U市畑進:阿部謹也の功績2022.9.4 Home

33年net諸兄姉どの(2022.9.4


今日は阿部謹也君の16周忌である。わたしの持っている彼の著作は

「ハーメルンの笛吹き男 - 伝説とその世界」平凡社 1974年、ちくま文庫 1988年

「世間とは何か」1995.7.20講談社現代新書

「教養とは何か」1997.520講談社現代新書

「日本社会を生きると云うこと」1999.3.25朝日新聞社

「日本人の歴史意識」ー「世間」という視角からー2004.1.20岩波新書

「阿部謹也自伝」2005.3.25株式会社新潮社

阿部謹也追悼集刊行の会編集:「最初の授業最後の授業 附・追悼の記録」(2008.9.4日本エデイタースクール出版部)

彼は、自伝の中で固有の問題で頭を悩ませことがある。それが一橋大学の「キャンバス統合問題」と教養課程の改革問題、そして学長選考問題である(同書p222)と書いている。そこで教養課程の改革問題はわたしの理解外なので「キャンバス統合問題」、「学長選考問題」ついて彼の思い出として書いてみる。

★「キャンバス統合問題」

平成4年に阿部君が一橋大学学長に就任したときに、偶々私が(社)如水会の理事で末席を汚していた。卒業以来個人的に出会うことはなかったが「キャンパス統合問題」でふかく付き合うことになった。

四年一貫教育をめざす国立・小平の「キャンバス統合問題」については昭和35年「前期制度検討委員会、昭和40年「キャンパス問題検討委員会」、その後も幾つもの委員会による答申が出されるなど、爾来30年にわたり「キャンパス統合問題」として議論が積み重ねられてきた。昭和62~63年文部省との交渉の結果「キャンパス統合」は困難であるとの結論に達していたという。同時に当時の小平キャンパスは、本館(昭和8年6月30日に落成)、講堂、特別教室は築50年を越え可也老朽化していた。そこに平成2年(1990年)、文部省から大学に、小平の国立への移築の打診があったという。これが日米構造協議の内需拡大策の余波であったかもしれないが、これは小平老朽施設の国立への新設移転、四年一貫教育の実現のチャンスだった。当時の塩野谷祐一(昭和30年院経、33年博経)学長は平成3年に二つの委員会(国立の施設配置の検討委員会と小平の跡地利用に関する検討委員会)を設置して検討に入った。しかし、平成3年は特別枠での概算要求の機会があったにもかかわらず、昭和44年の学生自治会と評議員会との間に締結された「全学的重要事項の交渉権」を与えた協定―通常三・一協定に基づく団体交渉が不調で流れてしまった。平成4年、大学(執行部)は小平キャンパス利用問題懇談会の最終報告「一橋大学ニュース一九九二・三号外」。続けて小平建物の移転改築問題(第二版)「一橋大学ニュース一九九二・六号外」をだし、広報活動を活発化して6月24日の大学評議会に臨むことになった。小平キャンパス移築費約20億円を、平成5年度の概算要求として決定する筈であった。ところが、評議会開催前から様子がおかしくなってきたという。6月22日、この事態を深く憂慮した如水会鈴木永二(昭和12年学、三菱化成社長・会長・相談役、故人)理事長は塩野谷学長に理事会決議の親書を送り、概算要求の決定を要請した。23日の塩野谷学長からは「われわれはご憂慮真剣に受け止め、対処する所存であります。(略)」と云う返書を受け取っている。

併し6月24日に開かれた大学評議会では、執行部提案である小平の国立移行に関する予算の概算要求を見送るという決定だった。要は否決されたのである。

この知らせを聞いて如水会の首脳陣は愕然とした。鈴木理事長は「小平問題の原点を失った。これでは母校の建て直しは出来ない」と嘆かれた。塩野谷学長は、そのあとの返書の新提案「平成6年の提出」を7月8日の評議会で可決しようとしたが不調に終わった。7月27日の如水会理事会での中川学(昭和30年院経、33年博経、故人)教授の報告には、7月17日に学長が補佐役中川教授とともに概算要求見送り(否決)を報告に文部省に出向いたこと、高等教育局長(多分遠山敦子)、大学振興課長に面会したが、「お宅の大学はどうなっているのですか」とあり、「(面会は)30秒で終わる」と私のメモ書かれている。鈴木理事長は6月末をもって任期満了で退任し、塩野谷学長も11月末をもって学長退任。両氏ともさぞ無念であったろうと思う。塩野谷学長の任期中、国がカネを出すからと一致するのに、予算申請をださない。何故か二度も否決されてしまう。中には日米構造協議の内需拡大に反対する一派が策動しているという話もある。代わって理事長には斎藤裕氏(昭和17年学、新日鉄社長、故人)が就任した。そして平成4年12月、同期の阿部君が新学長に就任した。まさに火中の栗を拾うことになった。私も、理事会の末席から眺めているわけにいかなくなってしまった。以下は追悼集p272~280をご覧いただければ幸いです。

