パンデミックの恐怖はそれまでにも時間を自由に使えたはずの私にも時間の余裕の幅を広げてくれたように思う。何しろ外部との約束がまったくないという経験は初めてだ。朝起きて「今日は?」と考える必要がまったくないことの不思議にも慣れてしまった。この間にしたことといえばテレビをケーブル・テレビに取り換えたこと、それに伴って台風のたびに心配していた屋上のアンテナを取り外したこと、内臓電池の老化が著しかったスマホを6年ぶりぐらいで最新のものに取り換えたことぐらいである。卓上のパソコンの調子も悪くなっていたが「だまし、だまし」使っているうちに時間はかかるが遅いのを我慢しさえすれば何とか使えるようになった。田舎の学校の工作の時間に糊のつきが悪いのでイライラしていたら隣の席の生徒に「だまし、だましやるんだよ」と教えられてからこの便利な言葉には何度となくお世話になった。
3月にコロナの警戒態勢に入ってから古い新聞切り抜きなどを整理して見つけた速水融教授の意見などを紹介がてら「コロナの季節の拾い読み」と題する一文を草したのであったがその一部を新三木会の則松久夫さんが同会の月報に拾ってくれた。すでに5月のことであったが新聞切り抜きの拾い読みはまだ続けなければならない。
邦字紙ばかりでなく英米の紙誌を含めて毎日のようにcovid-19 の記事を配達されているので保存してあった昔の記事が意外な新鮮さを持っていることに気づく。目を見張った報道に往々にしてフォロウアップがないことにも気づいたりする。しかしここでは目先を変えて新聞とはどういうものかのおさらいをしておきたい。
(1)子供の頃、とりわけ田舎ではということなのかもしれないが、新聞には権威があった。子供同士でも「新聞にそう書いてあったよ」といえば議論は一件落着ということになった。大学に入って早々に上原専禄先生が小平に来られて「新聞をどう読むか」という講演をされたのを聞いて目からウロコが落ちる学習をした。赤松要教授は「批判なくして学問なし」と繰り替えされていたが経済学概論の試験に「マルクス経済学を批判せよ」という問題が出たのには驚いた。理解もしないうちから批判などできないというのが答えである。しかし、こんなことも記事や書物を鵜呑みにしないで批判的に読まなければならないという教えを裏書きするものであったかもしれない。
新聞界には「記者クラブ」というのがあってそれが排他的なクラブであることは知っていた。一度はある企業の決算発表というのに出たことがあった。社長さんから「良かったらおいでなさい」と声を掛けられていたので、忍び込んだというわけではなかったが部外者であることは明らかだった。決算資料のプリントアウトを貰うだけで誰からも質問がないという張り合いのないものであったが記者クラブの活動の一つには違いなかった。これは「兜クラブ」というものだったが記者クラブと総称して司司(つかさつかさ。官官とも書き役人と政治家が広めた言葉らしい)に盤踞する大掛かりな組織である。
記者クラブの全容に大きく目を開かれたのは『「ザ・リーク」新聞報道のウラオモテ』という一冊の本によってである。1990年1月発行で著者の西山武典氏は元共同通信記者、編集主幹を経て当時の肩書は東海大学講師(新聞ジャーナリズム)であった。内容とするものは、リーク、情報操作、スクープ、権力と癒着などで、それと並んで「記者クラブ制度の功罪」という一章があって記者クラブが「役所の御用聞き」であることがつぶさに書いてあった。反対給付としては、室料は無料、電話などの機器も無料で使えた。(私の知り合いの自治省のノンキャリの女性はお茶を出していたという。)私はここでまた目を開かれて会社でエコノミストとして働いていた元大新聞の記者に話したところ「ええっ、そんなことまで書いてありましたか」という驚きの声が返ってきた。
著者の西山氏はその後まれに「新聞を読んで」などというコラムに寄稿されているのを見た記憶があるが彼の著書とともにその名もあまりお目にかからないままで過ぎてしまった。新聞社は記者クラブの批判にきわめて神経質である。一人や二人のペンマンの意見はあっさりと黙殺される。ジャーナリズムに巣食う文筆家からの加勢なぞは望むべくもない。批判が表面化した(紙上に現れた)のはクラブから締め出されていた海外のメディア・グループからのものが最初だった。もちろん詭弁に事欠かない新聞界はこれも難なく切り抜けた。私はガーディアン紙の駐日記者であったJon Watts 氏に激励のメールを送りそれに対する返信をもらったが彼の見通しも悲観的であった。(私との交信は参考までに末尾に掲載しておいた。)日本のニュースヴァリューが低下するに伴って外紙の駐日事務所はその後、大方は閉鎖されてしまった。
