画像生成AIによる写真作品について
2023.7.3/羽島 賢一 @33Net
* 生成AIの時代に突入
テレビや新聞で生成AIが取り上げられない日はないほど、生成AIが関心を集めている。
就中、Chat GPTが話題となっている。生成された文書は、真実か虚構か、著作権は誰にあるのか、個人情報が抜き取られないか、など様々な意見が飛び交っている。それは国レベル、いや地球レベルの課題となってきた。ここでは、羽島が直面している画像生成AIに絞って記したい。
Stable diffusion、 Midjurny、Bing Image Createrなどの画像生成AIは、昨年から急速に普及し、現在は誰でも自由に、しかも無料で利用できるサービスになっている。
ポスター、(芸術)写真作品、など広い分野で利用されている。報道分野でもフェイク画像が登場し、物議をかもした。例えばこの写真である。
静岡の洪水被害写真は、川の流れの不自然さ、木の影の向きが不統一などから、合成されたフェイク写真であると判明した。
ペンタゴン爆破報道は瞬く間にSNSで拡散され、NYダウが80ポイントも下落するなどの影響があった。
このように悪意で利用されると、写真が持つ実在の被写体を写し取るという特性が損なわれることとなる。防犯カメラの画像などの証拠写真としての立証性が失われる。わが身に置き換えてみると、知らぬうちに顔写真が流失し、ビッグ・データに収集され、宝石店泥棒の被疑者に仕立て上げられるかもしれない。
画像生成AIとは何か? 実例で紹介してみよう。
俳聖松尾芭蕉の奥の細道から2句選んで、芭蕉が目にしたであろう風景をBing Image Createrを使って再現してみよう。
『荒海や佐渡に横たふ天河』をそのままの分かりやすい文章にして、「荒海に浮かぶ佐渡島と天の川」を指示文書(プロンプト)にして入力すると、瞬く間にこのような画像が表示される。
同じく、『 五月雨を集めて早し最上川』「五月雨で流れの早い川に小舟が浮かぶ」も試みた。
プロンプトは、Google検索のように「荒海 佐渡島 天の川」などに複数のキーワードにしてもよい。キーワードを追加して修正するのもよい。
芭蕉の時代の佐渡島は可愛らしい小島だったようです・・・・
最上川は昔から日本の三大急流だったことが分かります・・・
この例は遊びだからどうでもよいのですが、生成AIを写真の分野で活用するには多くの課題があります。
21世紀初頭、ハードウエアーとしてのデジタルカメラ、ソフトウエアーとしてのPhoto Shopなどの画像処理ソフトの急速な進歩と普及で、従来からフィルムカメラに馴染んだ写真家・写真愛好家の間に様々な戸惑いと議論が沸き起こりました。
主な論点は、デジタル写真がもつ、誰でもが簡単に利用できる加工技術の利用についてであった。フィルム時代から写真は「TakeとMake」のプロセスから成ると言われてきた。換言すれば「撮影技術とプリント技術の両方」が大切だということだった。しかも、二つの技術の自由度は低かった。
ところが、機材やソフトの進歩につれ、人間技の撮影に比べて撮影後に使うソウトウエアーに依存するプリント技術が高度化し、銀塩フィルム時代には表現できなかった領域の写真が出現した。
端的に言うと「これって写真なの?」と言いたくなる作品である。
写真の原点は、 Photo (光)+ Graphy(表現・記述)であります。
このことについては昨年書いた文章を最後のところに貼付しました。
* 画像生成AIの問題点
・ 著作権・肖像権などの権利関係
画像生成の過程でビッグデータからプロンプトに従って素材を選択しますが、生成された画像の著作権などはこれらの元データの所有者に帰属するのか、生成に際しキーワードを入力した人(プロンプト・エンジニヤー)に帰属するかは今だに定説はありません。
本年5月に大手出版社集英社から上梓された写真集「生まれたて さつき あい(五月のAIか)」は、週刊プレイボーイが長年にわたり蓄積したアイドルグラビヤ写真データから生成されたものです。
この写真集は発売から1週間で販売停止になりました。「さつき あい」が昔掲載された女性に似ているという指摘から、権利関係の争いが懸念されたというのが理由のようです。
・ 写真といえるか・・ 伝統的な写真とは別物か? Photo (光)+ Graphy(表現・記述)
・ 記録といえるか・・ 真実性・記録性・情報操作に問題あり
・ 各種コンテストの対応は混迷
羽島が実行委員をしている「芦屋写真展2023」の応募要項には「レタッチ・加工は自由ですが、AI生成ソフトで制作した作品は不可」と明記しました。来年には「応募者本人の撮影になるものに限る」などもう一段の強化が必要かもしれません。また、ソニー・ワールド・フォトグラフィー・アワード2023入賞作品はAIで作成されたことが判明し、入選取り消しになっています。欧州でのコンテストでも類似の事例が発生しています。
* 羽島の作品制作姿勢
私は、銀塩フィルム時代に使われていた技法に限定して、Photo Shopなどのソフトを使っています。例えば、大阪にある日本一高いビル「アベノハルカス」を円形歩道橋の隙間から見上げた時、天空に鏡があったらどんな景色が見られるのだろうかと自問し、空に鏡を置くのではなく、上下反転した画像を作り重ね合わせてみました。鏡なら上下左右なのでしょうが上下だけにしました。