★「学長選考問題」

阿部謹也君は、学長第二期、既に人工透析患者であり、その中で大学Autonomy(自治)がもたらした歪みと戦った。そもそも、大学自治はいかなるものであったかを知らなければならないだろう。高瀬荘太郎東京産業大学学長が教授会で諮った言葉に由来している。高瀬学長は、「学園ハ学術研究ナル共通ノ目的ヲ有スル研究者、教職者並ビニ学生にヨリテ携成セラレタル共同体ナリ。大学長トシテ推薦セラルベキ者ノ選定ハ各部研究者科、教職者全員ノ意志ヲ参加セシムベシ。ソノ推薦アタリテハ適当に学生ノ意志ヲ反映セシムベシ」と述べた。その後昭和21年1月14日に「大学長推薦規則」か制定された。そこでは教官のはぼ全員と高等官たるたる職員がが選挙権をもつことになっている。

 またこの規則には内規があり、「推薦委員会か推薦せんとする候補者に学生の総意を徽し、適任ならずと認むる者あるときは之を候補者よりより除斥するものとす。除斥は六月以上在学する者の投票に付し、総数の3分の2以上(のちに2分の1になる)の得票ある候補者に付き之を行う」となっているこれにより上原専禄教授が最初の学長になり、1949.5.31国立学校設置法が交付され、東京商科大学に代わる一橋大学が発足した。戦後の世の中が落ち着き、この「大学長推薦規則」で学長が決められて来たが、種瀬学長の任期到来1986年(但し1986年(昭和61年)6月17日)任期満了前に死去された)で、今井賢一が立候補した。学生投票により除斥されるという驚愕すべき事態が起きた(一説によると今井賢一が寮費の値上げ賛成したことによるという。今井賢一が学長になっていれば今日の大学もかなり変わったであろうと思われると、誠に残念だ)。すでに各大学で同様な「大学長推薦規則」は廃止され、残っているのは一橋だけであったが、文科省は改正を求めるものの、事が起きなければと、学長になる人には文部省に一札を入れて、先送りを重ねていた。安部君は1998.06.15の現行の「大学長推薦規則・内規」から①職員助手を含むと学生・院生の参加条項を削除、②職員については学長候補推薦権本選挙の選挙権を削除するを提案、評議員会で可決した。11.18っ有権者投票で職員傘下の条項が削除され、学生と団交も10.17に行われ、6時間かかったと云われる。彼の2期目の任期は11月30日であったからぎりぎりの決着であった。

この「大学長推薦規則」の廃止をもって、一橋の「自由」の象徴がなくなった。一橋の「自治」は終わったと嘆く人もいる。一橋の「自由」の象徴がなくなったと嘆く人も結構いる。校歌「武蔵の深き」の「自治の鐘」、「自由の殿堂」とは何だったのか。

10.29 兼松講堂に於いて阿部謹也君の「お別れ会」が実施された。主催はどこかはっきりしない。如水会の首脳陣も探した限り来ていない。列席者によれば出版社でないかという話であったが、実体は社会学部であった。杉山学長から阿部君の社会文化への貢献、当大学改革の功績、特に長年の懸案であった小平分校の国立への併合等々に就いて弔辞が述べられた。ほかに弔辞を述べたのは樺山紘一氏(歴史家、印刷博物館館長)、日高敏隆氏(総合地球環境学研究所所長)木村孟氏(大学評価・学位授与機構長)阪西紀子氏(ゼミ生、一橋大学社会学研究科助教授)であった。なお、日高敏隆氏と阪西紀子氏は故人である。午後4時マーキュリータワーに移り、追悼会が行われ、わたしも追悼の挨拶をした。

また、33年会では別途に11.20に「偲ぶ会」を開いた。

彼の言葉を借りれば「一橋大学」と「如水会」という「世間」との戦いであったと思う。

そして風のごとく登場し、風のごとく大学を去り、この世を去ってしまった。彼の功績は一橋大学のある限り、永久に顕彰されねばならないと思う。

イチハタ