最近また記者クラブがしばらく話題に上ったのは東京新聞の望月衣塑子記者が答えをはぐらかし続ける菅官房長官に食い下がってあからさまな嫌がらせを受け続けてからである。私は納得のいく答えを引き出すまで食い下がる英国流のインタビューに感心していたから望月女子の出現には快哉を叫ばずにいられなかった。政治家を甘やかすのは国のためにならない。だから、その後も不退転の姿勢を示す彼女は私のヒロインである。これ以前にはNHKの切り札的存在の国谷裕子記者がささいなことで官房長官の怒りを買って一線から退かされていた。
予想された事と言ってよいかもしれない。特権にしがみついて離れない新聞社はもとより、本来は利害を共にするはずの記者たちもこれという反応は示さずダンマリを決め込んだままである。メディアが黙ればこれで一件落着という印象が生まれる。一歩前進二歩後退、次の一歩は大きく踏み出さなければならない。
(2)さて新聞は日々コロナのニュースを伝えてくれるが要領を得ない生煮えのレポートが多く疲れるばかりです。なぜなら感染力の強い病菌が世にはびこっていて、ワクチンも治療薬も病床もないというのでは、ましてや老人の致死率が高いというのでは、座して死を待つよりほかないということになります。「命あっての物種」という言葉がにわかに現実味を帯びてきます。
そこで歴史に残るパンデミックなら少なくともはっきりしたことがわかるのではないかと思い、中世1347~48年といわれる黒死病を調べてみることにしました。ところが驚いたことには昔のこととは言いながら、今でも医学的に不明なことがあまりにも多い。一口にヨーロッパの人口の3分の1が死亡したというけれどそれも定かでない。イスタンブールから東の中東やアジアの様子はまるで分らない。時期もヨーロッパだけでも一応の終息を見たのは1953年らしい。
それでも分かることだけでも押さえておきたいという気持ちで纏め上げたものを大塚金之助先生の三大学にわたるゼミ生が出している「大塚会会報」に載せてもらうことにした。ペスト菌の発見には北里柴三郎が一役買っています。ビジネスに倫理観を導入すべく励んだ渋沢栄一とともに近く日本の紙幣に登場するというのは偶然というべきか、天の配剤か、あまりにも時代に即している。
以前に寄稿した「コロナの季節の拾い読み」(5月11日)に私は「この機会に少しでも『デカメロン』を読んでみようと思う」と書いていたが序文の解説紹介を読んだだけでそこからまだ前へ進んでいない。序文の著者のエドワード・ハットン氏は、「チョーサー、シドニイ、シェイクスピア、ドライデン、キーツ、テニスンなどを挙げるだけで英国の文芸がどれだけボッカチオの恩恵を受けているかが分かろう」と述べ、『デカメロン』はシェイクスピアの戯曲やヴェラスケスの肖像画のように「隔絶した」(”detached”)完璧な芸術作品であると評している。
ハットン氏はまた次のようにいう。「かの疫病はフィレンツェ、シエナ、ナポリ、その他イングランドを含むヨーロッパ全般にわたって5人に3人の割合で人を殺害し、中世に幕を下ろした。」この序文は1961年以前に書かれたものであるが5人に3人、つまり死者は人口の60%という推計は綿密な人口推計学にもとづいたオスロー大学のオーレ・ベネディクトウ教授の説(History Today、March 2005)に合致している。
これで中世は終る。かの恐るべきペストが中世の幕を閉じたのだろうか。歴史の教科書ではその後に来るものがルネッサンスである。なぜその後にくる歴史がルネッサンスであり、しかもイタリア語ではなく”Renaissance” とフランス語を用いるのだろうか。この言葉を最初に用いたのは19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレ(1798~1874)である。中世というものが新しく見直され、それに続くルネッサンスという一時期がより広いヨーロッパ的な時代であると認識されるまでに長い年月がかかったと言うことだろうか。