「アベノハルカスの怪」と題したこの作品は、2023芦屋写真展入選作品です。もう一つの作品は、8月に開催される「旧三商大写真展」に出展する「パロ・グランデへ疾走」という作品です。パナマのパロ・グランデへ蒸気機関車に牽引された列車に乗って行くことを想像して作った二重露光の技法を使った作品です。
以下に昨年書いた拙文を貼付しました。芦屋写真協会実行委員会での問題提起です。
最近のデジタル技術の進歩についていけない羽島の写真は「写真」という名称を捨てて、Photo Graphyを文字通りの嘗て存在した「光画」に変えて、AI写真と一線を劃そうとの提案である。
「写真」に代わる言葉「光画」
21世紀に入りデジタル写真技術の急速な進歩に伴い写真表現の領域は拡大してきた。
芦屋写真展2022の入賞作品を見るとこの傾向が顕著に見受けられるようになった。
写真の作品作りは、最初はshot、慣れるにしたがってtake、長じてmakeと、三段の階段を登るべしと言われたことがあった。今日は別の意味で、takeからmakeへと変わりつつあるようだ。makeもはmake upと言ってもよいだろう。
「写真」という言葉は文字通り被写体をあるがままに撮影し、印画に定着するイメージである。
このイメージを覆すような写真すなわちリアルな被写体でなく、デジタル技術を駆使して作られたいわば「虚構の世界」を追求した作品の出現に対応し、「写真」に代わる言葉が求められる。
正岡子規がベースボールなる舶来語に「野球」の文字を与えた故事に倣って、フォトグラフィなる英語に相応しいデジタル時代の用語を提案したい。それは「光画」である。
日本に写真が到来した安政時代1857年ではフォトグラフィは写真と訳されず、「印影」「直写影」「留影」「撮景」と書かれていたことが文献にある。(写真機は印影鏡・直写影鏡・印象鏡などと呼ばれていた。)
しからば、写真なる言葉の出現は何時なのだろうか。
1862年長崎の上野彦馬が「一等写真師」と写真館の看板に表記した。ほぼ同じ時期江戸の勘定奉行川路聖護が書いた文書に「写真鏡」という単語がある。その後、写真なる単語が今日まで使われ続けた。因みに中国では「照片」が用いられている。
日本語の写真を英語に翻訳するにしても「Take a truth」や「Take a real object」などとは言わず、「Take(shot) a picture」「Take(shot) a photograph」などで、まさに「光画」である。写真なる語は日本独特のものであり、デジタルの今日では時代遅れではないだろうか?
デジタル写真の可能性が大きく広がった今日、ここで一度「写真」なる言葉の制約から自由になるために新しい用語を考えてみるのも意味があるのではないだろうか。
迷った時には原点へ戻れという言葉があるが、写真の原義Photographyすなわちギリシャ語のフォトン(光)に由来する「光で描く」意味に戻って、写真よりも広い意味を持つ「光画」に変えたらどうだろと私は思う。 文字を変えることが困難であっても、一人一人の頭の中を柔軟に変えて、もう一つ別の写真のカテゴリーがあるのだと認めることが必要である。老生はそこまで活動の場を広げるのは躊躇するが、これも光画なのだと認めてやろう。改めて言う、時代遅れになってしまった単語「写真」を捨てて、これからは「光画」と言おう。
そういえば、昭和初期に「光画」という写真雑誌があった。
野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人として刊行されたものである。父が銀行を経営していた野島が資金を出したようだ。光画はフォトグラム、モンタージュなどを用いた新興写真をリードしたハナヤ勘兵衛も、ハナヤ勘兵衛と桑田和雄の名を使い分けて作品を発表しているそうだ。わずか18巻で休刊となってしまったが、多くのメンバーは名取洋之助が設立した日本工房へと移籍して活躍している。
飯沢耕太郎は『写真に帰れ 「光画」の時代』 1988平凡社刊を著している。「写真に帰れ」は評論家伊奈信男が雑誌光画に発表した「写真に帰れ」に由来すると思われるが、伊奈の主張は「芸術寫眞」から離脱し、写真家の社会的な役割を説いたと伝えられているので、私が求めている写真より広い領域を表す光画ではなさそうだ。 むしろ伊奈の主張は日本工房設立につながったのだろう。
飯沢のこの著作を一度読んで彼の意図を知りたいと思うが、中古本でも高価であり手が出せない。
新しい写真のへの挑戦は、常に行われていた。その例として、1931年朝日新聞社が主催した独逸国際移動写真展がある。同展は4部構成となっていて、その 第4部には「応用的自由加工写真」の名が附せられていた。芦屋写真展における「創作」部門に類するフォトモンタージュなどの作品であった。
飯沢耕太郎は「ただ、たとえ伝統的な銀塩写真がすべてデジタル映像に置き換えられたとしても、リアルな現実世界を描写し、再構成する写真的な経験というべきものは残っていくのではないでしょうか。現実世界のすべてをヴァーチャル・リアリティで覆いつくすことは不可能だからです。痛みに打ち震え、欲望に突き動かされ、歓びや哀しみを生の経験として受け容れる、そんな人間たちの存在証明として、写真は撮り続けられていくでしょう。」と書いている。(「写真美術館へようこそ」講談社現代新書 P187)
写真の拡張概念「光画」の中に包摂される、老生が慣れ親しんだ私の写真ともうしばらく付き合おう。
光によって生まれ、光によって鑑賞される光画の将来を問うとしても、写真はその本質において優れてテクノロジー系の芸術だから、今後いかなる道を歩むか予測は困難である。
2022.6.18 羽島賢一記す