義男』(鈴木義男伝記刊行会編)の中で「かような鈴木氏のような立派な人が、海のものとも山のものとも分からない敗戦の混乱の中で結成されようとする社会党に入党されるとは、私には思いも及ばない事であった」と書いている。この疑問に対する解答は「治安維持法に付いて」の中から十分に読み取ることができる。