これまでルネッサンスは西欧の文化がギリシャ、ローマに回帰することによって自生的に生まれたとするのが多数説であったがここへきて東方オリエントとの交流が次第にクロースアップされている。それは西ヨーロッパ中世の暗黒を克服して現れたヨーロッパ独自のものではなく、より広い世界との連携によって達成されたという見方である。私が読んだジェリー・ブロットン教授による ”The Renaissance Bazaar” は広い視野の下でそのことを示す一冊である。この題名にある“Bazaar” はシルクロードの東方からの文物の終着点、イスタンブールの「グランド・バザール」と解すべきものに違いない。
ペストに関して私はまたカミュの『ペスト』と並べてシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を思い浮かべていた。「意外に思う人もいるだろうが、ペストはこの芝居のプロットの重要な部分を占めている。」ちなみにこの作品は英文原典講読で富原芳彰助教授の授業で読んだ。しかし記憶に鮮明だったのはその後に見たフランコ・ゼフェレッリ監督の映画のシーンである。ロミオはヴェローナを追放されてマンチュアにいる。そのロミオにジュリエットを仮死状態に置いたことを伝えるはずの使者が同行を依頼しに訪れた修道僧とともにペストを疑われて家に閉じ込められてしまう。家のドアにドンドンと検疫官が激しく釘を打ちこむシーンがあった。ロミオとジュリエットの運命はここで暗転する。
アメリカの雑誌”New Yorker”の5月7日号にシェイクスピア学者のスティーヴン・グリーンブラット教授が「シェイクスピアが疫病について実際に書いていること」という論稿を載せてこの問題に言及している。修道僧のロレンスが使者に立てたのは同じフランシスコ会の修道僧ジョンである。グリーンブラット教授によれば、同派の修道僧は戒律によって裸足あるいはサンダル履きで外出するが同時にまた独りではなく同行者を必要とする。ジョンはマンチュアへの同行を依頼するために友人を訪ねたのであった。このようにただの偶然と思われたことにも深い仔細があった。
ジュリエットが死んだと思い込んだロミオは生きる望みを失い、薬屋に無理に毒薬を売らせる。その時、金を差し出して云うロミオのセリフが振るっている。
「この世はお前の味方ではない。この世の法律も。この世はお前を豊かにする法律を作りはせぬ。貧乏を捨てろ、法律を破れ、そしてこれを取れ。」(小田島雄志訳)
私は長い間このセリフを覚えていたがいつの間にか厳密な原文を離れて「見ればしがない薬売り、法律はお前の味方ではない。法を破ってこれを取れ。」というセリフに変形していた。私はこのセリフに着目して試験の答案をまとめたのであった。
シェイクスピアが生きたのは感染症が熾烈を極めた時代である。ストラットフォード・アポン・エイヴォンの教区レジスターの1564年4月26日の受洗を示すCの項にはウイリアム(ジョン・シェイクスピアの息子)の名が記録されている。(ちなみにルネッサンス盛期の巨匠ミケランジェロの没年はシェイクスピアの生年に等しい。)しかし、そのすぐ後に続くB(埋葬)の項には数多くの死者のリストが並び、その余白には「ここに疫病が始まる」と書かれている。
シェイクスピアの作品には疫病(plague、あるいはpest)を正面から取り上げたものはないというがそれは疫病が日常茶飯のこと、死の一つの形態に過ぎなかったからかもしれない。ただし、怒りや嫌悪を表す言葉として”plague” は頻出する。(今日でも、とりわけ”pest”は迷惑な人、困った物事などを表すのに日常的に使われる。)
グリーンブラット教授はさらにもう一つの作品『マクベス』にもペストの影を読み取っている。しかしそれはペストそのものではなく、王権を簒奪したマクベス治下のスコットランドの情況描写に転用されている。そこでは笑顔は消え、人々はなすすべを知らずにいる。
『みじめな国だ、おのれがどういう状態にあるか知ることさえ恐れている。
あれはもう母国とは言えぬ、墓地というほかない。
何も知らない赤ん坊ならともかく、笑いを誘うものは何一つない。
溜息、呻き、嘆きが天をつん裂くが気にとめるものもない。
激しい悲しみの情も日常茶飯としか見えない。
弔いの鐘を聞いても誰が死んだか問うものもない。
人々のいのちは帽子にさす花より早く枯れしぼみ、
病気でもないのにばたばたと死んでいく。』(小田島雄志訳)
『マクベス』の初演は1606年と推定され、1603~1604年の疫病の蔓延はまだ記憶に新しかった。同じ1606年の夏、疫病は再発し劇場は7~8か月ほど閉鎖を余儀なくされた。1603年にはエリザベス女王(Ⅰ世)が崩御し、スコットランドからジェイムズⅠ世が迎えられたが、疫病のためにロンドンへの遷御は遅らされ戴冠を祝う祭典も延期された。
シェイクスピアは登場人物に疫病の医学的解決に対する懐疑の念を述べさせている。その時代の科学の水準を知るわれわれとしては、そのような悲観論に同意しないわけにはいかない。そこでシェイクスピアはもう一つの疫病、すなわち偽りにみち、無能で、道徳的に腐敗し、血まみれで、ゆくゆくは自らを滅ばすことになる指導者に焦点を合わせたのである。いつの世も同じと言ってよいだろうか。どこからどこまでが現代と似ているかは読む人の心次第である。
(注)記者クラブについての英人記者との交信。2002年12月4日。
Dear Mr. Watts,
Your report on the Japanese media, calling them the fourth estate and adding them to the ranks of the ‘iron triangle’ is quite right. Their conspiracies of silence are doing a lot of harm to the people’s right to know. One point I want to add is the fact that Kisha clubs were made a full use of by the military in the media control during the war years. You will find some of the vestiges of those years are still there.
Dear Oshima-san,
Many thanks for the encouragement and information about the kisha clubs during the war years.
Given the turf wars between ministries, I do not hold out much hope for the abolition of kisha clubs any time soon.
But I think the EU has resurrected a debate about a system, which even few Japanese journalists are willing to defend.
As well as the issue of media freedom, it seems very outdated and inefficient.
And it does no good at all to Japan’s international reputation.
Best regards,
jon
一橋33ネット諸兄姉
■メッセージ 大島昌二 2020.9.16
「コロナの季節の拾い読み(2)」で私は、「ロミオとジュリエット」の映画の監督をフランコ・ゼフェレッリとしましたが私が実際見たのは別の監督による作品でした。その後ゼフェレッリの作品を見る機会がありましたが私が感心した二つのエピソードはいずれも無視されていました。この映画ではペストは現れず、また僧ロレンスの使者は一人でロバに乗って出かけて行きました。NHKの放映を見た人もおられるかと思い謹んで訂正いたします。
[メールボックス投稿日時] 2020年09月16日 12時31分48秒 お名前 : 大島昌二(oshima3@work.email.ne.jp)